8-9 ジェイド
ガルデラ大瀑布。
巨大滝の滝壺の先の川は、密林の中を緩やかに流れている。
頬に降りかかる、冷たい雨滴の感触で目が覚めた。
「…………ん」
赤髪の少女は、意識を取り戻す。
視界には、灰色の雲に覆われた雨空が映る。
どうやら、自分は仰向けに倒れているらしい。
それに気が付き、身を起こした。
「ここは……?」
周囲は砂利の敷き詰められた川辺だった。
なぜこんなところで、倒れていたのだろう。
目覚めて間もない。ぼやけた脳で掘り起こせる記憶は、おぼろげだった。
「たしかアタシは……国境を越えるために、水族館を抜けようとして……」
暗黒の川底に現れた、巨大な怪魚の目玉。
そのおぞましい目に見つめられ、背筋が凍えたことを思い出す。
恐怖を感じ、その場で動けなくなったのだ。
その後の記憶が定かではない。
「しっかりしなさい、ジェシカ。状況を把握するのよ……!」
自分を鼓舞して、冷静さを取り戻そうとする。
そうして改めて、周囲を見渡してみた。
川辺の岩に、寄りかかるようにして座り込んでいる少年の姿を見つけた。
抜き身の赤剣を右手に握って、項垂れたまま、動こうともしていない。
知っている顔である。
「ケイ!」
ジェシカは慌ててその場で立ち上がり、少年の傍へと駆け寄った。
ケイの状態を見るなり、血の気が失せて絶句してしまう。
「そんな、ひどい……!」
全身ずぶ濡れなのはまだ良い。
問題なのは左腕だ。
上腕の辺りから下。
肘から先が、なくなっている。
傷口は、何かに食いちぎられた痕のようになっていて、ズタズタの肉塊と化していた。ズボンのベルトで、申し訳程度の止血をした様子だが、おそらく大量出血したはずだろう。もう出血がほとんど見られないことからも、すでに出涸らしになりつつあるのかもしれない。
血の気がない真っ青な顔で、ケイはじっと目を瞑っていた。
だがジェシカに声をかけられたことに気付き、弱々しく瞼を開ける。
苦しげに、そして無理に微笑んで言った。
「……良かった……生きてたんだな、ジェシカ……もう確かめる余力がなくて……」
「どうしてこんな大怪我を! しかも、その左腕……!」
ジェシカはケイに詰め寄り、尋ねる。
弱り切っているケイは、苦笑して見せた。
「ジェシカを呑み込んだあの大魚……あいつに噛みちぎられた……油断したよ……」
「アタシを呑み込んだって……」
思い出した。
川底で眠っていた大魚。
ジェシカはそれに、丸呑みにされたのだ。
普通に考えれば、今頃こうして生きていられるはずがない。
大魚の胃の中で、生きたまま消化されて、とっくに絶命していたはずだろう。
だがそうなっていない。その代わりに、ケイが大怪我を負っているのだ。
「じゃあアンタ、もしかしてアタシを助けるために!?」
「みんなとは、はぐれてしまったけど……ジェシカが無事で……良かった……」
喋っている最中に意識を失いそうになり、ケイの頭がグラリと揺れる。
横に倒れそうになるケイの上半身を受け止めて、ジェシカは涙目になって喚いた。
「バカ! アタシを助けるために無茶して! 死んだらどうするつもりだったのよ!」
「この剣のおかげで、オレは死なないだろ……?」
「死ななくても痛いし、怪我が治るわけでもないでしょ!?」
「……」
「ちょっとケイ! しっかりして!」
完全に意識を失ったようだ。
いくら肩を揺すっても、ケイは瞼を閉ざしたまま動かなくなる。
まるで死んでしまったかのようだ。
ジェシカは、ケイが右手に握ったままの赤剣に目をやる。剣の柄からは、植物の根のようなものが飛び出ており、ケイの手のひらに深々と根ざしていた。そこから何かを、ケイの身体へ送り込んでいるのか。あるいは吸い出しているのか。不明だが、どうやら剣の所有者を無死状態にするモードへ入っているようだ。以前、四条院キョウヤとの戦いで、剣が今と同じような状態になっているのを見たことがある。
「……つまり、もう死んでるのと大差ない容態ってわけね……!」
ジェシカは、支えていたケイの身体を、ゆっくりとその場で横たわらせてやる。
そうして立ち上がり、泣き出しそうな顔を真っ赤にしながら言った。
「アタシのせいで腕がなくなったのよ! どうして文句の1つも言わないのよ……!」
助けてもらった。
ジェシカを救うために、ケイは自分の左腕さえ犠牲にした。
そのことについて、一言だってジェシカを責めたりしなかった。
大恩ができた。
自分はなにか、ケイへ礼をするべきなのだ。
わかってはいる。
だが今は、怒りと嬉しさとが入り交じり、気持ちがメチャクチャだった。
複雑な心境を誤魔化すように、ジェシカは立ち上がって密林を見やった。
そうして、ケイと2人で助かる方法を思案し始める。
「……アタシじゃ、ケイを運んで森を抜けるなんて無理そう」
ケイが特別に長身な男というわけではない。だが、子供同然の背丈のジェシカからすれば、どんな男であっても大柄に見えてしまう。自分よりも大きな男を、腕力のないジェシカが運ぶことは不可能だろう。とてもではないが、背負ってジャングル越えなどできない。
「AIVのマナ通信も届かないか……。リーゼたちと連絡が取れないわね。この辺、自然が豊かだから、大気中のマナ乱れが多くて信号が届かないのかしら。まったく人間の機械って、ちょっとした信号の乱れで、すぐに上手く動かなくなるんだから! 役立たず!」
ジェシカは、自分の目に入れたコンタクトレンズに腹を立てる。
そうしていても仕方がないので、気を取り直して考え直し始めた。
「……この辺の木で、担架を作れないかしら」
担架を作って、それにケイを乗せて引きずる。そうして人里を探すのだ。背負うよりも腕力はいらないし、非力なジェシカでも何とかなりそうな案だ。ただ……ここは密林。舗装された道路を進むのではなく、行く手には凹凸の地形や、ぬかるみなどもあるだろう。ケイの身体に衝撃を加えるのは心苦しいが……ひとまず赤剣を握っている限り死なないのだ。我慢してもらうしかない。
ジェシカは、幹の太い、手頃なサイズの樹木を探す。
良さそうな木を見つけて、手のひらをかざした。
「くっ……。杖がなくなっちゃったから、現象理論の構築がちょっとだけ面倒ね……!」
杖は、ジェシカにとって打撃武器であり、魔術を使う時に、意識を集中させるための媒介だ。魔術を展開する時には、どこにどのような現象を発現させるのかを指定して現象理論を構築する必要がある。その「どこに」の情報を指定する時に、漠然と「ここ」「あそこ」と表現するよりも、「杖の先」など、具体的なわかりやすい場所を指定できた方が、現象理論が造りやすいのだ。
魔術を使う時に、媒介は必須ではない。
だが、戦闘などのような、素早く正確に魔術を展開する必要がある場面では、あった方が良いものだ。そのために持ち歩いていた杖だったのだが……どうやら大魚に襲われた時に、川に流されてしまったのだろう。ジェシカたちと同じように、杖が川辺に流れ着いている様子はなかった。
ジェシカは手の先に火球を生み出し、それを木にぶつける。火球がぶつかった部分は、溶岩をぶつけられた跡のように、容易く溶けて焼き切れる。溶断された大木が倒れ、落雷のような破砕音と共に、地響きを生じさせた。
「よし!」
倒れた木の幹に歩み寄ると、ジェシカは再び手先に生じさせた火球を、ナイフ代わりにして溶断加工を始める。炎で焼き切られ、抉られ、形を整えられて。ジェシカは見る見る間に、持ち手の付いた木の板を作りだした。黒焦げだったが、雨に濡れて程よい温もりまで冷めている。
「フフン。我ながら、やっぱりアタシって天才よね」
作った担架の持ち手を握り、ズルズルと引きずってケイの元へ戻った。自分よりも大きく重たいケイの身体を、ジェシカは一生懸命に持ち上げようとする。何とか、担架の上へ寝転がそうとした。
「待ってなさいよ、ケイ。アタシが必ず、アンタを助けてあげるんだから……!」
生気のないケイの顔を見ていると、思わず涙が出そうになる。
それを我慢して、早く何とかしてやりたいと願う。
「――――木が倒れた音がしたから来てみりゃあ、人間がいるじゃねえか」
「!?」
予期せず、知らぬ男の声が聞こえた。
誰か通りかかった者が現れたのかと、ジェシカは期待に目を輝かせる。
力を貸してもらえるかもしれない。助けてくれるかもしれない。
だが振り返ってすぐに、その期待は打ち砕かれる。
密林の中から歩み出てきたのは、4人。いずれの男も、ズボンだけをはいている半裸の格好だ。鍛え込まれた筋骨たくましい体格。背中と両腕が体毛に覆われており、頭からは、三角形の尖った獣耳が生えている。人間ではない。
「獣人!?」
ジェシカは青ざめ、警戒して後退った。
戦闘を歩いていた無精髭の獣人の男が、顎をさすりながら興味深そうに言う。
「なんだぁ? いるのは2匹だけかあ? チビガキに、死に損ないの剣士ってとこだな」
ジェシカの他には、担架の上に横たわっているケイだけ。
剣を手にしていることから、剣士と推察されたのだろう。
獣人の男たちは、ニヤニヤと笑んで近寄ってくる。
「ははーん。コイツ等、川に流されてきやがったな。生きて下流に流れ着くとは、ツイてんなあ」
「けど、残念。せっかく生き延びたのに、ここで俺等に見つかっちまうとはねえ」
青い毛並みの男が、両手の拳を打ち付けて不敵に警告する。
「人間は見つけ次第にぶっ殺す。それが“ダリウス”の命令だ」
「!」
言うなり、男たちの両腕の筋肉が膨れ、指先から鋭いツメが生えそろう。
攻撃を仕掛けてくるつもりなのは、一目瞭然だ。
慌ててジェシカは、それを制止しようと声を上げた。
「待って! アタシは人間じゃ――――」
「ガキだろうと、人間には容赦しねえんだよ! 死にやがれ!」
青い毛並みの男が、ジェシカへ飛びかかろうとしてきた。
だがそれよりも早く――――岩のつぶてが男に投げつけられた。
額に当たった、握りこぶしほどの石。
それに勢いを挫かれ、男は苛立った顔で睨んでくる。
「くっ! 死に損ない野郎か!」
「ケイ!?」
騒ぎによって、意識を取り戻していたのだろう。苦しげな顔で目覚めたケイが、右腕の異能装具の力を使って、川岸の岩を掴んで投げつけたのだ。血走った目。鬼気迫る気配で、ケイは警告した。
「……ジェシカに手を出すな……!」
「コイツ、いったい今どうやって岩を投げつけてきやがった……!」
「気をつけろ、魔術を使う人間かもしれないぞ……!」
ケイの牽制攻撃を受けて、獣人たちは踏みとどまる。迂闊にジェシカへ襲いかかることができず、睨み合いになってしまった。朦朧とする意識を懸命に繋ぎ止めながら、ケイは苦笑して皮肉を言った。
「獣人族ってのは、ずいぶんと品がない連中だな……ザナみたいヤツは例外なのか……?」
種族のことをバカにされたことが、よほど頭にきたのだろう。
逆上したように、獣人の男たちは猛り始めた。
「コイツ、言わせておけば! 俺たち人狼血族を侮辱するのか!」
「死に損ないの、クソ人間ごときがあああっ……!」
ケイの意識が再び途切れる。
それを気取った獣人たちは、一斉に襲いかかってこようとする。戦いを避けることはできそうになく、ジェシカは手のひらを掲げて、魔術で敵を迎え撃とうとした。
「――――待て!」
だが、その一言によって両者の攻勢が解かれる。
声を上げたのは、それまで一言も喋らなかった、4人目の獣人の若者だ。黒髪。黒い体毛。他の仲間たちがブラウンの毛色であるのに比べると、異質な色をしている。
腕を組んで偉そうにしているのを見るに、リーダー格だった。
待てと命じられた獣人の仲間たちは、怪訝な顔で、黒い毛並みの男へ問う。
「……なんだぁ、ジェイド? コイツ等をぶっ殺しちゃいけねえ理由でもあんのか」
「まさか、お前の義父みたいに……」
「人間が俺たちに何をしてきたのか、忘れたわけじゃねえだろうな!」
「引っ込んでろ」
異議を口にしながら威嚇してくる仲間たちへ、ジェイドと呼ばれた男は冷ややかに応える。不服そうな仲間たちの視線を背に受けながら、気にした様子もなく、ジェイドはジェシカの方へ歩み寄ってくる。
「な、なによ! やる気なの!?」
「お前に用はない。チビ」
ジェイドはジェシカの横を通りすぎ、気絶しているケイの胸ぐらを掴み上げた。
意識のないケイの頬を叩きながら、苛立った表情で尋ねた。
「おい……テメエ、今なんて言った。ザナの居場所を、知ってんのか?」




