0-3 【回想】埼玉連続家族殺人事件
……物音が聞こえた気がした。
少年は、静かに目を覚ます。
瞼を開いても、周囲に光は見られない。
消灯している室内は、寝る前と同じ、真っ暗のままだ。
どうやら、まだ夜は明けていないのだろう。
ベッドの脇の目覚まし時計を確認すると、時刻は深夜の2時だ。
「…………なんだ?」
目が暗闇に慣れてきた頃、また物音が聞こえた。
ゴン! という、鈍い音だ。
鈍器のようなもので、床を叩くような音。
少年はベッドから起き上がる。
リモコンで、部屋の電灯を点けようとするが……点かない。室内を見渡してみると、普段は点灯しているスピーカーやゲーム機の電源ランプも点いていなかった。
「停電……?」
そう思った。
仕方なく、少年は枕元のスマートフォンを拾い上げた。
ライトを点灯させて、周囲を照らす。
寝間着姿のまま、自室のドアを開けて廊下に出る。
…………静かな夜だった。
特段、奇妙な点はない。
いつもの見慣れた、2階の廊下だ。
「気のせいだったのかな」
異変はない様子だが、停電はしている。電力の復旧が必要だろう。
たしかブレーカーの位置は、キッチンの近くの配電盤だったはずだ。
少年は階段を降りて、1階へ向かった。
こんなことは、落雷で倒れた木が、近所の電線に引っかかった時のこと以来である。今夜は悪天候というわけでもないため、また何か違った停電の原因があるのだろうが、今のところ思いつかない。
キッチンへやって来た少年は、そこに先客がいることに気が付いた。
「あ、姉さん」
冷蔵庫の前に立っている、姉の姿を見つけた。
片足が不自由な姉は、いつもの杖をつき、こちらに背を向けて立っている。
喉が渇いて、飲み物でも探しに起きたのだろうか。
姉は冷蔵庫を開けて、中を覗き込んでいる様子だ。
停電のため、姉が開けている冷蔵室内にライトは灯ってない。
真っ暗闇なキッチンで、機能停止している冷蔵庫の戸を開け放ったまま立っていた。
「……姉さん?」
姉の様子がおかしい。
少年が声をかけても、姉は微動だに動こうとはしないのだ。
姉は手にしていた杖で、急に床を突き叩き始める。
ドン ドン
少年が聞いた物音は、どうやら姉が発していたものだったらしい。
姉は、ゆっくりと少年を振り返った。
杖を持っていない方の手には――――血濡れた包丁を握っている。
「!?」
少年は見つけてしまった。
姉の足下。床のあちこちに“赤い足跡”がある。
赤いインクを素足で踏みしめた後、室内を歩き回った。そう思わせる足形だ。
よくよく周囲を見渡せば、暗がりのキッチンのあちこちに、赤い足跡が残っている。その足跡の出所を、目だけで辿っていくと――倒れ伏している男の姿を見つける。
「……え?」
見覚えのある、よれた皮ジャケット。無精髭を生やした、黒髪の中年男だ。
赤い血溜まりの中で、うつ伏せに倒れてピクリとも動かない。
その人物を、少年はよく知っていた。
だからこそ信じられない思いで呟く。
「………………親父?」
血濡れた包丁を手にしている姉。床に倒れている父親。
状況が意味することはつまり、姉が父親を……?
「ウソだ…………」
少年は思わず、姉から後退りしてしまっていた。
あまりにも信じがたい事態におののき、顔から血の気が引く。
なぜ姉が、父親に手をかけたのか。理由など皆目見当がつかない。
仲の良い家族だったではないか。
血溜まりの中に倒れていた父親は、まだ生きていたようだ。
苦しげに身体を震わせながら、少年へ警告してきた。
「……逃げろ! ……もうお前の姉さんじゃない……!」
そう言うのが精一杯のようだった。
気絶したのか。息絶えたのか。父親は動かなくなってしまう。
姉は包丁を手にしたまま、ゆっくりと少年へ歩み寄ってくる。
振り乱した前髪が目の上にかかっており、表情はハッキリしない。
だが唇の形だけはハッキリと見えている。
楽しそうな。嬉しそうな、狂喜の笑みだ。
「やだよ……姉さん! こないで!」
近づいてくる姉。その姿に違和感を感じた。
細い姉の喉に、“目玉”が1つ生え出ている。
その目は、怯え竦む少年の姿を凝視し続けている。
「……人間じゃ…ない……?」
姉の姿をした怪物。あるいは、姉に寄生した何か。
正体がわからないそれは、包丁を振りかざして少年に襲いかかってくる。
「わああああああ!」
堪らず少年は、姉へ背を向け、逃げ出した。
逃げると言っても、広くはない我が家の中だ。行き先など限られている。
キッチンから廊下へ飛び出て、最初に目に付いたドアノブを回し開ける。
中に飛び込むと、すぐにまた閉めて鍵をかけた。
逃げ込んだ先は、父親の書斎だった。
カーテンが閉められていない窓から、青白い月の光が差し込んできている。
月光に照らし出されているのは、父親の、立派な書斎机だ。
机の上には、1輪の赤花の鉢植えが置かれている。
「ひっ!」
書斎に逃げ込んで間もなく、閉ざしたドアが激しく叩かれ始める。
時折、ドアへ包丁を突き立てる鈍い音も聞こえた。
追ってきた姉が、少年を殺すべく、ドアを開けようと暴れているのだ。
扉を叩き壊してでも、部屋へ入ってきそうな勢いの姉。
怖くなった少年は、父親の書斎机の陰に隠れた。
姉がドアを叩く音に怯え、膝を抱えながら震えるしかない。
こんな時、どうすれば良いというのだろう。
警察に通報するにしても、姉は父親に手をかけたのだ。
間違いなく、姉は捕まってしまうだろう。
かと言って、このまま何もしなければ、いつかドアをこじ開けられ、自分も殺されてしまう。なら殺されないように抵抗するしかないが……自分は姉を殺すとでも言うのか。
抱えていた膝を、強く掴んだ。
無理だ。
姉を傷つけるなんてこと、できるはずがない。
優しくて、大好きな姉なのだ。
たとえどんな罪を犯しても、少年にとってはかけがえのない、たった1人の姉なのだ。
考えれば考えるほど、苦しくなる。悲しくなる。
温かい涙が、頬を伝った。
いっそのこと、何もかもを放棄して、姉に殺された方が楽に思えた。
『――――立ち向かってください』
だが突然、声が聞こえた。
少年は驚いた。
ライト代わりとして手にしていた、自分のスマートフォン。
それが急に、喋り出したのだ。
「スマホが、勝手に喋った?!」
『私は、スマホではありません』
見れば、スマートフォンの天辺には、いつの間にか“赤い花”が根ざしている。ケースの隙間から筐体内へと、細い根を這わせ、まるで少年のスマートフォンに寄生し、乗っ取ったような格好に見える。赤い花は少年を見上げているように、花弁を向けてきていた。
その花には見覚えがある。
慌てて書斎机の上を見上げると、先ほどまで、鉢植えに植えられていたはずの赤い花が、忽然と姿を消していた。たしか、富士の樹海に咲いていたという花だ。父親からは、新種の花だとだけ、聞かされていた。その花がこうしてスマートフォンに寄生し、少年へ語りかけていると言うのか。
『立ってください。このまま何もしなければ殺されますよ、ケイ』
花は少年の名を呼び、警告した。