0-2 【回想】姉の面影
扇風機が壊れた。
真夏の熱気が身にしみる頃、部屋に清涼感をもたらす、重要な家電が故障。
それは雨宮家の非常事態である。
雨宮ノエは、大型家電量販店にやって来ていた。目的はもちろん、2代目となる新型の扇風機を買うためである。
賑やかなBGMが流れる店内は、多くの人で活気づいていた。
過去の事故で、左脚を失っているノエは、杖をつきながら、自分の義足をやや引きずるように歩いている。そのため、歩きにくい人混みを通るのは苦手だったのだが、それでも冷蔵庫やテレビなどが陳列されたコーナーを見て回る楽しさに比べれば、苦ではなかった。高級家電の数々を目にし、買う予定などなくても、立ち止まってそれらを見ているだけでも楽しい。
買って家に置いたら、どんな生活になるのだろう。
そうした妄想を楽しむだけでも、十分なのである。
ふとノエは、少し離れたコーナーで、弟が立ち止まっている姿を見かけた。
買った扇風機を運ぶ係として、一緒に連れてきていたのである。
弟の背後へひっそりと歩み寄り、弟が何に注目しているのかを確認してみる。
「スマホ、見てるの?」
「!」
ノエの接近に気が付いていなかったのだろう。
声をかけられた弟は、驚いてノエを振り返った。
弟が見ていたのは、スマートフォンの最新モデルが並べられたコーナーだった。
小さなモノリスの中には、高精細な画像が表示されており、いかにも性能がすごそうである。
ノエは、なんとなく弟の考えを察して言った。
「……そっか。ケイだって、そろそろ自分のスマホが欲しい年齢だよね」
弟はもう、小学校の高学年だ。
だが自分のスマートフォンというものを、まだ持っていない。
使いたい時は、父親のものか、ノエのものを一時的に借りているのだ。
最近は、小学校入学と同時にタブレットを持っているような子もいる中、弟はそうしたものとは無縁に等しい生活を送っている。もしかしたら、弟のクラスメイトはみんな持っていて、弟だけが持っていないのかもしれない。そうだったらどうしようかと、ノエは姉として、なんだか心配になってきた。
「良いんだ、姉さん」
弟は、何でもないのだと微笑んで言った。
「オレには連絡を取り合うような友達って、そんなにいないしさ。スマホを持ってたって、陰キャのオレが、クラスの人気者グループのSNSに入れるわけでもないし。今すぐ必要なものじゃないよ」
微笑んでいるのに、弟の表情はどこか寂しげだった。
家族であるノエは、その機微を見逃してなどいない。
ニヤリと笑んで、ノエは弟に言った。
「買っちゃおう」
「え?」
「買っちゃおうよ。スマホ。この、見てたやつが欲しいんでしょ?」
弟が見ていたのは、最新モデルの、さらにその最上位機である。
少なくとも、諭吉が10人くらいは旅立ちそうな価格帯の商品だ。
唐突に提案してくるノエに驚いて、弟はしどろもどろになって否定した。
「い、いいって! だって――――」
弟は皆まで言わず、その後の言葉を飲み込んだ。
言ってはまずいと思ったのだろう。
だがノエには、弟が何を言おうとしたのか、わかっている。
「今、スマホ買うくらいなら、私のリハビリ代にした方が良いって、言おうとしたでしょ」
「……」
弟は気まずそうに、上目遣いでノエを見上げてきていた。
ノエは嘆息を漏らす。そして、苦笑して弟へ言ってやった。
「私ね。結構、気にしてるんだよ? 家族の重荷になってること」
「重荷だなんて! そんなことオレ、1度だって思ってないよ!」
「ありがとう。ケイは優しいね」
ノエは弟の頭を優しく撫でた。
そして「お姉ちゃんは知ってるんだぞ」と言って、話しを続けた。
「この前、ケイの部屋を掃除していた時ね。見つけちゃったのよ、ケイの成績表。この前の期末テストで、全教科満点だったんでしょ? 担任の先生の、驚きのコメントが書いてあったよね」
「……見ちゃったんだ」
「せっかく良い点取ったのに。まーた、お父さんに見せないつもりでいるんでしょ?」
「……」
「知ってるんだよ? ケイ、頭が良いことを隠してるでしょ」
弟は、ばつが悪そうである。
ノエは少し困り顔で、自分たちの父親のことを思い出しながら語った。
「成績なんてどうでもいいー。やりたいことを、思う存分にやって生きろー。適当で大雑把な信条の親だしね、うちの父。私の時もそうだったけど、成績表なんて流し見だったし。仕事が忙しいと、見ることさえなかったし。でもケイの場合は誇れることなんだから、見せた方が良いと思うのに」
弟は渋々と、俯き加減のまま本音を漏らす。
「親父に見せたら……オレのことを進学校へ通わせようと無理するだろ。うちには、そんな金もないのに。そしたら今より大変になるし、姉さんにも迷惑かかるし」
「まーた、それだ。私はね。ケイの重荷になんてなりたくないの」
ノエは店員を呼び止める。
弟が見ていたスマホを指さして、この機種を買いたいのだと告げた。
「ね、姉さん!」
「これはね。成績が良かったケイへの、ご褒美なの」
ノエは弟へウインクして見せた。
その後は、店員に説明されるがままに端末契約をする。途中、保護者の許可が必要だということで、父親に電話することになった。高額な買い物であるため、反対されるかと思いきや、ノエが「ケイに必要なの!」と力説すると、呆気なく「良いんじゃねーの?」という適当な返事をもらい、見事に契約成立となる。
当初の目的である扇風機も購入した。
宅配便で自宅まで送ってもらうことになったため、帰り道の2人は手ぶらで済んだ。
弟は、自分専用の、ピカピカのスマートフォンを見つめ、目を輝かせていた。いつも仏頂面の弟が、殊更に嬉しそうにしている様子を見ていて、ノエも嬉しい気持ちになってしまう。
「ケイがいつも私の力になってくれているみたいに、私だって、いつもケイのために何かしてあげたいと思ってるんだよ? この世でたった2人きりの姉弟なんだもん。頼ってくれなきゃ……寂しいじゃん」
弟は満面の笑みで、ノエを見上げて答えた。
「本当にありがとう、姉さん。これ、大切にするよ」
まるで宝物であるかのように、弟はスマートフォンを大切そうに握りしめた。