10-11 孤立無援
温泉を存分に堪能した。
火照った身体を冷ますべく、部屋に戻って、縁側の座椅子に腰掛ける。
窓を開けると、宿のすぐ傍らを流れる、宇治川のせせらぎが聞こえてきた。
清涼な音色と、吹き込むそよ風で、体温を冷ましていた。
浴衣の胸元に、ウチワで風を送りながら、ミズキは複雑な心境を呟く。
「せっかくだから、旅館を満喫しちゃってるけど。これってどういう状況なんだろう……」
湯に浸かることで、一時的に現実逃避できた。だが改めて部屋に戻ってくると、自分を取り巻く不穏な状況が気にかかり、心配になってくる。現実に戻ってきた気分だ。
「お父さんやお母さんに、なにも言わずに出てきちゃった。スマホはトウゴさんに壊されちゃったし、連絡もできないよ。きっと今頃、心配かけてるよね……」
たとえ連絡できたとしても、この状況を何と説明すれば良いのだろう。検討もつかない。近所の喫茶店で、悪霊たちに襲われたのだ。トウゴの推察によれば、悪霊たちは、自分たちの存在を認識できる、霊感を持ったミズキが普通の人間ではないと考えたらしい。同じく霊感を持っているトウゴの仲間だと勘違いしたようで、トウゴを狙っていた怪物たちに、命を狙われることになってしまったのだ。
「完全に巻き込まれ事案だし……でも全部が全部、トウゴさんが悪いってわけでもなく、まずいタイミングで出くわした、私の運が悪かったせいでもあるし。これから私、どうなっちゃうんだろう」
峰御トウゴ。近所の喫茶店に、兄のユウトと居候している。住所不定で経歴不明の人物だ。昨日までは、工場夜勤の仕事をしている、近所の気の良いお兄さんだとしか思っていなかった。だがその実態は“解決屋”という、霊能力を駆使した仕事をしているらしい。
ミズキにも霊感があるから、まだそのトンデモ話に理解が及ぶものの。霊感のない両親にそんな話をしたら、トウゴに関わることを金輪際、禁止されてしまうだろう。世間一般の常識で考えれば、霊能力者など、いかがわしいにもほどがあるプロフィールに違いない。こんな事態になっていなければ、ミズキだってトウゴから距離を置いたかもしれない。
何となく、膝を抱えてしまう。
「……けど、ちょっとカッコいいんだよね」
やさぐれているというか。
ワルっぽい感じのする、年上の男の人だ。
前々から、少しだけ「良いな」と思っていたのはたしかだ。
そこまで思い返すと、急に胸がドキドキしてきた。
ふと室内を見やれば、布団が2つ、敷かれているのが目に付いた。
「やば。私、本当に男の人と2人きりじゃん」
わかっていたことだが、今さらになってその意味が深刻さを増したように思えた。湯で火照った身体が冷めてきたかと思いきや、また体温が上昇し始めている。ミズキは布団の1つの上に寝転がり、早い鼓動を打っている胸元を両手で押さえた。
「落ち着いて、ミズキ。深呼吸よ。大丈夫。変なコトになんてならないわ」
変なコト。その言葉を口にすると、具体的な想像がアレコレと頭をよぎり始める。場面を想像しては、「もう少しかわいい下着を着ていれば」などと、いらない後悔がよぎる。そんな自分の思考が恥ずかしくなって、ミズキは顔を赤くする。
「う~~~っ……! 私ったら何考えてるのよ、ミズキのエッチ!」
想像したことが恥ずかしすぎて、ミズキはグルグルと目を回している。思わず、枕を手にとって、自分の顔に押し当てた。冷えた枕の生地で、頬の熱を冷ましながら、少し不貞腐れたように、唇を尖らせ、呟いた。
「……取って食ったりしないから安心しろって、なんかトウゴさん、私に興味ないみたいじゃない。ちょっとくらい恥ずかしがったりしてくれないと、なんか不公平じゃん」
大人の余裕というヤツだろうか。これから女子高生と2人で旅館に泊まるというのに、何でもないような態度だった。まるでミズキのことを、異性として意識していない様子である。自分が特段に美人というわけではないと思っているが、トウゴの態度は、なんだか不服だった。
「って、べ、別に取って食って欲しいわけじゃなくて! もう少し私のことを女として意識しても良いのにっていうか! あーもう違う! き、期待してるんじゃないんだから! なんなのよもー!」
駄々っ子のように、ミズキは手足をバタバタとさせる。
そうして布団の上に大の字となり、ボンヤリと天井を見上げた。
悪霊に命を狙われているなんて異様な事態に、現実感はない。
こうして宿の部屋でくつろいでいると、ただの旅行に訪れているような気がしてくる。
「……?」
ふと、部屋の戸の向こう。廊下の遠く先から、何かをひっくり返したような、激しい音が聞こえてきた。壁を蹴ったような音。何かが爆ぜたような音。誰かと誰かが争い、暴れ回っているような騒音だ。
「なに……?」
ミズキは布団の上で身を起こした。音は徐々に近づいてきているようで、思わずミズキは立ち上がり、身構えた。間もなくして、女性の悲鳴が聞こえてきた。何かただならぬことが起きているようだ。
「やだ、もしかして追っ手のお化け……!?」
肝を冷やしたミズキが、そう呟いてすぐだった。
部屋の引き戸を叩きつけるように開いて、男が現れた。
左眼に眼帯をした見知った顔が、息を切らしながら血相を変えている。
「トウゴさん!?」
「今すぐ逃げるぞ、ミズキ! 準備しろ!」
いきなり現れたかと思えば、トウゴは警告して戸を閉める。ミズキの横を通りすぎ、縁側に出て、周囲の様子を観察し始めた。何かを探している様子である。そうしている間にも、廊下の方では誰かが暴れ回る音が聞こえている。何かが、もうすぐそこまで迫ってきているようだ。
「いったいどうしたんですか!? トウゴさん、頭から血が出てますよ?! しかも、その手に持ってるのって……てっぽうですか?」
トウゴは負傷している様子だった。額が少し切れており、そこから流血している。よく見れば、着ているジャケットもあちこち裂けていて、その奥には、出血した素肌がチラホラと見えていた。誰かにナイフで襲われ、格闘してきた。そんな状態に見える。それも気になりはしたが、ミズキはトウゴの手にしている自動拳銃に、目が釘付けになった。
トウゴはミズキの視線に気付いた様子だが、手にした銃を隠すこともない。空になった弾倉を取り出し、ポケットに忍ばせていた予備弾倉に交換して、ブツブツと呟く。
「あの野郎、妙な異能を使いやがって。しかも魔導兵とは思えない、人間離れした動きをしやがる。なら魔術を使える人間じゃなくて、クラス4の異常存在ってことか? 冗談じゃねえ、帝国の管理下にいるわけでもない異常存在が、組織だって動いてやがるってのかよ。まさか、ブラッドベノムって半グレ組織の連中は、全員が……!」
「トウゴさん、何を言っているのかわかりません! わかるように説明してくださいよ! 廊下のあの音、もしかして私たちの追っ手なんですか?!」
「ああ」
「……!」
「しかも1人だけじゃなかった。旅館の外にも、確認できただけで3人。もっといるだろう。気付いたのが早かったから、こうして何とか足掻くチャンスを得てるが、たぶんもう包囲されかけてんだ。ここに俺たちがいるのも、すぐにバレる。カールがやられたし、兄貴も無事かわからない。とにかく今は、お前だけでもここから逃がす」
「え? カールさんとユウトさんも、この辺にいたんですか?! やられたって……」
「……」
トウゴは、苦々しい顔で沈黙する。
その反応が不穏すぎて、ミズキは固い唾を飲んだ。
血の気が引いていく思いだ。
「もしも俺に何かあったら、これを渡せなくなる。だから今のうちの渡しておくぜ」
トウゴはジャケットのポケットから、何かを取り出した。
それをミズキに手渡してくる。
「こ、これって……指輪!?」
男性からいきなり、指輪を手渡された。
その意味を考えると、ミズキの頬は耳の先まで熱くなってしまう。
頭から湯気を出して、ミズキは激しく困惑している。
「こ、こんな時に、指輪だなんて……! 私まだ、ぜんぜん心の準備が……!」
「いいから黙ってつけておけ! 時間がねえんだ!」
「は、はわわわ……!」
トウゴはミズキの指へ、強引に指輪をはめる。はめる指はどこでも良かったのだろうが、右手の薬指である。まるで無理矢理に、トウゴのモノにされてしまったようで、ミズキの心臓は破裂しそうなほどに鼓動を早めていた。指輪を見下ろしながら、ミズキは撃沈されたように、真っ赤になって俯いてしまう。
――――部屋の引き戸が開かれる。
「え……? ユウトさん?」
現れたのは、トウゴの兄。
ユウトである。
いつもヘラヘラした笑みを浮かべている、酒臭い大人である。だが今日は笑っておらず、酒臭くもない。普段と違う、冷ややかな眼差しで、トウゴとミズキをジッと見つめてきていた。
トウゴは銃口を兄に向けて、ミズキに応えた。
「兄貴じゃねえよ」
「え? でも、どう見てもユウトさんじゃ」
「兄貴じゃねえ! コイツは他人の姿を真似する異常存在! “OL殺人犯”だ!」
「!?」
事情はわからないが、「殺人犯」という説明を聞けば、相手の危険さがすぐにわかった。ミズキは青ざめ、トウゴの背後へ身を寄せる。
トウゴは、部屋の隅に置いてあった自分のバックパックを拾い、中から筒状の金属塊を取り出した。片手でピンを抜いて、ユウトの偽物に向かって投げつける。
「ミズキ! 目を閉じろ!」
「!?」
言われるがままに瞼を閉ざした直後、皮膚を隔てていても目を焼くような、白い閃光が迸る。閃光手榴弾による、目眩ましである。強烈な閃光で、ユウトの偽物はスタンしている様子だった。同様に、視力を奪われてスタンしているミズキの手を取り、トウゴは告げる。
「悪いが、身体に触るからな」
「へ?」
トウゴは、浴衣姿のミズキを抱きかかえた。
そうして駆け出す。
「こ、これ、お姫様抱っこ!?」
「縁側から外に出る! さっき見た限りじゃ、駐輪場まで敵の姿はなさそうだった! このまま一気に駆け抜けんぞ!」
「ま、待ってください! 私の着替えと荷物が! って、ひゃあああ!」
皆まで聞かず、トウゴはミズキを抱えたまま縁側に飛び出て、草藪の中を突き進む。そのまま宇治川の川辺に沿って、駐輪場までの道のりを疾走した。
◇◇◇
京都府警本部。
夜も遅いというのに、外事課の部長室には、明かりが灯っていた。
『どういうことですか、外事部長! 宇治川近辺で、複数の発砲事件の通報があったんですよ! なのに、警官を誰も出動させるなというご命令は……いったい誰の権限で、そんなことがまかり通るんですか!』
受話口で、部下が口うるさく食い下がってくる。
外事部長は嘆息を漏らし、何度目かわからない答えをくれてやった。
「今件は外交問題に発展しかねない、重要案件だ。機密事項のため、君たちに詳細の説明はできない。権限という話であれば、官邸からの通達だと言えばわかるかな? とにかく、うちの警官は誰1人として出動させてはならない。全員、持ち場で待機だ」
『しかし! 市民の安全を守るのが、我々、公僕の勤めのはずです! 今この時に起きている事件に目を瞑れというのは、納得がいきません!』
「安藤くん。君はたしか、定年まで残り8年くらいだったか?」
『……!』
「子供は来年から、大学生だろう? 学費の工面といい、老後の暮らしといい、これから何かと金がかかる時期だ。退職金は満額欲しいだろうし、職を失うわけにもいかんだろう?」
『……いったい、何をおっしゃりたいんですか』
外事部長は、ニヤリと笑んだ。
「私は難しいことを頼んではいないだろう。外交問題になりかねない重要案件につき、警官を出動させるなと言っている。官邸からの命令だ。私の責任でも、君の責任でもない。なら素直に従っておくのが、賢い選択だとは思わないか」
『……』
「異論がなければ、命令を復唱したまえ」
外事部長の言葉の後に、遅れて部下の返事が返ってきた。
『……本件は外交問題になりかねない重要案件につき、警官を出動させません』
「よろしい。他に用がなければ、話は終わりだ」
外事部長は受話器を置き、通話を終える。
そうして椅子の背もたれに寄りかかり、応接デスクに座っている客人へ微笑みかけた。
「全て、ご要望の通りです。アレイスター米国大使殿」
応接デスクのソファに腰掛けた、金髪の外国人は、不敵な笑みを浮かべていた。