9-14 彼と彼女の逃避行
幼い頃から、普通の人には見えないモノが、見えてしまう体質だった。
最初にそのことに気が付いたのは、祖母の臨終の日である。
死ぬ直前の祖母を、家族で看取ったことがある。祖母が息を引き取った直後、その身体から、黒い煙のようなものが立ち上るのが見えたのだ。きっとその煙は、祖母の魂だったのではないかと思う。音もなく周囲へ霧散し、畳へ吸い取られるようにして、床下へと消えていったのを憶えている。自分も死んだら、ああなってしまうのか。バラバラに解けて、形もなく消えてしまうのか。それを想像するのは、とても怖かった。
自分以外に、その煙を誰も目撃していなかったらしい。
そのことを、葬式の後で知ることになった。
――――黒い煙は人の“魂”なのだろう。
それ以後、街のあちこちで、黒い煙を見かけるようになった。人の形をした煙。犬や猫などの、動物のような形をした煙。時には不定形のものもある。薄暗い場所や、周囲が森や水場である場所で、そうしたものがよく見受けられた。触れれば、その煙に宿った残留思念のようなものが頭に入ってくる。おそらくは死者の記憶なのだろう。そうしたものを見て、触れることを、これまでに何度か経験してきた。こうした自分の体質のことを、周囲からは“霊感が強い”のだと言われ、納得してきた。
今日は、その能力を得てから今までに、なかったことが起きている。
あそこまでハッキリと姿が見える霊には、初めて遭遇したのだ。
◇◇◇
「追いかけて……きてるの!?」
走りながら振り返れば、悪夢のような、その女の姿が見えている。
見間違いではない。“赤い服の女”が、背後から迫ってきているのだ。
喫茶店に友人たちを置き去りにして、逃げてきてしまった。だがおそらく、友人たちは無事なはずだろう。女の興味を一身に受けているのは、どういうわけかミズキなのだ。女の眼中には、逃げ回るミズキの背中しか映っていないはずだ。一心不乱に追いかけてきているではないか。
見慣れた近所の景色の中を、ミズキは息を切らしながら駆ける。人生の中で、自分がこんな恐ろしいシチュエーションに遭遇することなど、考えたこともなかった。
赤い服の女は、普通の人間のように、2本足で駆けることはせず、虫のような四つん這いの格好で移動している様子だ。アスファルトの上に諸手を付けた、明らかに走りにくい姿勢である。なのに、想像以上に早い速度を出している。陸上部であるミズキの全力疾走にさえ、追いついてくるではないか。人間離れした動きを見ていると、まるで人の姿をした巨大な昆虫だ。そう思えば、いっそう背筋が寒くなってくる。気味が悪いとしか言いようがない。
「何なのよ、あのお化け!」
道行く通行人たちは、何事もなく歩いている。ミズキだけが、血相を変えて走っている。赤い服の女の姿が見えているのは、やはりミズキだけのようだ。「助けて」と周囲に訴えてみても、何が起きているのか理解できていない人々は、ミズキのことを、奇異の目で見返してくるだけだった。
いくら叫んでも、周囲の助けは期待できない。
ミズキがおかしいと思われているからだ。
状況は理不尽で。わけがわからなくて。
怖くて泣き出したくなってしまう。
しばらく走っていると、ミズキは息切れしてきた。だが対して、追いかけてくる女は疲れた様子が見受けられない。このまま走っていても、疲れたミズキの足が鈍り、追いつかれてしまうだろう。その結末が目に見えてきていた。
追いつかれたなら、どうなるのか。
殺されてしまう?
わからない以上、つかまるのは危険なのだ。
なら逃げるしかない。
だがいつまで逃げられる。
永遠に走り続けることはできないのだ。
考えを巡らせ走っていると、よりいっそう体力を使ってしまうではないか。
「!?」
行く手の道を遮るようにして、今度は2人の男が立ちはだかってきた。ただの通行人ではない。明らかな意図を持って、ミズキの進路を妨害しようと、両腕を広げて邪魔をしようとしてきたのだ。不気味なほどに、ニコニコと穏やかに微笑んでいる、会ったこともない中年の男たちである。余りに恐ろしくて、駆けるミズキの足が竦んでしまう。
男たちの頭部がいきなり、解れた糸のように、形状を崩壊させる。
首から上が、蠢く触手の塊に姿を変えたではないか。
「ひっ!」
人間ではなかったのだ。
頭がイソギンチャクのように変貌するなんて、怪物以外の何物でもない。
怖気を感じ、ミズキは全身から血の気が引く思いだ。
背後からは赤い服の女。前方には見知らぬ2人の男。挟み撃ちにされてしまっている。気が付いた時にはすでに、逃げ場がなくなっていた。ミズキは立ち止まり、恐怖のあまり、思わずその場でしゃがみ込んでしまう。
「いやあああああああ! こないでええ!」
怖くて、涙ながらに叫ぶしかない。前後から、獣のような荒い息づかいが近づいてくるのが聞こえていた。怪物たちはもう、すぐそこまで近寄ってきているのだ。その光景を皆まで見ていられず、ミズキは固く目を閉ざしてしまった。
――――激しいエンジン音が聞こえた。
曲がり角から姿を見せたのは、1台の大型バイクだ。それに跨がった男は、現れるなり、ミズキの進路を妨害していた2人の男を撥ね飛ばす。きりもみ回転しながら弾け飛んだ男たちを尻目に、バイクの男は、乱暴にミズキの手を取り上げた。
「ひゃあっ!」
無理矢理に後部シートへ乗せられ、ミズキは悲鳴を漏らす。
「ミズキ、大丈夫か!」
「……って、ええ!? トウゴさん?!」
ヘルメットをかぶっているが、その声は峰御トウゴのものだ。
ミズキの頭に押し込むようにして、予備のヘルメットをかぶせてきた。
トウゴはエンジンを吹かしながら、バイクの向きを調整する。
「カールが店の入口の札を“閉店中”に戻しておくのを忘れたって言うから、頼まれて戻ってきてみりゃ。クソッタレ。ミホシの野郎、もうここを探り当ててきやがったってのか。しかもこりゃあ、ミズキを俺の関係者と判断しての襲撃か……?」
ヘルメット内にはバイクインカムが仕込まれていて、タンデム通信ができるようになっている。けたたましいエンジン音の中でも、トウゴの声は、ミズキの耳元へ鮮明に聞こえてきた。
「トウゴさん、あの女の人のこと、知ってるんですか?!」
「……アイツから逃げてたってことは、やっぱりミズキには、赤い服の女が見えてるのか?」
「というか、じゃあ、トウゴさんにも霊が見えてる!?」
「……」
「誰なんですか、あの人!?」
ミズキが指さす先。
そこには、トウゴを警戒して立ち止まっている、赤い服の女がいる。
トウゴは忌々しく吐き捨てるように応えた。
「因縁のアバズレだよ」
アクセルを全開に開け、バイクは急発進する。振り落とされないよう、ミズキは懸命にトウゴの背にしがみついた。2人を乗せたバイクは、正面から赤い服の女を撥ね飛ばす。道路を勢いよく転がる怪物を踏みつけながら、バイクは一瞬でその場を離脱した。背後へ遠ざかって行く異形の者たちを振り向きながら、ミズキは困惑していた。
「ウソ! トウゴさん、お化けたちを、ひき殺しちゃったんですか!?」
「あんなんで死んでくれれば、簡単なんだけどよ」
バイクに2人乗りしたまま、トウゴは高速道路へ合流する。
料金ゲートを通過して、大阪都から離れる経路を進んだ。
「え? どこへ行くんですか?!」
「……悪いな、ミズキ。どうやら、こっちのイザコザに巻き込んじまったみたいだ。たぶんお前は、顔を見られた。今、下手に家へ帰したら、お前も、お前の家族も危なくなる」
「……!」
「問題が片付くまでは、付き合ってもらうしかなくなった。心配するな。お前のことは、俺が責任をもって守る」
それだけの説明では納得などできない。
事情がまるでわからないからだ。
喫茶店へ行ったら、いきなり赤い服の女に追い回された。あれは、道行く普通の人たちには、見えていなかったようだった。おそらくは、悪霊の類いで間違いないはずだろう。ただ、なぜそれが今日、カールの店にいたのだろう。いわゆる地縛霊という存在なのだとしたら、今までずっとカールの店に居着いていた怪物ということになる。だが何度となく店を訪れたことがあるミズキは、あんな女を、これまでに1度だって見たことがない。
しかも霊感が強いミズキと同じように、トウゴにも女の姿が見えていて、驚くべき事に、それを撃退して見せた。しかも、かなり手慣れた様子でだ。不可解なのは、そんな悪霊たちと、トウゴは何やら争っているような口ぶりだという点だ。
悪霊と争う人間。
トウゴの正体とは、いったい何なのだ。近所の奇策なお兄さんでしかなかったトウゴが、ミズキの中で、たちまち異質な存在に変わろうとしている。トウゴに対しても、少なくない恐怖を感じた。
「イザコザって……どういう事情なんですか?」
「……」
「私、何に巻き込まれたんですか? あんな、お化けたちに襲われるなんて……トウゴさん、どういう事情を抱えてるんです? 問題が片付くのって、いったい、いつのことなんですか?!」
尋ねられたトウゴは、しばらく黙り込んだ。
苦々しい口調で、背中越しに答える。
「……なるべく早く、家に帰してやる」
「だから、それはいつなんですか!」
ミズキの苛立った問いに、トウゴは答えなかった。
高速道路を走るバイクの速度が上がった。2人乗りに慣れていないミズキは、落とされないよう、トウゴの背中に強くしがみつくしかない。身体を密着せざるを得なくて、ミズキは否応なく、ドキドキしてしまう。気恥ずかしさと不安が入り交じり、とても複雑な心境になってしまう。
「せめて……行き先くらい教えてくださいよ」
「大阪都の白石塔を抜ける。別の白石塔に入れば、多少は安全だ」
「タワー……? それ、どこのことを言ってるんですか?」
「……」
やはりトウゴは、ミズキの質問に答えない。
答えたくないのか。答えられないのか。
思惑はわからないが、尋ねても答えないトウゴの態度は不愉快だった。ミズキは拗ねたように唇を尖らせながらも、黙ってじっと、トウゴの身体に寄り添った。今は、そうする以外にできないからだ。
「飛ばすぞ。しっかり掴まってろよ」
トウゴは、ミズキへ忠告した。
そうしてから、さらにアクセルを開放していく。
――――不穏だった。
タワーマンションの秘密の階から脱出したトウゴ。それを追跡してくるだけならまだしも、直接的には関係のない、ミズキにさえ手を出してきた。そこまでされるとは、正直なところ予想していなかった。まるでトウゴの交友関係者の全てを根絶やしにするような、無慈悲な追撃である。そうされるほどの何かを、トウゴは目撃してしまったのだろうか。わからない。
「……救済兵器」
斗鉤ダイキが言っていた、奇妙な言葉が引っかかっていた。
血の色をした、ほのかに輝く赤い液体。あれは、かつてトウゴたち兄弟が東京で接種した、解放ワクチンに見えた。だが、あれほど高濃度なマナの霧を、周囲へ放出するような代物ではなかったはずだ。トウゴが思い違いをしているだけで、あの液体は何か他のものなのか。それとも、何かしら改良された、さらなる効能を持った新ワクチンなのか。
ワクチンだとすれば、今それを製造できるのは、アルトローゼ王国だけのはずだ。
「……雨宮。お前たち、いったい何してんだよ」
呟きは、風の音の中に消えて行く。
高速道路の案内標識には、「京都」までの距離が表示されていた。
次話の投降は月曜日を予定しています。