9-4 呪われた殺人現場
大阪都北区、梅田。
日本でも有数の繁華街であり、オフィス街でもある。その街並みは高層ビルが建ち並ぶ大都会の様相だ。富裕層が住まうタワーマンションも存在し、一等地の住宅は、数億円をくだらない値段がついている。34階建ての高層階までは、エレベーターですぐに辿り着けた。
麗らかな日差しの昼下がり。
石橋警部の案内で、トウゴは殺人現場へ案内されていた。
「あそこの部屋だ」
エレベーターを降りてすぐの場所。カードロックの付いた扉が並ぶ通路の一角を、石橋警部は指さした。先導するその背に続いて、トウゴはポケットに手を突っ込みながら、猫背で歩く。周囲を観察しながら言った。
「最新式のセキュリティロックに、監視カメラがある通路だ。こんなところで殺人事件なんて、起きるもんなのかよ」
「俺だって意外に思ってるよ」
管理人から借りているのであろうカードキーを使って、石橋警部はドアロックを解除する。ピッと言う、小気味よい機械音がした後、石橋警部は扉を開いた。その向こうに見える玄関には、靴が置かれていた。女性もののヒールである。
「女が住んでた部屋か?」
「ああ。一人暮らしだったらしい」
石橋警部に続いて部屋へ足を踏み入れると、トウゴは感想を口にした。
「こんな洒落たタワーマンションの一室が、本当に殺人事件の現場だってーのか? その割には立入禁止のテープとかもねえし、この部屋の中も片付いてるように見えるぜ? ちゃんと現場検証したのかよ、警部さん」
「気遣いさ。うちのお偉いさん共が、マンションオーナーの意向に従ってるんだよ。上流社会な連中が、住んでる場所なんだ。おおっぴらに、ここで事件が起きましたと、わかるようなテープ貼りとかは、やめて欲しいそうだ。ただでさえ人死に事が起きたとあって、すでにここは事故物件扱い。マンション価値の下落を恐れてる金持ちが多いんだ。どうせみんな、これからすぐに引っ越すんだろうにな」
「はは。価値が下がりきらないうちに売っちまうつもりってか? こんな綺麗な住居なのに、なんだかもったいねえ。民間人の都合に振り回されるなんて、警察も大変なこったな」
「まあ、そう言うわけで、ここは一見して殺人事件現場だと、わからないように配慮されてる。同じフロアや近隣階の住人には隠せていないが、今のところ、野次馬やマスコミ避けくらいにはなってるな。まだ取材とかは来ていない」
「ふーん。まあ、時間の問題かもしれねーな」
玄関で靴を脱いで、2人は室内へ上がり込む。フローリングの冷たい床を踏みしめ、向かった先はリビングである。そこから大阪都を一望できる、ガラス張りの、広い憩いの部屋である。
室外からは事件現場だとわからないように配慮されているようだが、さすがに室内には、そうした遠慮は見られない。カーペットに生々しく残った血痕。人が倒れていたであろう場所に描かれた、人型の白線。警察が立ち入って調べたことがわかる、数字入りのコーンやカメラ三脚が放置されていた。
現場検証の痕跡が、雑然と残されてはいる。
だが、室内が荒らされているわけではない。
残されている家具や、飾られている美術品は、壊れていたり、位置がズレたりもしていない。室内は整理整頓が行き届いていて、少なくとも、ここで争いが起きたと思しき形跡は見られなかった。人型の白線は、カーペットの真ん中に描かれている。血痕が残っているのも、そこだけだ。
「……殺人って言ったよな? 普通、命の取り合いになったら、加害者も被害者も暴れるもんだろ。ここで人が殺されたってわりには、妙に片付いてねえか?」
「被害者は柴田ノゾミ、25歳。近くの証券会社に勤める、若いOLだ」
石橋警部は、手近な壁に背を預けて寄りかかる。
腕組みをして、仏頂面で語り出した。
「父親は総務省の官僚。母親は元有名女優だ。高学歴で、一流の会社勤め。他人が羨むような、順風満帆な人生だったろう」
「新社会人になって、間もないってか? 俺と対して歳も離れてないのに、タワマン暮らしかよ。金持ちの家に生まれた、お嬢様だったんだんだろうな」
「そう言うお前、何歳なんだ?」
「ピチピチの20歳だよ」
「安心したよ。その歳なら、その商売から足を洗ってもやり直せるだろうさ」
「辛辣なこって」
「話を事件に戻すぞ。被害者が殺されたのは5日前。殺害方法は刺殺だ。凶器は見つかっていないが、柳刃包丁のようなもので、心臓を刺されている。刺し傷は3カ所。面と向かって正面から、犯人に3回も刺された。複数回も急所を刺していることから考えて、確実に殺す覚悟があったってことだろう。殺意は明確だ。検死の結果、死亡推定時刻は深夜の2時。誰も彼もが寝静まった時間帯に、犯行が行われた」
トウゴは死体があったであろう、白線の傍でしゃがみ込んだ。乾いて黒ずんでいる血痕を見下ろしながら、尋ねる。
「それで? 殺した犯人は、わかってんのかよ?」
「疑わしい容疑者はいる。だが証拠もない。まだ疑惑の段階だ。あまり詳しいことは話せない」
「だよな。普通、俺みたいな胡散臭い一般人に、警察の捜査状況なんてペラペラ喋らないだろうさ」
「……解決屋に頼みたいのは、この事件の捜査じゃなくて、オカルト現象の対応だからな。そちらの仕事に関係ないことを、わざわざ教える必要もないだろ」
「どうかな。関係ねえかは、話を聞いてみないとわからないけどよ。ただ、話さない理由は、それだけじゃねえって顔してもいるよな。あんたみたいに、霊の存在なんて信じていなさそうなヤツなら、なおさら俺のことを怪しく思ってるんだろう? 嘘つきインチキ野郎って」
「……」
石橋警部は答えない。その無言の肯定を見るまでもなく、初対面の時から、いかがわしそうな視線をトウゴに向けていることには気付いていた。こうして聞いてみれば、案の定である。
「まあ良いさ。それで? 今のところ、あんたの話を聞いた限りじゃ、これは“ただの”殺人事件だ。どのへんが、解決屋の仕事に関わってくるんだよ」
トウゴは立ち上がり、ポケットに手を差し入れて続けた。
「解決屋。心霊や呪いだとか、そういった超常現象の調査と解決を専門にしている仕事だ。俺にも一応、普通の人間には見えないものを、見て感じ取れる“霊能力”ってのがある。そんな俺を、この事件現場へ連れてきた理由はどこにあんだ?」
実際には、知覚制限から解放されているおかげで、普通の人々には知覚できないものが認識できるだけだ。便宜上、それを霊能力だと説明するのがわかりやすい。だから、他人に見えないものが見える自分の能力のことを、トウゴはそう言っている。
石橋警部は嘆息を漏らしてから、答え始めた。
「……お前たちのことは、役所の知り合いから聞いた。腕利きの解決屋で、本物の霊能力者だって話だった。俺個人は、そういった連中のことを全員、詐欺師だと思っているんだが……。上司や同僚たちのために、少しばかりの見解くらいは聞いてやろうと思ってな」
「遠慮もなく言ってくれんじゃねえかよ、警部。でもまあ、ようやく本音が聞けたわけだ。お互いの信頼関係は、一歩前進か?」
「フン……」
石橋警部は、改めて室内を見渡しながら語った。
「この部屋には、総勢で26人が出入りした。刑事、警官、鑑識。建物の管理者や、不動産業者。遺族。そこが問題だ」
「……あん?」
大勢が部屋に出入りしたことの、何が問題だというのだろう。
トウゴには、言っている意味がわからなかった。
石橋警部は、忌々しそうに表情を顰めて続けた。
「最初は、現場に来た鑑識だった。殺人事件の現場に来るのは初めての若いヤツで、慣れない手つきで血痕を集めてたのを憶えてる。陽気な性格で、ホトケさんには不敬だったが、現場で冗談を口にするようなヤツさ。仕事を終えて帰宅した直後……自宅で“首吊り自殺”をした」
「……?!」
「その次は、死体の第一発見者である、被害者の友人だ。現場見聞で立ち会ってもらった後、3日前にリストカットして自殺した。その次は被害者の妹。その次が現場検証に立ち会った警官の男だ」
話が見えてきた気がした。
「……気味が悪いな。つまり、ここへ来たヤツは、次々に“原因不明の自殺”をしてるってかよ?」
「そう言うことになる。自殺する様子なんてなかったヤツが、この部屋へ足を踏み入れた直後に、途端に死にたくなっている。そうとしか思えない、ただの偶然とは思えない死の連鎖が起きてるんだ。この事件を担当してる刑事たちの中じゃ、ここが呪われた現場だの、ここに被害者女の地縛霊がいるだのと噂になってる」
「呪われた殺人現場ねえ。こんな小綺麗な部屋が、ここ何日間で、曰くつきのおどろおどろしい物件に変わっちまったなんて、考えにくいぜ」
「そのこのところは同感だ」
石橋警部は肩をすくめる。
「ここへ来ると不幸になるってイメージが強い。だから事件に関わりたくないって同僚が、多くなってきていて、少しばかり困っている。捜査に支障をきたしてるんだ」
「前情報もなく、とんでもねえところに連れてきてくれたもんだ。俺やアンタだって今、この部屋に入ってるんだぞ。なら、その呪いとかいうので、これから帰って自殺するかもしれないリスクがあるってこったよな?」
「馬鹿言え。俺が自殺なんてするか」
「たしかにあんたは、そんなことするタマにゃ見えねえよ」
「そっちこそどうなんだ?」
苛立った口調で、石橋警部は皮肉する。
「解決屋ってのは、聞くところによると、こういうオカルトじみた話を専門で取り扱ってるんだろ? 役所やら不動産屋から、除霊だの何だのと言って金品を巻き上げてるそうじゃないか。本物なら、こんな現場は慣れっこだろ。それとも何だ? やっぱり詐欺師だから、今の話しで怖くなったのか?」
「その口ぶりじゃ、やっぱりあんた個人は、一連の自殺が呪いだなんて信じてねえんだろうな」
「当たり前だ。職業がら、無残に死んだヤツなんてごまんと見てきている。だが、そいつらが化けて出てきたことなんて1度たりともない。この世に、呪いなんて馬鹿馬鹿しいものがあってたまるか」
石橋警部は、そう言ってトウゴのことを鼻で笑う。
「原因が何かはともかく、だ。このまま刑事たちが、くだらない噂話を恐れて、捜査が停滞するなんてことになれば、警察が笑い者にされるだろ。マスメディアに垂れ込まれでもしたら、たまったものじゃない。そうなる前に、お前にはさっさと除霊なり何なりしてもらいたいんだよ。結果として、呪いなんてない、問題は解決したとだけ言ってくれりゃあ良いんだ。この辺で有名な、お前たちのお墨付きがあれば、同僚たちだって安心するはずだろ」
「とりあえず、俺に求められてる役割はわかった。専門家の口から、問題ないってお墨付きを出させたいってわけだな。この部屋の呪いに、ビビってる連中の前で」
「そういうことになる」
石橋警部は率直に認めた。
そうしてすぐに尋ねてきた。
「それで? まずは何から始めるつもりだ。霊視とか、そう言うのか……?」
「霊視ねえ。まあ、そんなところか。少しばかり室内を見学させてもらうぜ」
「何でも良いさ。好きにしろ。ただし、手早く終わらせてくれ。上司に黙って、民間人を事件現場へ入れてるんだ。こっちも立場上、色々とまずい。あんまりその辺にも触れるなよ」
「へいへい」
「……とは言っても、鑑識がめぼしい証拠をあらかた持ち帰った後だ。今さら、霊視できるような、事件に関連するものは残ってないかもしれないけどな」
愛想が良くない刑事の態度は気にしないことにした。
トウゴはマイペースを崩さずに、殺人現場を回り始める。
広いリビングには、大型のテレビや、ガラスデスクなどが設置されている。絵画や美術品などが飾られていて、まるで美術館を見学しているような気分になってくる。キッチンや食器棚は片付いていて、被害者が誰かをもてなした様子も見受けられなかった。玄関には客用のスリッパが、置かれたままである。少なくとも、ここに客がやって来ていた形跡は見られない。
「犯人は客人じゃなくて、侵入者として、ここへ現れたってことか……?」
だとしたら、室内に争った形跡が見受けられないのは妙だった。見知らぬ顔の他人が目の前に現れたのなら、被害者は警戒し、襲われたのなら反撃するはずだ。だがそうはなっていない。
「なら……誰か知っている顔が、予期せず侵入してきて、襲いかかってきたってことかもな」
事件のあらましを調べるのは警察の仕事だ。トウゴに求められているのは、一般人では見つけられない何かを発見することである。余計な雑念は捨てて、思考を切り替えた。
しばらく室内を見て回ったが、特に不審なものは発見できなかった。
リビングで待っていた石橋警部に、トウゴは声をかけた。
「本当に、この部屋には呪いなんてないのかもな」
「それは、何もおかしなところはないって言ってるのか?」
「ああ。俺が霊視して見た限りじゃ、ここは普通の部屋だ。邪悪なものとか、そういった類いのものは見受けられない。なら、どうしてここへ来たヤツが次々に自殺してるのかって疑問は残るけどよ」
「偶然だった。それ以外に、結論があるか? 特に問題がないなら、それにこたしたことはない。問題は解決だな」
「……」
石橋警部は、「異常はなかった」という解決屋の見解を、同僚たちへ早く伝えたいのだろう。早々に部屋を後にしようと、踵を返す。それに続いて部屋を出る前に、何となくトウゴは、タワーマンションからの眺めを満喫しておきたくて、リビングのガラス壁の前に歩み寄った。自分がこんな高級な部屋に住む機会などないだろう。だから、見納めの記念のつもりだった。
「……?」
そこでふと、奇妙なことに気が付いた。
「どうした、解決屋。用は済んだんだから、さっさと帰るぞ」
「ああ」
隣接してそびえ立つ、もう1つのタワーマンション。
その高層階の一室に、黒く禍々しい霧が、立ちこめているのが見えた。
「……どうりで何も見つからないわけだ。問題があるのは、隣だったわけかよ」
見ているだけで気分が悪くなってくる。
それほどに黒く、濃密なマナの吹きだまりだ。
「この感じ……精神干渉系か。あれを見たせいで、みんなおかしくなったのか? いや、だとしたらこのマンションに住んでるヤツなんて、知覚できないとは言え、毎日あれを見てるわけだから、今頃は大量の自殺者が出てなきゃ理屈に合わねえか……」
「何を1人でブツブツ言ってるんだ、解決屋」
解決屋としては、依頼人の抱える問題の原因を特定して、解決して報酬を得たいところだ。だが、トウゴが見つけた黒のわだかまりは、遠方から目視しただけでも気分を害するほどに、尋常ではないおぞましさを有している。正体がわからないまま、一般人である石橋警部を巻き込むのは、危険に思えた。
「いや……何でもねえんだ」
隣のマンションについて、少し調べてみなければならないだろう。今は敢えて、石橋警部にはその事実を伝えず、トウゴは部屋を後にした。
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