8-28 叶わなかった願い
8年前――――。
雪の降る冷たい夜。
1人の獣人が、郊外の暗がりの中を歩いていた。
顔に無数の傷とシワを刻んだ、無骨な雰囲気の老夫である。歴戦の戦士の面影を潜めながら、その顔つきは穏やかだ。ブラウンの体毛。獣耳。傷ついた背中には、生々しい無数の切り傷と、銃痕が見受けられる。流れる血を滴らせながら、フラつく足取りで、街灯の光を避けるように雪道を進んだ。
守れなかった――――。
その自責の念で、胸中は押し潰されそうだった。
愛する妻。
そして、それを助けてくれた、恩人である人間の夫婦。
その息子たち。
守りたかった者達を、自分は守れなかったのだ。
そんな自身の弱さと、不甲斐なさを、悔やむことしかできない。
情けない思いで、みっともなく泣き出しそうになる。
冷えた大気に、白い吐息を刻みながら、人の街を目指して歩き続ける。
足の裏で踏みしめる、冷たい雪の感触。
これが敗走の痛みなのだ。
「……オジさん。ふわふわで、あったかいね」
「……」
たった1人だけ。救い出せた少女。
まだ10にも満たない、小さな命だ。
残された大切な温もりを、胸に抱いていた。
少女はまだ幼いため、何が起きたのかを理解できていないのだ。眠いらしく、微睡んだ顔で、老夫の腕の体毛に頬を押しつけてきている。少女が寒くならないよう、夜気から庇うように、老夫は肩を寄せて抱いた。
どれだけ雪道を歩いた頃だろう。
やがて、煌びやかな人の街の中心が見えてきた。
大勢の人間たちが住まう都市。
たくさんのビルの明かりが光っている。
道路がアスファルト舗装されだしたのを見て、老夫は頃合いと見る。
心苦しい思いで、寝ぼけていた少女を揺り起こした。
「どうしたの、オジさん」
「すまぬ……。もうこの先は人間の街。ワシは入れぬ。ここからは、お前1人で行くのだ」
老夫は、少女を路上に下ろした。
着の身着のままで逃げてきたのだ。
ブラウスにスカートだけの少女の格好は、見るからに冬の装いではない。
暖炉のある、温かい屋敷で過ごしてきたのだ。
外出することなど考えていなかったはずだ。
寒さに震える小さな身体を、老夫は悲しそうに見ていた。
「どうしてオジさんは、人間の街に入れないの?」
「……」
なんと答えれば良いのか、すぐに思いつかなかった。
人間のことを天敵だとしか思っていなかった、少し前の自分であったなら、少女を傷つけるような言葉を、平然と口にしただろう。だが、もう違う。ただ今は、少女が向けてくる無垢な眼差しを、直視していられず、視線を伏して応えるしかなかった。
「……人間は、ワシたちのことを嫌っている。ワシが自分たちの街に入ることを、許してくれないのだ。見つかれば、酷い目に遭わされるだろう」
「どうして? パパやママたちは、オジさんのこと嫌いじゃなかったよ?」
「……」
「どうして街の人たちは、オジさんのこと嫌いなの? 何か悪いことをしたの?」
少女にわかるように、簡単に答えることができない。
いいや。
そもそも老夫とて、初めからその答えを知らないのだ。
ただ、そうであることが当たり前でしかなかった。
何も知らないまま、人と獣は憎しみ合い、傷つけ合っているのだ。
少女は悲しそうに目を伏せて、泣き出しそうになりながら尋ねてくる。
「オジさんは……ミーナのこと、嫌いなの……?」
「……嫌いなものか!」
老夫は首を振って、ハッキリと否定した。
「ワシは今、人間たちに追われている。ワシと一緒にいれば、お前を危険に巻き込んでしまうだろう。ワシと一緒にいない方が、お前は安全だ。だから、共に逃げることはできないのだ」
「どうしてオジさん、泣いてるの? お胸、痛いの……?」
老夫は耐えかねて、涙してしまっていた。
この寒空の下に、家も家族も失った少女を、ただ1人置き去りにしなければならない。
森で共に暮らせたのなら、どんなに良かっただろう。
しかし、それは叶わない願い。
明日まで逃げ切り、生き延びられるかもわからない我が身なのだから。
掻きなじられるような胸中の痛みに耐えかねて、必死に胸を押さえていた。
「おいで」
たまらず少女を、抱きしめた。
「ミーナのせいでも、ワシのせいでもない。これは、ワシたちのずっと前の時代を生きていた、知らない者たちが、勝手に始めた憎み合いなのだ。それが今のワシたちを引き裂いている。どうして関係のないワシたちが、そんなものに縛られ続けなければならない。こんなことは間違っている……! お前の両親が、ワシにそれを気付かせた」
老父は少女の両肩を掴み、言い聞かせるように告げた。
「ミーナ。お前は、こんなくだらない憎しみ合いに関わるな。人の世界で、どうか幸せになってくれ」
「幸せ? 幸せってなに? どうすれば、幸せになれる?」
言葉の意味が理解できていない少女に、どう伝えれば良いのかわからない。
だから老父は、少女の頬を両手の指で押さえ、小さく持ち上げてやった。
頬を持ち上げられた少女の顔は、ニコリとした笑顔の表情になる。
「こうやって、笑い続けているのだ」
「笑う……」
「笑顔は、幸せを呼び込む。これから先、辛いことや、苦しいことがあっても。そうしていれば、きっといつか幸せになれる。人生には、楽しいことや、嬉しいこともたくさんあるのだ。ワシはミーナに、それを感じてもらいたい」
名残惜しいが、いつまでもこの場に留まれない。
老父の追っ手に、いつ発見されるかもわからないのだ。
少女の身の安全を思えば、自分はすぐにこの場を離れた方が良いだろう。
「オジさん」
少女は教えられた通り、ニコリと笑ってくれた。
「ミーナ。幸せになるよ。だからまた、会えるよね……?」
「……会えるとも」
「約束だよ!」
「ああ。約束だ」
もう一度だけ、老夫は少女を抱きしめた。
止めどない涙を流し、生き残って再会しようと、固く決意した。
「人が獣を思いやり。獣が人を思いやる。ワシたちがそうなれたのだ。なら他の者たちにも、できぬはずがない。ワシたちで伝えよう。我々は、愛すべき友であるのだと」
「オジさんたちのこと、ミーナは、大好きだよ」
背を向ける。
何度も振り返り、少女が無事でいることを確認してしまう。
だが、もはや少女にしてやれることはない。
歯を食いしばりながら、老夫は少女の元を離れた。
その後の少女の行方を、老夫が知ることはなかった。