8-58 彼女の選択
暗愁卿を倒したのも束の間。消耗しきったケイたちは、勇者一行から処刑を宣告されてしまった。すでに戦う余力は残されておらず、攻撃されれば、ひとたまりもない窮地に陥ってしまう。
戦力として頼れる者がいるとすれば、今はエリーだけだろう。だが、その表情にいつもの笑みがないことから察すれば、分が悪いのは明白だった。エリーから余裕の態度を奪うほどに、クリスたちの実力は高いということだ。なら、ケイはへばっている場合ではない。
無理にでも立ち上がり、ケイは赤剣を構えようとした。
だがその腕にはもう、うまく力が入らなかった。
「くっ……!」
「反抗するな。そうすれば、楽に殺してやるよ、ケイ」
クリスは剣を手に、仕掛けてこようとする。
だがその瞬間、予期せぬ少女の声が割り込んできた。
『――――さすがは勇者。ここぞという時に、必ず駆けつける役回りらしいね』
その場の全員のAIVに、外部からの遠隔制御が割り込んでくる。
ケイたちとクリスの間に現れたのは、金髪の少女のホログラム映像だった。
「……イリアか」
険しい顔で、クリスが呟く。
ケイに斬りかかろうとした腕を止め、思わずその場で止まってしまう。
そんなクリスを真っ向から見つめて、イリアのホログラムは語り出した。
『もう遅いんだ、クリス。今さら雨宮くんたちを殺しても、この企業国王殺しは、もはや世間に隠しておけない。アーク全土への影響は、打ち消せないということだ』
「……なぜ、そう思うんだい?」
イリアは黙って、頭上を指さした。それにつられて空を見上げれば、羽虫のように、無人機が旋回飛行しているのが見えた。その正体に気が付き、クリスは頭を抱えたくなった。
「なんてことだ! もうマスメディアが嗅ぎつけてきているのか……!」
『ああ。すでに暗愁卿の最期が、AIVのネットワーク通信でアーク中に配信されているよ。さっきから首都放送でも、緊急番組が流されている。そこを飛んでるマスメディアの無人機たちが、急速に情報を拡散しているところさ』
「売国奴どもめ……! こんな映像を報道すれば、世論にどんな影響があるのか、予想もしないのか!」
『すでにこの企業国の統治者であった暗愁卿はいないんだ。制する者もなく、阻害する者もいない。これは情報統制がままならなくなった証拠。エヴァノフ企業国が“滅びた”ことを、早々に認めた方が良いだろう』
「言ってくれるね。本来なら、それを守るべきだった、勇者と呼ばれている俺に対して……!」
クリスは、イリアの物言いに腹を立てている様子だった。
それに構わず、イリアは話を続けた。
『説明しただろう。生き残った東京白石塔の人たちに、新天地を与えるための旅。生き延びることが、ボクたちの目的だった。その目的は、すでに8割くらい、果たせたと考えているよ。こうして企業国王を殺せると知った人々は、もう帝国を恐れなくなるはずだ。アデルの力を使えば、エヴァノフ企業国の人々を支配権限から解放することもできるだろう。きっと、東京都民を気兼ねなく受け入れてくれるはずだ』
「……」
『目的が果たせたなら、雨宮くんやアデルが、これ以上、帝国と戦う理由はない。君が今、心配しているような“他の企業国への攻撃”なんて、彼等は考えることもないのさ』
「まさか……俺と交渉をしているつもりなのか、イリア?」
『ああ。ボクは今、仲間を助けるために必死だよ。これは命乞いさ』
イリアは笑いもせず、真顔で認めた。
「まるでわかっていないな、俺のことを」
クリスは寂しげに微笑んだ。
そうして続ける。
「たしかに俺は、実家から逃げ回って、自由気ままな旅に出た、女にだらしない男だよ。けれど、帝国に対する忠誠心と、正義を求める気持ちなら、他の誰にも負けない自負がある。帝国の統治を維持し、守護する勇者という呼ばれ名にも誇りを持っているんだ。そんな俺が、目の前に帝国の秩序を乱した大悪党たちがいるのを、黙って見逃すと思っているのか……?」
『……』
「企業国王が強いる圧政も。人々に自由意志が与えられない不条理も。そうしたものを憎む気持ちはわかるさ。けれどそれによって、人間同士は争わずに済んだ。帝国建国以来、1万年にもわたってだぞ? その歴史は事実だ。なら、たとえ理不尽な統治であったとしても、それを維持することは正義だ! それを……それを、この雨宮ケイとアデルは、破壊したんだぞ!」
ケイとアデルは、神妙な顔で黙り込んでしまう。
クリスにとっての正義とは、そうなのだ。
以前にケイと対峙した時にも、その価値観が曲がることはなかった。
軽薄そうに見えて、クリスには強い信念があるのだ。
信じる正義を捨てて、倒すべき悪であるケイたちを見逃せという理屈は、クリスには通用しないのだろう。イリアはそれを痛感した。ならばもう、理屈で説き伏せることは不可能だ。
『なら…………見返りがあるならどうだい?』
「見返りだって?」
一拍の間を置く。
そうしてから、イリアは覚悟して言った。
『ボクが君と“結婚する”と言うのはどうだ?』
「……!?」
クリスは驚いた。
話を聞いていたケイたちや、クリスの仲間の、ローラとエリオットも。
呆気にとられた顔をしてしまう。
『エルガー兄さんから言われていたはずだろう? ボクが兄さんの条件を呑めば、君は、雨宮くんたちを助ける約束をしているのだとね』
「イリア! その約束をした時は、ケイがこんなことをするなんて……!」
『約束は、約束だろう?』
聞いていられず、ケイが口を挟もうとした。
「おい、イリア! いくらなんでも――――」
『黙っていてくれ、雨宮くん』
なぜかイリアは、ケイを睨んだ。
『……君に引き留められると、決心が揺らぎそうになる』
「……」
提案されたクリスは、困惑していた。
本音を言えば……心底から、イリアに惚れ込んでいるからだ。
最初は、家同士が決めた、ただの許嫁の関係にしか思っていなかった。だが、この数日間を共に過ごし、今ではすっかりイリアに心を奪われている。これまでに夜を過ごしたどんな相手よりも、濃密で、愉快で、幸せな時を過ごせたと感じている。
イリアの提案は、魅力的だった。
思わず口を噤んで、黙り込んでしまう。
躊躇っている様子のクリスに驚き、背後からエリオットとローラが苦言を呈した。
「おい……! まさか、こんな危険なテロリストたちを見逃すつもりなのかよ、クリス!」
「いくら女癖が悪いからと言って、こんな時に……!」
クリスは頭を抱えて項垂れてしまう。
だがやがて、静かに頭を振って告げた。
「誤解するなよ、2人とも。あそこをよく見なって」
クリスは、一点を指さした。
ケイたちの背後、遙か向こう。
荒野の真ん中を、ゆっくりと歩み寄ってきている男が見えた。
長い黒髪を結い上げた、緑眼の壮年男。細面の表情には、穏やかな笑みを湛えている。黒いネクタイに、黒い喪服の礼装。腰には日本刀を帯刀していた。
「あれは、剣聖……!」
「サイラス・シュバルツ様……!?」
そのあまりにも高名な男の姿に気付くなり、ローラとエリオットは青ざめた。
「エリーゼ・シュバルツが、ケイたちに味方しているんだ。なら、あの方も、おそらくはケイたちの味方をするんだろうな」
「どうするんだよ、クリス! このまま、剣聖と一戦やるのか……?!」
「とんでもないのが出てきてしまった。勝てるかどうかは別に。俺たち3人なら、戦えないことはない相手だろう。けれど……3人がかりでも分が悪いのは確かだね」
クリスは苦笑し、ケイたちへ背を向けた。
その場の全員が、そんなクリスの行動に驚いた顔をする。
「シュバルツ家。……いや、グレイン企業国は、帝国を裏切ったと考えて良いんだね、エリーゼさん?」
振り向くことはせず、クリスは背中越しに、エリーへ尋ねた。
エリーは上品に微笑み、返事をする。
「少なくともついさっき、こうしてメディアの前に、私が姿を晒しても問題ないという、当主の判断をお聞きしています。つまり、私の暗躍が世間に知られても構わないという判断でしょう。当家の公式見解は、当主にお尋ねください。私の一存では、お答えしかねる質問です。サイラス・シュバルツはもう、すぐそこまで来ていますよ?」
「それは恐ろしい。まるで脅し文句のようにも聞こえるね」
「私の口から1つだけ、言えることがあるとすれば――――」
エリーの笑みに、妖しい気配が宿る。
「今この時より、帝国の治世は乱れます。これから誰が何に味方し、どう立ち振る舞うのか。誰も予測できなくなるでしょう。当家とて、それは同じ。お互いに、息災であることを願いますわ」
「まったく……。今日は君たちにしてやられたよ」
まだ困惑している様子のローラとエリオットへ、クリスは「剣聖が来る前に撤退だ」と告げる。納得していない様子だったが、それでもリーダーの指示には従うことにしたようだ。クリスに続いて、その場を去ろうとする。
最後に1度だけ、クリスは振り返って見せた。
「……ケイ」
「……」
「イリアが、こうまでして君たちを助けようとするなんてな。まさか……そこまで想われているだなんて。正直なところ、嫉妬するよ。こんなに他人に対して腹が立つのは、生まれて初めてだ」
クリスは眼差しに殺意を込めて、警告してくる。
「俺が君を殺さなくて良い理由は、何1つなくなっていない。今日のこれは見逃したのではなく、戦略的撤退の判断があってこそだ。確実な勝算もないのに、この戦力だけで、無理に剣聖と事を構えるリスクは避けたいからな。願わくば、2度と表に顔を出すな。次に会った時は……たとえ妻の想い人であろうと、必ず殺す」
撤退の理由を、剣聖との戦いの回避のためだと言っているクリスだが、その本心はイリアの提案に心動かされたことも大きい。だが仲間たちの手前、その言及は避けた。
クリスたちの背は遠ざかって行く。
「…………イリア」
ケイは、ホログラムの背中に声をかける。
だがイリアは何も言わず、振り向くこともしない。
『……またいつか、どこかで会えるさ』
寂しい一言だけを告げて、イリアの姿は、もう見えなくなってしまった。
後に残されたのは、乾いた風と、奇跡的な勝利という、現実だけである。