表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/478

8-28 叶わなかった願い



 8年前――――。



 雪の降る冷たい夜。

 1人の獣人(ラース)が、郊外の暗がりの中を歩いていた。


 顔に無数の傷とシワを刻んだ、無骨な雰囲気の老夫である。歴戦の戦士の面影を潜めながら、その顔つきは穏やかだ。ブラウンの体毛。獣耳。傷ついた背中には、生々しい無数の切り傷と、銃痕(じゅうこん)が見受けられる。流れる血を(したた)らせながら、フラつく足取りで、街灯の光を避けるように雪道を進んだ。


 守れなかった――――。

 その自責の念で、胸中は押し潰されそうだった。


 愛する妻。

 そして、それを助けてくれた、恩人である人間の夫婦。

 その息子たち。


 守りたかった者達を、自分は守れなかったのだ。

 そんな自身の弱さと、不甲斐なさを、悔やむことしかできない。

 情けない思いで、みっともなく泣き出しそうになる。


 冷えた大気に、白い吐息を刻みながら、人の街を目指して歩き続ける。

 足の裏で踏みしめる、冷たい雪の感触。

 これが敗走の痛みなのだ。


「……オジさん。ふわふわで、あったかいね」


「……」


 たった1人だけ。救い出せた少女。

 まだ10にも満たない、小さな命だ。

 残された大切な温もりを、胸に抱いていた。


 少女はまだ幼いため、何が起きたのかを理解できていないのだ。眠いらしく、微睡(まどろ)んだ顔で、老夫の腕の体毛に(ほお)を押しつけてきている。少女が寒くならないよう、夜気から(かば)うように、老夫は肩を寄せて抱いた。


 どれだけ雪道を歩いた頃だろう。

 やがて、(きら)びやかな人の街の中心が見えてきた。

 大勢の人間たちが住まう都市。

 たくさんのビルの明かりが光っている。


 道路がアスファルト舗装されだしたのを見て、老夫は頃合いと見る。

 心苦しい思いで、寝ぼけていた少女を揺り起こした。


「どうしたの、オジさん」


「すまぬ……。もうこの先は人間の街。ワシは入れぬ。ここからは、お前1人で行くのだ」


 老夫は、少女を路上に下ろした。

 着の身着のままで逃げてきたのだ。

 ブラウスにスカートだけの少女の格好は、見るからに冬の装いではない。

 暖炉のある、温かい屋敷で過ごしてきたのだ。

 外出することなど考えていなかったはずだ。


 寒さに震える小さな身体を、老夫は悲しそうに見ていた。


「どうしてオジさんは、人間の街に入れないの?」


「……」


 なんと答えれば良いのか、すぐに思いつかなかった。


 人間のことを天敵だとしか思っていなかった、少し前の自分であったなら、少女を傷つけるような言葉を、平然と口にしただろう。だが、もう違う。ただ今は、少女が向けてくる無垢な眼差しを、直視していられず、視線を伏して応えるしかなかった。


「……人間は、ワシたちのことを嫌っている。ワシが自分たちの街に入ることを、許してくれないのだ。見つかれば、酷い目に遭わされるだろう」


「どうして? パパやママたちは、オジさんのこと嫌いじゃなかったよ?」


「……」


「どうして街の人たちは、オジさんのこと嫌いなの? 何か悪いことをしたの?」


 少女にわかるように、簡単に答えることができない。


 いいや。

 そもそも老夫とて、初めからその答えを知らないのだ。

 ただ、そうであることが当たり前でしかなかった。

 何も知らないまま、人と獣は憎しみ合い、傷つけ合っているのだ。


 少女は悲しそうに目を伏せて、泣き出しそうになりながら尋ねてくる。


「オジさんは……ミーナのこと、嫌いなの……?」


「……嫌いなものか!」


 老夫は首を振って、ハッキリと否定した。


「ワシは今、人間たちに追われている。ワシと一緒にいれば、お前を危険に巻き込んでしまうだろう。ワシと一緒にいない方が、お前は安全だ。だから、共に逃げることはできないのだ」


「どうしてオジさん、泣いてるの? お胸、痛いの……?」


 老夫は耐えかねて、涙してしまっていた。


 この寒空の下に、家も家族も失った少女を、ただ1人置き去りにしなければならない。

 森で共に暮らせたのなら、どんなに良かっただろう。

 しかし、それは叶わない願い。

 明日まで逃げ切り、生き延びられるかもわからない我が身なのだから。


 掻きなじられるような胸中の痛みに耐えかねて、必死に胸を押さえていた。


「おいで」


 たまらず少女を、抱きしめた。


「ミーナのせいでも、ワシのせいでもない。これは、ワシたちのずっと前の時代を生きていた、知らない者たちが、勝手に始めた憎み合いなのだ。それが今のワシたちを引き裂いている。どうして関係のないワシたちが、そんなものに縛られ続けなければならない。こんなことは間違っている……! お前の両親が、ワシにそれを気付かせた」


 老父は少女の両肩を掴み、言い聞かせるように告げた。


「ミーナ。お前は、こんなくだらない憎しみ合いに関わるな。人の世界で、どうか幸せになってくれ」


「幸せ? 幸せってなに? どうすれば、幸せになれる?」


 言葉の意味が理解できていない少女に、どう伝えれば良いのかわからない。

 だから老父は、少女の頬を両手の指で押さえ、小さく持ち上げてやった。

 頬を持ち上げられた少女の顔は、ニコリとした笑顔の表情になる。


「こうやって、笑い続けているのだ」


「笑う……」


「笑顔は、幸せを呼び込む。これから先、辛いことや、苦しいことがあっても。そうしていれば、きっといつか幸せになれる。人生には、楽しいことや、嬉しいこともたくさんあるのだ。ワシはミーナに、それを感じてもらいたい」


 名残惜しいが、いつまでもこの場に留まれない。

 老父の追っ手に、いつ発見されるかもわからないのだ。

 少女の身の安全を思えば、自分はすぐにこの場を離れた方が良いだろう。


「オジさん」


 少女は教えられた通り、ニコリと笑ってくれた。


「ミーナ。幸せになるよ。だからまた、会えるよね……?」


「……会えるとも」


「約束だよ!」


「ああ。約束だ」


 もう一度だけ、老夫は少女を抱きしめた。

 止めどない涙を流し、生き残って再会しようと、固く決意した。


「人が獣を思いやり。獣が人を思いやる。ワシたちがそうなれたのだ。なら他の者たちにも、できぬはずがない。ワシたちで伝えよう。我々は、愛すべき友であるのだと」


「オジさんたちのこと、ミーナは、大好きだよ」


 背を向ける。

 何度も振り返り、少女が無事でいることを確認してしまう。

 だが、もはや少女にしてやれることはない。

 歯を食いしばりながら、老夫は少女の元を離れた。


 その後の少女の行方を、老夫が知ることはなかった。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
よければ「ブックマーク登録」「評価ポイント」をお願いします。
作者の励みになります。

また、ランキングタグも置いてみました。
この連載を応援いただけるのであれば、クリックしていただけると嬉しいです。
小説家になろう 勝手にランキング

©うづき, 2021. All rights reserved.
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ