8-30 覚醒する灼血
やがて、少女の死を嘆く獣の叫びが途絶える。
まだ温かい、小さな亡骸を抱きしめ、ガイアは泣き崩れていた。その胸中に去来しているのは、後悔なのか、懺悔の思いなのか。ただ跪き、力なく両肩を下げて、項垂れ続けた。
悲痛の底に沈んでいる始祖の姿。
それを、人狼血族たちも、奴隷兵たちも、黙って見守っている。
先程まで、怒りと憎悪で満ちていた心は曇ってしまった。
胸を押し潰す、恐怖と絶望も、どこかへ霧散してしまっていた。
今はただ、涙する獣の気持ちが伝播したかのように、悲しいだけだ。黙祷を捧げるような思いで、誰しもが戦いの手を止め、立ち尽くしてしまっている。そうしていると、降りしきる雨音が耳の奥を埋めたてていく。言い様のない寂しさが、皆の表情を陰らせていた。
1人の少女が、項垂れている始祖の傍へ歩み寄っていく。
長い銀色の髪をした、美しい少女だ。
頭部には、不思議な赤い花の飾りを着けている。
獣に抱かれた、小さな戦士の死に顔。
その笑顔を見下ろし、少女は静かに涙した。
やがて決意したように拳を固め、周囲の戦士たちを見渡して訴える。
「もう戦うのはやめてください!」
少女は声を上げた。
感情表現は苦手なはずなのに、自然と、悔しそうな表情が顔に生じている。
その姿を見ながら、ケイはよろめく足取りで立ち上がった。
剣聖に打たれた腹部を手で押さえながら、苦しげに少女の名を呟く。
「アデル……!」
これまでに見たことのない、感情を剥き出しにしたアデル。
その態度に、目が釘付けになってしまう。
「奴隷は……寒くても、毛布をもらえません。喉が渇いても、お腹が空いても、ご飯をもらえませんでした。少しでも反抗すれば、すぐに叩かれて。怖くて、主人の命令には逆らえなくて。自分が何のために生まれたのか。苦しむためだけに生きているのか。何もかも、わからなくなって、見失ってしまうくらいに自由なんてない。死にたいとさえ願う。……私も奴隷の生活をして、よくわかりました。こんなことは、辛すぎます」
不思議だった。
その場の誰もが、アデルの話しに耳を傾けている。彼女の言葉を、無視してはいけないと思わされるのだ。
心のこもったアデルの演説に、心を打たれているのか。それとも、アデルが有する何らかの異能に惹きつけられた影響なのか。わからない。支配権限で、行動を強制されている時の感覚にも似ていた。
アデルは、ミーナの顔を見下ろして続けた。
「死んだ彼女。ミーナは……辛い奴隷の身でありながら、どうしていつも笑顔でいるのか。私には、わかりませんでした。過酷な奴隷生活が長すぎて、とっくにミーナが、おかしくなってしまっているからなのだと、人からは聞きました。けれど違ったんです。ミーナは狂ってなんていません。願っていただけなんです」
語るアデルは今、敵陣の真ん中に出てきて、露出しまっている。危険な前線に、身をさらしているのだ。助けに行かなければならないのに、ケイはそのことすら忘れて、話しに聞き入ってしまう。
アデルは涙ながらに言った。
「ただ――――救われたかった。幸せになりたかった。それだけです」
項垂れていたガイアが、顔を持ち上げる。
目の前で、戦士たちに訴えている少女の横顔を見上げた。
「ここにいる誰もが同じではないですか。人も。獣も。願いに違いなんてありません。なのに、願いを叶えるわけでもない、誰も望んでいない戦いを、どうして私たちは繰り広げているのですか。この戦いは誰のための、何のための殺し合いなのです。自分の命を賭けてまで、挑むべき価値があるのですか」
アデルに問われる。
誰も、答えられない。
みんなわかっていて、見ないフリをしてきた矛盾。
それに向き合わされてしまったからだ。
長い沈黙の間を、雨音が埋め立てていく。
やがて奴隷の1人が、手にしていた銃をその場に捨てた。
「……どうせもう、うちのチームの優勝はねえ。このまま元の奴隷生活に戻るくらいなら、首の爆弾で吹き飛ばされて死んだ方がマシだ。これ以上、クソ貴族を喜ばせるために、獣人を殺すつもりはねえよ」
1人が捨てると、次々と奴隷たちは銃を捨て始めた。
「くだらねえよ、こんな戦い。俺は抜ける。殺したいならさっさと殺せ」
「獣人に個人的な恨みなんかねえよ。なのに、なんで俺たちは、獣人を殺そうとしてんだよ」
「貴族のお遊びで、殺し合いをさせられてる獣人と俺たち、何が違うってんだ」
口々に大会の放棄を宣言し、武器を捨てる奴隷兵たち。
予想外の展開に、人狼血族たちも戸惑いを隠せない。
これ以上の血を流さずに、戦いが終わろうとしている。
その奇跡のような光景を目の当たりに、ガイアは打ち震えていた。
それは願い焦がれてきた、奇跡の体現に思えたからだ。
だが、終戦を拒否するべく、男の無粋な声が響き渡る。
「――――少女への追悼は済んだかね? なら、そろそろ敗北する時間だ」
再び鞘から日本刀を引き抜いた、剣聖サイラスだ。
先程、意図せず自分が殺してしまった少女が死ぬまで、戦いを待つのだと宣言していた。これ以上に待つ必要はないのだと、判断したのだろう。戦意を喪失し、戦いを放棄しようとしている奴隷兵たちを見渡し、まずは溜息を漏らす。
そうして、左手の人差し指につけた指輪を掲げ、告げる。
「どうした、奴隷たち。――――突っ立っていないで戦え」
そう命じられた奴隷兵たちは、意に反して身体が動き始めてしまう。足下に放り投げた銃を拾い上げ、再び人狼血族たちへの発砲を開始した。
ガイアとアデルがもたらしかけた和平は、水泡へ帰す。周囲は瞬く間に、銃火と銃声。そして獣の咆吼と阿鼻叫喚の様相を取り戻した。無残な光景に、ケイは歯噛みした。
「剣聖も貴族! その支配権限を使った命令か……!」
貴族たちが有する“特権”の異能。それは、自分よりも身分が下位の者に対して、命令を強制させることができる力だ。帝国貴族たちが1万年にわたって、反乱なく世を統治できた、根幹の仕組みである。
ガイアの周辺は、乱戦になろうとしている。その真っ只中で、逃げ場を失っているアデルを救おうと、ケイは慌てて駆け出した。
しかし間に合わない。
立ち尽くしているアデルに、近寄る不穏な剣聖の姿があるのだ。
「――――奴隷たちを先導し、戦いを放棄させかけた。今のは、目を疑うような信じられない光景だったよ。君が何者なのかは知らないが、見過ごしてはおけない“影響力”だ」
刀を手にしたサイラスが、すでにアデルの目の前まで接近を終えている。
「私を……どうするつもりですか」
「子供を殺すのは気が進まない。だが、帝国の守護者として、私は危険の芽を摘んでおかねばならない責務がある。悪いがここで消えてもらおう」
サイラスは、アデルの首を跳ね飛ばそうと刀を構える。
おそらく、目にもとまらぬ速度で、アデルの頭は宙を舞うだろう。
抵抗する力のないアデルを殺すことなど、剣聖には容易いことだ。
絶対にやらせない。
ケイは焦り、決死の覚悟をした。
相手は自分よりも遙かに強く、素早い。
勝ち目などゼロに等しいだろう。
だが何としても、アデルが殺される前に駆けつけるのだ。
先程のミーナのように、せめて身を盾にしてアデルを守るくらいはできる。
アデルが殺される場面など、見たくない。
間違いなく、ケイは耐えられない。
「アデルに手を出すな、剣聖!!」
ケイの中で、何かが弾けた。
全身を巡る血が、沸騰したように熱く感じる。
急速に体温が上がり、口蓋から蒸気のように、白煙がこぼれ出る。
薄らと、双眸には青い光が灯った。
全ての血が意思を持って、体内で暴れているようだ。
灼熱のように滾る。
ケイは異常な急加速で、瞬時に剣聖とアデルの間へ割り込んだ。
「ケイ!」
助けにきてくれたケイに、歓喜するアデル。
一方、サイラスは驚いた顔をしている。
アデルの首を跳ねようとして放った刀の横薙ぎを、ケイの赤剣が受け止めている。ケイの戦闘能力なら、すでにおおよそ把握できていたはずなのに、その評価を上回る速度で駆けつけて見せたのだ。だがそのことより、なによりも驚いたのは別のことである。
「……どうなっている、その左腕は……!」
失われていたはずのケイの左腕。
それが傷口から、新たに生えているのだ。
先程、人狼血族のガイアが、自身の右脚を引きちぎって再生させた時のように、人間のケイも、自身の左腕を再生させて見せた。失った四肢の再生など、普通の人間にできることではない。非常識も甚だしい。だが実際に、ケイはそれをやってのけている。
「君は……いったい何だ……?」
素直な疑問が、剣聖の口を出る。
理解不能。聞いたこともない。
雨宮ケイとは、正体不明の敵であるとしか考えられない。
両手で赤剣の柄を手にすると、片手で扱う時よりも、遙かに力が込めやすい。それまでとは比べものにならない威力で、ケイは剣聖の刀をはじき返した。
「よくわからないが、全身に力がみなぎってる。……やれるか?」
アデルと、戦えない状態になったガイア。
2人を背に、ケイは剣を構えて、剣聖と対峙した。




