8-10 勇者の花嫁
黒塊の首都バロール――――。
エヴァノフ企業国で最大の都市。そして七企業国王の1人である、暗愁卿が牙城とする都市である。領内の密林を流れるガルデラ川が、海と合流する河口付近に存在している。
都市と呼ばれてはいるが、そこにある建物はたった1つだけ。全景、およそ50キロメートル四方の敷地に立つ、漆黒の立方体だ。“キューブ”と呼ばれるその内部は、80階層に及ぶ、積層都市を形成している。東京都が収容できる広さの土地が、80層にわたって、成層圏に至るまで積み上げられている。そんな1つのビルディングだと考えれば良いだろう。内部構造は広大であり、管理しているエヴァノフ騎士団ですら、広すぎて全貌を正確に把握できていないほどだ。
星壊戦争以前の時代。
もともとバロールの周辺は、自動車や飛空艇を製造する工場群が建ち並ぶ、工業都市だった。それが帝国史1万年の時を経て最適化された姿が、今の首都である。都市の発展と共に、街の階層は幾重にも増設されてきた。主要な産業は今でも変わっておらず、水陸宙にかかわらず、アークで人々が使用している乗り物全般の開発製造が、基幹産業になっている。都市の発展に伴い、今でも階層は増え続けているところだ。
79階層――――。
貴族たちの豪勢な住居が建ち並ぶ、美しい景観の閑静なエリアである。企業国王の住居がある最上層に近いため、日照条件も良く、自動化された快適な生活がおくれる人気の土地だ。
その絢爛な宮殿のような住居の1つに、イリアは閉じ込められている。
ビクトリア様式を思わせるデザインの、天蓋付きのベッドや家具。美術品のような家財が並ぶ寝室で、化粧をし、着慣れぬスカートドレスを着せられている。まるで敵の城で、囚われの身になった姫君のような気分だ。そんな女々しいことを考えている自分に、思わず苦笑してしまう。
陽光が注ぐ窓辺に1人で立ち、そこから見える広大な緑の芝を見下ろして呟いた。
「都会に比べれば、ウルズタットの街は田舎に見える、か。ジェシカの言っていた言葉は、その通りだった。まさか、こんな途方もない規模の建造物が、エヴァノフ企業国の首都だなんて……」
ウルズタットから飛空艇に乗せられ、兄にここまで連れてこられた。
その窓から、雲の上に突き出た巨大なキューブの姿を見たのだ。
思い出すだけでも、帝国の底知れない強大さを実感できる。
「これ程の相手から、ボクや東京都民たちは、逃れられると考えていたのか……」
自分の考えが甘かったのだと、否応にも思わされる。その辺の都市と同盟を結んだところで、どうにかやり過ごせるような相手ではなかった。四条院キョウヤを倒した程度のことで良い気になって、自分たちは帝国に反旗を翻し、ツメを立てられるのだと錯覚していたのだろう。完全に、慢心だったのだ。それを思い知らされた。
「……無理だよ、雨宮くん。こんな強大な相手に、ボクたちでは勝てやしない」
現実を呟きながら、悲しくなってしまう。
萎れた花のように、イリアは自分の肩を抱えて俯いた。
ノックが聞こえる。
イリアの部屋の戸が叩かれた。誰か来たようだ。
幽閉されている身なのだ。逃げようもない。
面倒そうに、イリアは返事をした。
「ボクは出られないが、そっちは入ってこられるんだろう? なら好きにすれば良い」
「じゃあ遠慮なく。お邪魔させてもらおうか」
「……!」
入室してきたのは、知った顔である。
アークの人々から勇者と呼ばれ、慕われる甘いマスクの英雄。
許嫁の、クリス・レインバラードである。
「……君か」
「やあ。俺の婚約者さん」
いつもと変わらぬ軽薄な笑みを浮かべ、クリスはウインクをしてくる。
ただのナンパ師だと思っていた時ならともかく、相手が結婚相手だと知らされた今となっては、どういう態度を取れば良いのか、イリアにはわからない。困惑した顔でクリスを見つめていたが、やがて嘆息する。皮肉っぽく、イリアは肩をすくめてクリスへ言った。
「……君は何とも思わないのかい?」
「と言うと?」
「家の都合で、勝手に婚姻相手を決められてしまっても」
「構わないよ」
あまりにも呆気なく即答するクリス。
軽薄な男の、予期しない反応に、イリアは驚いた。
クリスはイリアへ歩み寄り、窓辺の傍に置かれたベッドの上へ腰掛けた。
そうして、にこやかにイリアへ語る。
「武器や兵器を製造し、帝国の栄華に寄与するレインバラード家。俺はその血に誇りを持って生きている。1万年の長きに渡り、このアークの地に秩序をもたらし続け、人の世の平和を実現してきた貢献者だ。先代家長たちは、並々ならぬ大偉業を成しているだろ。なら俺もそうなりたい。勇者と呼ばれ、その平和を維持する一員として奉仕できていることには生き甲斐さえ感じるよ」
どうやらクリスは、実家のことを悪く思っていない様子である。
それどころか、イリアとの婚約について、前向きに考えているようだ。
イリアは腕組みし、素直な感想を口にした。
「意外だね……。君みたいな軽薄なヤツにも、そんな純粋な気持ちがあったなんて。女遊びが生き甲斐なんだとばかり思ってたけど?」
「軽薄と言う評価は、少しばかり悲しいかな」
「そうも思うさ。君は“誇りある家”とやらに留まらず、世界の各地を、自由気ままに巡っているじゃないか」
「困っている人たちを、自由に助けて回っている。それが実際のところさ。別に遊び回るために旅をしていたわけじゃない。知ってるだろう? 俺は怪物狩りなんだぜ?」
「じゃあ、そのついでに、行く先々で女漁りに耽っているわけか。困ってる人たちを助けたいのか。助けた女性と寝たいのか。君の話しは、正直なところデマカセに感じるよ」
率直でキツい物言いのイリアに、クリスは舌を巻いてしまう。
だが自嘲気味に微笑み、疲れたように小さな嘆息を漏らす。
「……愛を知らないから。そうとでも言えば、わかってもらえるかい?」
クリスはベッドから腰を上げる。
そうして真顔で、イリアの目の前に立つ。
「君が言うとおり、人を助けるためというのは口実で、本音のところは違ったんだろう。最近になって、自分でもようやくわかってきたんだ。俺は愛を求め、探すために旅をしていたんだと思う。女を抱くのは、そこに求める愛があるかもしれないと、期待したからさ。幻想だったけれどね」
顔を近づけられ、思わずイリアは赤面して目をそらす。
クリスの眼差しが、これまでナンパしていた時とは違うくらいに真剣なのだ。
「フン……。無茶苦茶な動機だな。なら益々、この婚約は問題じゃないのか。これから先の人生、ボクというたった1人の女に縛られることになるかもしれないんだぞ」
「逆だよ」
「?」
「いつだって憧れているんだよ。たった1人の女を愛するということに。その相手が君だと言うなら、俺は納得するし。光栄に思う」
「……」
何てことを告白するのだろう。
今の発言には、思わずドキっとさせられてしまった。
たまらず、耳の先端まで熱を帯びてしまう。
本音を打ち明けられているのか。
ナンパ師の手口に引っかかりそうになっているのか。
異性経験が乏しいイリアには、判断がつかない。
動揺しているのは、クリスに見透かされているだろう。
だが、焦りを誤魔化さずにはいられなかった。
「あ、相変わらず。口が美味いナンパ師だ。そんな甘い言葉で、ボクは惑わされたりしないよ」
「惑わされないというからには、惑わされたくない理由があるんだろう? それは誰か、すでに意中の男でもいるという意味なのかな?」
「……」
「もしかして、雨宮ケイか?」
「……!」
「その態度、図星かな?」
なぜ今、咄嗟に否定できなかったのだろう。
いつもなら皮肉と冗談交じりに、鼻で笑ってやるところだ。
男とは、唾棄すべき汚物。自分も、母親も、男によって全てを狂わされてきた。
なら自分が、誰か男を好きになることなんてない。そのはずなのだ。
なのにどうして、否定することを躊躇してしまったのだろう。
自分でもわからない感情がこみ上げ、口を閉ざしたのだ。
心が浮ついた隙を突くかのように、クリスはイリアの腰に手を回し、抱き寄せた。
「きゃっ」
「君、処女だろ?」
クリスが耳元へ、息を吹きかけるように囁いてくる。
言い当てられたことよりも、少女のような声を漏らしてしまった自分の態度が悔しかった。イリアは、頬を紅潮させながら、固く唇を引き結んで黙り込んだ。
「……余計なお世話だ」
「なら将来の亭主として、ケイよりも先に、許嫁の俺がいただかないとな」
クリスは手慣れた手つきで、イリアをベッドへ押し倒す。なすがままにされていることに焦り、イリアは足掻こうとするが、華奢な腕は、クリスの腕に捕まっていて身動きが取れない。
悔しそうに。
恥ずかしそうに睨んでくるイリアを見て、クリスは微笑んだ。
「綺麗だ、イリア……。こうして女性の格好をしている時の君は、本当に美しいと思っている。正直、生まれて初めて、異性に心を揺り動かされてる気分だ。初めて君に出会った時から、感じるものがあったんだ。まさかその時は、君が、話しに聞いていたエレンディア家のご令嬢だとは、思いもしていなかったけどね。これは運命かもしれない」
「……ボクを、今ここで抱くつもりか?」
「許嫁の君さえその気なら、今夜からでも、夜通し昇天させ続けてあげることができるけど?」
「……」
しばし無言で見つめ合う。
そうしてからクリスは――――イリアの手を放して解放した。
「……?」
「冗談だよ。そんな怖い顔をしないでくれ。軽々に許嫁の純血を散らそうなんて、考えてさえいない。これから長い時間を共有する間柄だ。するなら双方、納得の上で、だろ?」
早鐘を打っている心臓を懸命に鎮めながら、イリアは乱れた着衣を正して起き上がる。そうしているベッドの上のイリアを、愛おしそうにクリスは呼んだ。
「イリア。俺はこの婚約に同意している。もしも君の返事もイエスなら、ケイたちを救助するよう、君の兄上から頼まれているよ」
「……」
「君は信じていないだろうけれど。俺は本気だ。必ず、振り向かせて見せる」
それだけ告げて、クリスは静かに部屋を出ていった。
残されたイリアは、完敗したように惨めな気持ちになる。
「……まったく。調子が狂うヤツだ」