8-55 アインセイバー
初めて出会った時には、花の姿をしていた。
何かに憑かれたような姉に襲われ、生きるか死ぬかを初めて経験した、瀬戸際の夜だった。父親の書斎に飾られていた、1輪の赤い花が語りかけてきた時の衝撃を憶えている。花は言った。「姉を殺せ」と。生き延びるためには、もうそうするしかないのだと、助言をしてきたのだ。
激しい苦悩と、絶望の中。
最悪な決断をしたことを憶えている。
その結果、あの夜に大切な家族全員を失ったのだから。
それから幾夜もの眠れぬ日を過ごした。
帰る場所もなく。
愛する者もいない。
心許せる他人は、みんな去った。
ただ独り、空虚な世界に残されていた。
生きる意味を見失い、たまらない孤独の日々を送る中で、何度となく自決することを考えていた。そのたびに、赤花はすぐ傍で、「生きろ」と言い続けてくれたのだ。いつだって「生きろ」と言い続けてくれたのは、この世界で彼女だけである。そうして共に時を過ごすにつれて、いつしか彼女の存在は、自分の中でとても大きなものになっていた。
人間よりも賢く。冷血なくらいに冷たい思考をしていて。
けれど人間のことが大好きで。お喋りで。冗談を言うのが好きで。
そんな彼女のことを、何よりも大切だと思うようになっていた。
「………………アデル?」
彼女が目の前で、槍に貫かれていた。
命に代えても守るべき者。
必ず守ると誓った相手。
それが呆気なく心臓を刺し抜かれ、床の上に崩れ落ちていく。
――――殺されてしまった。
かけがえのない。
家族が。
大切な少女が。
目の前で。
「ああ……ああああああああああああああああああ!!」
胸の奥で、何かが壊れてしまった。
もうダメだと想った。
全てがどうでも良く思えてしまった。
彼女が死んだのだ。
自分に「生きろ」と言い続けてくれた、唯一の彼女が。
ならもう良いではないか。
殺されて楽になりたい。
そう思ってしまった。
ケイはその場で、項垂れた。頭を深く傾け、もはや敵の姿を見ることもしようとしない。今すぐにトドメを刺してくれという態度を、無言のままでさらけ出した。大切な少女の死に顔を、見ていられなかったこともある。胸中には、もはや虚無と絶望しか存在しないのだ。完全に戦意を喪失したケイは、戦いを投げ出してしまう。
このまま何も抵抗しなければ、暗愁卿は皮肉の1つも言って、ケイを殺してくれるはずだ。その時が訪れるのを、床を見下ろしたまま待ち続けた。殺されるまでの猶予時間。それは、異様なほどに長く感じた。
1分経っただろうか。
10分経っただろうか。
時間の感覚が正常ではなくなっているのかもしれない。
どれだけ待っても、ケイにトドメの一撃はやってこない。
「……?」
さすがに奇妙に思った。
早く殺して欲しいという苛立ちで、ケイは再び頭を持ち上げる。
「…………なんだ、これ……」
景色がおかしかった。
視界にセピア色のフィルターがかかったように、何もかもが色あせて見える。魔槍でアデルを刺し殺した暗愁卿が、その死体を見下ろしてニヤけている。そしてそのまま、その場で“静止”して動こうとしない。
「…………世界が、止まってる……?」
『――――見るに堪えない状況でしたので、少しだけ口を挟みにきました』
思わずぼやいてしまったケイの傍らから、いきなり少女の声が応えた。
驚いたケイは、隣に佇むその姿を見上げようとする。
だがどういうわけか、それ以上は身体が動かなくなっていた。
どうやら暗愁卿と同じように、ケイ自身も、その場で止まってしまったらしい。
……時間が止まっている?
まるで動画の一時停止状態だ。
この場にいる全ての人物どころか、周囲の景色も止まっている。
身動きが取れないケイの前に移動して、姿を見せたのは、白いワンピースを着た、白銀の髪の少女である。その頭上には、赤い光で形成された、天使の輪のようなものが浮かんでいる。こちらをジッと見つめる表情は、モザイク処理されているかのように、歪んでいて認識できない。
何度として会ったことがある。
名前も知らない、死の入口で待つ少女だ。
だが彼女とは、ケイの夢の中の存在だったはずだ。
実在しているはずがない人物。
なら、気付かぬうちにケイは死んでしまっているのだろうか。
――――君がいるということは……オレは、また死んでしまったのか?
『今回は違います。驚くべきことに、あなたはまだ死んでいません」
口を動かせないケイの言葉が届いているのだろうか。
少女はスラスラと応えた。
『私は、あなたが手にする、その赤き剣に宿る者。そこに残る、かつて存在した者の残照。今は、あなたの脳を過剰速度で動かしているので、まるで時間が止まったように世界が静止して見えることでしょう。実際には、超スローモーションでしかないのですが。この窮地において、あなたと話をするには、これしか方法がなさそうでしたので』
――――話だと……? 今さら君と話しをして何になる。
――――オレの戦う理由は、たった今、消えたんだ。生きる理由と共にな。
――――もう放っておいてくれ。オレはここで死にたいんだ。
――――アデルと一緒に、オレは終わったんだよ……。
『なら、まだ何も終わってなどいませんが?』
――――?
『自分が手にしている剣を、何だと思っているのですか』
少女は淡々と告げた。
『思い出してください。以前にも指摘した通りです。その剣を持ってして、敗北を重ねることはありえません。あなたは剣の“本当の使い方”に気が付いていないだけ』
たしかに、以前にも夢の中で、同じことを言われた。
今頃になって、それを思い出す。
たしか、この少女は言っていた。
剣は死を操るだけで、力の源泉たる死は、どこにでもありふれているのだと。
『死は万物に訪れる理。決して、あなたにのみ存在する宿命ではありません』
――――!?
恐るべき推測が、ケイの中に生まれる。
一瞬だけ、頭の中をよぎった考え。
それが間違っていないのだとすれば……。
『気付いたようですね』
ケイの考えを読める少女は、ケイの推測を肯定してくる。
そのまま少女は語った。
『あなたが今まで使ってきた剣の力は、言うなれば“死亡保険”です。使い手が死に瀕した時に、剣が主人を失わないようにするため、使い手を“無死状態”にする。それは保護機能が働いていただけのことで、あなたの死が、剣を起動させる原動力として一時的に利用されていただけ。つまり、あなたは実のところ、これまでに1度も剣の“戦闘機能”を使っていません』
信じられない思いで、ケイは恐る恐る尋ねた。
――――どうやったら“戦闘機能”を使えるんだ。
『簡単なことです。真名を使って命じれば良いのです』
――――真名?
『万物は、生じた時に名前を持ちます。EDENの大海において、その存在を意味し、定義する唯一の言葉。絶対不変の個体識別名。それこそが真名と呼ばれるもの』
少女は、ケイの手にする剣に触れた。
『あなたの真名が、雨宮ケイであるのと同じように。この剣にも真名があります。それは、あなたたちが呼ぶような、赤剣などではありません。剣に真なる力を求めるなら、真なる名で呼び、命じなさい。真名に語りかければ、真名は応える。この世界にあるEDENにおいて、それは理の原則です』
少女は、動けないケイの耳元に囁いた。
それこそが、赤剣の真名だ。
次の瞬間、世界は再び動き出していた。
少女の姿は、消えている。
アデルを殺したばかりの暗愁卿が、嬉々とした笑みを浮かべてケイを振り返ってきた。嘲笑うようにケイを見て、その目に映る絶望の感情を楽しもうとしているのが一目瞭然だ。
「クク。貴様たちの王は滅びたぞ。次は貴様の番だな、雨宮ケイよ」
暗愁卿の“衰弱”の権能の力は健在だ。ケイの胸中に、すさまじいまでの恐怖心をもたらし、その身体から活力を奪い、戦う意思を根こそぎ破壊しようとしてくる。だが以前にも、ケイはその恐怖の中で、剣を構えて立ち向かうことができたではないか。
震える手で剣を握ろうとも。
ほんの僅かな抵抗にすぎなくても。
たった少しでも、叛逆心を企業国王へ抱くことができたはずだ。
ならば今一度、その勇気を振り絞る。
ケイは震える足で立ち上がった。
震える腕で、剣を構えた。
その切っ先を、悪魔のような強敵へと向ける。
そうして叫ぶのだ。
たった1つだけ。
手にしている、ちっぽけな希望の名を。
「――――原死の剣!!」
赤剣の剣身が強烈な輝きを放ち始めた。
ケイが死亡状態でなくても、その力は解き放たれる。
真名を呼ばれた剣は“攻撃機能”を有効化された。