10-1 哲学的ゾンビ
早朝。
山嶺の向こうに太陽が顔を覗かせると、雪と氷で凍てついた森は、陽光を反射して輝き始める。森の針葉樹は白銀のベールをかぶり、世界はまるで、雪の白と、空の青でコントラストになっている。
身を切るような冷気と、一切の不純が混じらない山の空気。雪原の木々の中に立ち、目を閉じて立っていると、まるで自分が、そんな森の一部として、溶け込んだような気がしてくる。
眠っている時と同じだ。
呼吸していることさえ忘れ。
心臓が動いていることさえ忘れ。
自らが人間であることさえ、忘れてしまう。
そうすることで、ただ自然の一部と化すのだ。
穏やかに。健やかに。
沈黙の中、白髪の少年はただ、一振りの騎士剣を携えて佇んでいた。
どれだけの時間、そうしていただろう。
…………やがて木々の向こう側に、1頭の牡鹿が現れた。
上り立つ炎のように、猛った角を、頭部に戴いている。普通なら、人前に自ら姿を晒すことなどない、警戒心の強い野生の獣だ。牡鹿は気性が荒く、巨体の個体にもなれば、自分の縄張りに入った狩人を襲うことさえある。
しかし牡鹿は、無警戒に少年の傍へと近づいて見せた。
まるでそこに、少年が立っていることに気が付いていないかのようだ。
少年は動じず。黙って目を閉じていた。自分に近づく熱源の存在には、とっくに気が付いていた。耳を澄ませ、肌の触覚を研ぎ澄ませ。そうしていると、普段は捉えることのできない様々なモノを、感じ取ることができた。牡鹿の四肢や首筋を走る、太い血管。そこを脈々と流れる、雄々しき血流の熱。力強く収縮している、強靱な心臓の音。落ち着いた、深い呼吸の音。
目で見ている時以上に、生物の全てが、そこにあるのを感じた。
自分の目の前で、牡鹿が立ち止まっているのがわかった。
少年は――――言葉を発した。
「……ごめんな」
「!?」
声を発した途端、牡鹿は、自分の目の前に佇むものが樹木でなく、人間であるのだと気が付いた様子だった。驚いて間もない牡鹿の首を、少年は素早く騎士剣で斬り払った。一刀両断された頭部が虚空を舞い、雪の上に転がった。切断された首から鮮血を吹き出し、牡鹿の身体は、周囲を赤く染めながら倒れ伏した。
獲物を苦しませずに即死させることができたことを確認し、少年は安堵する。
「……大物だな。村の人を誰か呼んで、運ぶのを手伝ってもらわないと」
言いながら、少年は慣れた手つきで、肉の解体作業を始めた。人を呼ぶよりも先に、血抜きと臓物の処理を終わらせなければならない。ここから先は時間との勝負だ。せっかくいただいた命を、余すことなく、無駄にしないようにしなければならないのだ。処理が遅れれば遅れた分、臓器の熱で肉の腐敗が進み、過食部位が少なくなってしまう。黙々と作業を進めるのみだ。
「……?」
牡鹿の血抜きを終え、腹部の切れ込みから臓器を掻きだしている時だった。
ふと周囲に、自分以外の気配があることに気が付いた。
少年は作業の手を止め、返り血にまみれた姿で立ち上がる。
いつの間にか、そこに立っていたのは2つの存在だ。
1つは人間だ。ボロのローブをまとった少女である。モカ色の肌。白い長髪。雪の結晶を思わせる、白い花を、頭部から生やしていた。開かれた瞼の下からは、深い青色の瞳が覗き、少年の姿をじっと見つめてきている。感情のない表情で。
もう1つは、大きな狼だった。初めて見る大型種だが、おそらくは銀戦狼という種だろう。図鑑で見たことがある。人間の大人3人分くらいはありそうな巨体。白銀の毛並みの、美しい獣である。少女の背後に控えるようにして、大人しくしている。鞍や手綱を身につけているのも奇妙だが、1番に目を惹くのは、その身体に縛り付けるようにして固定された“石の大剣”だろう。
大剣に見えるが、もしかしたら十字架の墓石なのかもしれない。いずれにしても、狼が武器として使うわけでもなく、少女が使うような得物でもないだろう。そもそも、人間に振るえるサイズの武器とは思えない。誰のモノなのかわからない、とにかく大きな巨剣を帯びていた。
「……?」
少年は困惑した。
牡鹿を解体している少年を、少女と狼は、じっと見つめてきている。
村で見た顔ではないため、外部から来たのだろう。
いったいなぜこんな辺境の地に、少女と狼が?
「やあ」
「……」
思い切って声をかけてみたが、少女は返事をしなかった。
まるで少年のことを監視しているように、無愛想な無表情を向けてくるだけだ。
「君は? どこからきたんだ?」
「……」
やはり、何も応えない。
会話をするつもりがないのだと、すぐにわかった。
だとしたら、いったい何なのだ。
「もしかして……解体に興味がある……とか?」
「……」
少女は無言のままだった。
言ってはみたものの、やはりそんなわけはないだろうと苦笑してしまう。
「――――おい、ケイン」
「……!」
今度は背後に、人の気配を感じた。
そちらを振り向くと、よく知った男の顔がある。
着物姿である。口ひげを生やした、赤いザンバラ髪の中年。不健康そうに頬が痩けた、顔色の悪い男だ。窶れた細い身体は、病人にさえ見える。だが貧弱そうな姿に似つかわしくない、刀を腰の帯に携えていた。まるで老練の侍を思わせる出立ちだ。
「なんだ。こっちは何度も呼んでるのにボーッとして。やっと気が付いたのか?」
「アイゼン師匠……? 何度も呼びかけたって……」
そんな声など、聞こえなかったはずだ。
唐突に現れた少女の方へ、注意が向きすぎていたからだろうか。たとえそうだったとしても、こんな静かな場所で、背後から誰かが近づく気配を察知できないことなどない。理にかなわない。何度も声をかけたと言い張る師は、不満そうである。その態度を見るに、冗談ではなく本当に呼びかけていた様子だ。
「あ……」
さっきまでそこにいた少女と狼の姿が、消えていた。
ケインは、少し驚いた。
「そんな。いなくなった……?」
師が近づく気配も、少女がいなくなった気配も感じられなかった。まるで、自分の気が抜けてしまっていたかのようだ。そんな自覚はないのだが……妙な違和感に苛まれる。
ボンヤリして立ち尽くしている弟子を奇妙に思い、アイゼンは尋ねた。
「どうしたんだ? いなくなったって、何のことだ?」
「いえ。師匠は見てないんですか? さっきまでそこに、女の子と狼がいましたよね」
「女の子と狼?」
アイゼンは眉をひそめた。
「……今朝、狩りに出かけてから2時間くらいは経ったか? 寒さでおかしくなったんじゃあるまいな。そんな女の子と狼とやらは、知らんぞ。幻でも見てたんじゃないのか?」
「……」
「まあ、弟子がイカレたかどうかは別に、獲物はちゃんと仕留められたようで安心したぜ」
アイゼンはケインに歩み寄ってきた。そうして、裂かれた腹から臓物をはみ出させている牡鹿の死体の前で、しゃがみ込んだ。湯気立つ暖かい臓物と、斬り飛ばされた牡鹿の頭部。それらを見やって、ニヤリと微笑んだ。
「超至近距離での一刀。人間の気配に敏感な牡鹿を相手に、この雪面の足場で接近することは難しい。なら……ついに“静剣”をモノにしたと見える」
「やっと使えた、って言い方の方が正しいです」
「なんだって良い。1度でも使えたなら、あとはコツを掴むだけだ。もう俺が教えることはなさそうだ」
珍しく師に褒められ、ケインは困惑した顔をする。
「まだまだ。師匠のように、自在にできるわけじゃないんです。ここで師事をやめるのは止してくださいよ?」
アイゼンは立ち上がり、腰に手を当てて嘆息を漏らす。
「ったく。兄弟子と同じで、バカ真面目なヤツだな。冗談ってモンが通じんのか。お前がまだまだ、ケツの青いひよっこのクソ雑魚だってことは、よくわかってる。それでも、もうお前なんか目じゃないくらいの返しをしてみせろ。面白みのない弟子め」
「でも、もしもそうやって調子に乗ったらシメるんでしょ?」
「当たり前だ」
尋ねられたアイゼンは、不敵に笑んだ。
「生意気なヤツを半殺しにするのは好きだからな。ムカつくヤツの鼻っ柱を折ってやるのは、誰だって楽しいだろ」
「相変わらず、性格が激ワル……。師匠の下で長続きする人がいないの、わかりますね」
「ああ。お前みたいなマゾ気質の変人じゃなきゃ、長続きした試しがないよ。弟子なんか育てたって、俺には何の得もないんだ。この生き方は、面倒事を抱え込まなくて済む、処世術ってやつだ」
言いながらアイゼンは、腰に提げていた、ひょうたん酒を手に取った。フタを開けて中身を飲み、酒臭いゲップをする。その匂いを隣で嗅ぎながら、ケインはイヤそうな顔をして言った。
「また朝から……。医者から控えろって言われてるじゃないですか」
「医者の言うことなんか放っておけ。人を生かすことばかりに執着した、偽善者どもだ。人を殺すことを追求する俺たちに、連中のアドバイスなんざ、当てはまるかよ」
「いや、そんなことないと思いますけど……」
「良いか、憶えておけ。喜びを失ってまで執着するほど、長生きに価値なんかない。これを飲めなくなるくらいなら、俺は死んだ方がマシだってんだよ」
ケインの忠告など聞く耳持たず、師は酒を飲み始める。
それを呆れ顔でしばらく見てから、ケインは嘆息を漏らす。
中断していた牡鹿の解体作業の続きに取りかかった。
臓器を死体の腹から掻き出し、血にまみれながら、ケインは少女のことを考えていた。
自分以外に、目撃者のいない少女。
もしかして見間違い。あるいは……。
「幽霊……ってわけじゃないよな?」
白い吐息と共に、ケインは馬鹿馬鹿しい推測を口にしていた。アイゼンは酒に濡れた口元を拭いながら、呑気な様子の弟子へ忠告する。
「さっさと帰って、入学式の準備をしたらどうだ。学院への鉄道がくるのは今夜だろう?」