8-7 人の命が安い街
川底に沈んだ水族館。
その通路へ流れ込んできた水流に押し流され、アデルたちは一気にそこを抜ける。出口から飛び出すように排出されて転がった先は地面がある。どうやらそこは、ガルデラ川の中州だった。
そこからはもう、目的地である対岸の街が見えていた。緑の木々が茂る風景の中、ビルディングが建ち並び、都市の夜景を作りだしている。それこそがエヴァノフ企業国側の岸にある国境の街だ。
森緑の都市、グルシラ――――。
岸が近いせいだろう。周囲は浅瀬になっており、川の流れも緩やかだ。川辺でまばらに生えている草木を掻き分けながら、アデルたちは都市夜景へ向かって歩く。濡れた服を肌に貼り付けたまま、月明かりに照らされた浅瀬を進んだ。行く手には、やがて堤防が見えてきていた。その斜面に腰を下ろし、アデルとリーゼ、そしてザナの3人は肩を並べた。呆然と、自分たちが来た道を眺めてしまう。そうして、はぐれた仲間たちが追いついてくるのを待ったのだ。
……だが、いつまで経っても2人は現れなかった。
空が白み、朝が訪れても、目の前に広がるのは、代わり映えのない川辺の風景だけである。今朝は生憎と天気が悪い様子で、曇った空からは小雨が降り始めていた。雨に濡れることも構わず、それでも3人は、堤防の斜面で仲間を待ち続けていた。ただひたすらに、無事であることを願って。
「雨宮さんは、本当にすごい人です……」
アデルの隣で、膝を抱えていたザナが呟いた。
言いながら、いまだに振るえている、自らの手のひらを見下ろしている。
「あんな大きな怪物を相手に、ジェシカさんを助けだそうと、たった1人で立ち向かっていくなんて……。そんなことできる人、獣人の中でだって見たことありません。僕なんか怖くて、まだ震えてますよ。とても真似できません」
「……それが、ケイが普通ではないところなのです。みんな、そのことをよくわかっていませんが」
少し誇らしい思いと共に、アデルは苦笑した。
だが、その勇気は果たして、無謀ではなかったのだろうか。
勇ましく飛び出していったケイは、戻ってくる様子がない。
大切な人の安否がわからない。不安な思い。それを抱えていると、いつもムッツリ顔のアデルであっても、苦しげな表情が出てしまう。それを見かねたこともあったが、リーゼが立ち上がって言った。
「……そろそろ行こう、アデル」
「ダメです。ケイたちが、まだ戻ってきていません」
「これだけ待っても来ないってことは……下流まで流されて、簡単に合流できない状況なんだと思う。それに、AIVでの通信にも応答がないし、都市からだいぶ離れた圏外にいる可能性だってある。たぶんケイもジェシカも、ここには来ないよ」
「……」
リーゼの意見を正しいと思いながらも、アデルは泣き出してしまいそうな顔をしている。
その気持ちを、リーゼは察していた。
アデルは過去に、淫乱卿にケイが殺されたところを目撃しているのだ。あの時、家族を失った悲しみが、深い心の傷になっている。だからだ。また同じことが起きているのではないかと、怖くて仕方がないのだろう。
気休めになればと思い、リーゼは素直な意見を口にした。
「所有者を無死状態にする、おそらくアークで最強の剣。ケイはそれを持ってる。少なくとも死ぬことだけはないはずだよ。今までも、ケイは何度も生き延びて帰ってきた。今回も……きっと大丈夫。目的は一緒なんだから、必ず行き先のどこかで合流できるはずだと思う」
「……」
半分は自分へ言い聞かせているように、リーゼは言った。
アデルは少し悩んだ後、ようやく重い腰を持ち上げた。
「たしかに。下流に流されてしまっている可能性は高いです。ここにいても合流できないでしょう」
「そうですね。とりあえず僕たちだけでも、街に行きましょうか」
3人は顔を見合わせて、堤防を後にして街の方角へ向かって歩き出した。
リーゼとザナは外見を隠すため、フードを目深にかぶって頭部を隠す。
そうして、街灯に照らされた舗装路を歩き、市街を目指した。
アデルが冷えた身体を震わせていることに、リーゼは気が付いた。昨日から濡れ続けているせいだろう。唇は青ざめており、寒そうに両肩をさすっている。
「ごめんね、アデル。私の外見は、ヒトの街の中では目立つから。このフードローブを貸してあげることができない。手持ちのお金が少しあるから、どこかで傘や毛布でも手に入れたいね」
「気にしないでください。私は大丈夫ですから」
「……無理しちゃダメだよ?」
見知らぬ地で、ケイがいないことを不安に思っているはずだ。
それでもアデルは、何でもないのだと強がりを言っているように見える。
「……東京の人たちを助けるために、エヴァノフ企業国の大型都市と同盟を締結しなければなりません。ケイもイリアもいないのに……人間でない私たちで、それができるのでしょうか」
「アデルはもう人間だよ。だからきっと、帝国のヒトたちはアデルの言葉に耳を貸してくれるよ」
「私が、人間……」
「最悪、やるしかない。私も手伝うから、頑張ろう」
リーゼは、スーツケースを持っていない方の手で、震えているアデルの手を握ってやった。
不安そうなアデルを、懸命に励ました。
◇◇◇
徒歩で市街に辿り着いたの時には、人々の通勤時間帯を少し過ぎた頃になっていた。早朝ではないが、まだ朝の時間帯である。メインストリートを歩いていても、今日は雨のせいか、通りを出歩く人の姿が少ない。あまり人目につきたくないアデルたちにとっては、好都合な1日である。
対岸の街のウルズタットよりも、暗い雰囲気の街に見える。曇り空のせいだけではないだろう。路上を行き来する人々の顔に、活力がない。元気がなく、俯いて歩く人々が大半だ。その上、路上の隅にはゴミが落ちたまま放置されていたり、店舗の閉まったシャッターには、落書きが目立つ。あまり治安が良くなさそうだ。
リーゼが、脇道に小さなレストランを見つけた。ダイナーである。まだ、モーニングセットの時間は終わっていないようで、朝食にありつくことができそうだった。
「お腹が空いてたら、頑張れるものも頑張れないしね。朝ご飯を食べていこうか」
「でも僕、お金は薬代に使っちゃったので、もう手持ちは……」
「私が持ってるから大丈夫。イリアほどじゃないけど、朝食を奢るくらいはできるよ」
「助かります!」
「リーゼは役に立つエルフです。昨日から何も食べていなかったので、限界でした」
言うなり、アデルが腹を鳴らす。
喜んでくれている2人を見て、リーゼは母親のような気分で、クスクスと笑った。
ダイナーに入る。
客の入りは、それなりなようだった。ガラガラに空いているわけではなく、いくつかのテーブルは埋まっている。アデルたちは端のテーブル席へ腰掛けた。
するとすぐに、エプロン姿の女店主が、毛布とタオルを持ってきてくれる。「席が濡れるから」と言ってはいたが、その表情に悪意はなく、おそらくは親切心からの行動だとわかった。それが嬉しくて、3人はニコニコしてしまう。
ホログラム表示のメニューを見ながら、アデルは何を食べようかと悩み始める。だが、料理のラインナップを見て、すぐに眉をひそめた。
「……人工食料? 知らない食材です。これはいったい……」
「帝国が開発した、人工の食べ物らしいよ。本物じゃない、味付けされた偽物で、あまり栄養価は高くない食糧らしいわ。安く大量生産できるから、お金がない人向けのメニューらなんだって。私はそもそも、人間の食べ物ってあんまり食べたことないけど、どんな味なんだろうね」
「そう言えば、機人族って、僕たち獣人や人間たちと同じ食べ物を食べるんですか?」
「私はアデルみたいに光合成ができる肌を持ってるから、生きるために食べることは必須じゃない。けど、食べ物を食べた方が、エネルギー摂取効率が高いから、有機機械化された身体にも消化器官を備えてるの。一緒にご飯を食べることはできるんだよ」
「へえ。やっぱりすごいですね、機人は。機械寄りに科学技術が発展している帝国とは違って、バイオに寄った方面へ科学技術が進んでいると言うか。不思議です」
――――銃声が聞こえた。
「!?」
見やった先。
ダイナーの窓の向こうに見えたストリートで、人間が撃ち殺されていた。
裕福な身なりの少年少女たちが銃を手にしており、ホームレスのような、みすぼらしい格好の人々を囲んで嬲っている。やらているのは下民だろうか。路上に転がった下民の死体を、笑いながら蹴飛ばしていた。状況を見るに、貴族の子供たちが、面白半分に下民を射殺している場面のようだ。通行人の市民たちは、見て見ぬ振りをしながら、急ぎ足で横を通りすぎていく。
貴族の子供たちは、「下民風情が誰の許可を得て通りを歩いてんだ!」と罵声を浴びせている。それを聞いて、イヤな気持ちになりながら、アデルはザナへ尋ねた。
「あれも……密入国者ですか?」
「違うと思いますよ。ただ、簡単に殺されてるってことは下民なんでしょうね。下民の命は軽いので、貴族の鬱憤晴らしで八つ当たりされ、ああして殺されることは珍しくないそうです」
「うん。どうやらこの街は特に、市民や下民への差別が酷いみたいだね……」
「僕が思うに、この街だけというよりも、この国全体が特に酷いですね。他種族の僕たちから見てても、下民の人たちは、扱いがかわいそうで……」
忠告するように、リーゼはアデルへ言い聞かせた。
「覚えておいて、アデル。この街の様子の方が、帝国社会の“当たり前”なんだよ。これまで、アデルたちと一緒に訪れた街は、どこも差別がそんなに酷い場所じゃなかった。だけど他の街では、貴族以外の普通のヒトたちが、かなり理不尽で酷い目に遭わされてる。ああして、遊び半分に貴族が下民を殺すことだって起こり得るの。そして……誰もそれを止められない」
「なんて惨い……」
「市民権を買って、人権を認められている市民ならともかく……。それすらない下民は、ああやって殺されたって文句も言えない。お金がない人は、人間じゃないの。それが帝国人にとっての常識、人々に根付いている当たり前だよ。勇者と呼ばれるような立派な英雄だって、同じ考え方だったでしょう?」
暗い気持ちで話し込んでいると、トイレの方から大男が姿を現す。
男はアデルたちに気が付いたようで、テーブルの近くへ歩み寄ってきた。
「おいおい。お前さん……? アデルじゃあねえのか?」
見覚えのある豪快な容姿。
大男は、ウルズタットまで同行していた商隊のリーダーである。
「ガレン!」
「がはは! 朝飯を食って店を出る前に、便所で用を足してたら、まったく奇遇だぜ! まさか、またお前さん方に会えるなんてなあ! 無事に国境を越えられたみたいで何よりじゃねえか!」
アデルに抱きつかれたガレンは、その頭を撫でてやる。
そうして、アデルたちのテーブルの空き席に、勝手に腰を下ろした。
「あの時のドンパチで、どうなったことかと心配してたぞ。あんまり話したことないが、そっちの弓の姉ちゃんはリーゼだろ? お? そっちの小さい坊主は、新顔だな」
「あ。ザナって言います。アデルさんたちと一緒に、国境を越えてきたんです」
「そうか。俺はガレン。アデルたちとは旅の友みたいなもんだ。よろしく頼むぜ」
「よ、よろしくお願いします」
ザナは獣人であることがバレないように、フードを目深にかぶり直す。
ガレンは全員を見渡して、不思議そうに首を傾げた。
「んん? ませたチビっ子と、剣の兄ちゃんの姿がないようだが……」
「……はぐれました。あのドンパチの時に」
言い訳をしたのは、アデルである。
密入国してきたのだと、本当のところをガレンに話すことはできないだろう。
咄嗟に出た、苦し紛れのウソではあったが、あながち間違ってはいなかった。
「そうだったのかい……。まあ、死体を見たわけじゃないんだろう? なら大丈夫さ。俺たちの業界でもよくあることだが、はぐれちまったヤツと、目的地で合流できるなんてことはザラにある。兄ちゃんきっと無事さ。そのうちひょっこり顔を出してきて、再会することもできるさ」
「ありがとうございます、ガレン。少し気が楽になります」
「そういや……お前さん方の目的地ってのはどこなんだ?」
ふと思い至ったガレンが、アデルに尋ねた。
「国境を越えて、このグルシラの街まで行くって話しは聞いちゃいたが、そっから先のことは聞いたことなかったな。俺たちの商隊は、ここらで1番大きい地方都市の“城塞都市ベルディエ”へ向かうんだが、もしかしてまた行き先が同じだったりするのか? ならまた一緒にどうだい」
行き先がどこか。具体的には決めていない。
だから返答に困ってしまった。
ひとまず四条院企業国を離れ、隣国にある大型都市のどこかへ駆け込む。そこで、ワクチンや金を交渉材料にし、東京との同盟関係を結んでくれる都市を見つけ、転移門を開設。都民を避難させた後に、帝国の目を逃れた場所に居住地を作るのが目的だった。
エヴァノフ企業国は土地が豊かで、ジャングル地帯が多く、都民が隠れ住むには最適であるというレイヴンの助言があっての判断だ。変な話しではあるが、目的地は“これから探す”というのが正確なところである。
味方につけるのなら、なるべく大きな都市が好ましいだろう。
ガレンが大都市へ向かうと言うのなら、同行して損はないかもしれない。
「――――小汚い店だな」
ダイナーの扉が蹴り開けられる音がし、アデルたちの会話は中断される。入店してきたのは、先ほどストリートで下民を撃っていた貴族の子供たちだった。少年少女の、4人組である。その中の、リーダー格らしき逆立った金髪の少年が、店内を見渡して嘲笑った。
「庶民どものエサ場がどんなところか、この俺がわざわざ視察しに来てやったぞ」
「こんな粗末な店で食事をするなんて不潔だよ。やめとこーよ」
「たまには良いじゃないか。貴族として、市民たちの声も聞いてやらないとなあ」
ゲラゲラと笑い、ふざけて小突き合う貴族たち。空いているテーブル席に腰掛けると、「さっさと注文を聞きに来い」と、女店主を呼びつける。駆けつけた店主を蹴り上げて転ばすと、「来るのが遅い」と因縁をつけて暴力を振るい始める。
「店主さんが……!」
「よせ、アデル。目を合わせるな。ああいう貴族に関わると、ロクなことがない。連中の持ってる指輪。あれの支配権限には逆らえないんだ。こういう時は、見て見ぬ振りでやり過ごすんだ。胸くそは悪いがな」
立ち上がろうとしたアデルを、ガレンが引き留めた。
その表情は、苦虫を噛んだようだった。
金髪の少年は、コソコソと視線を送ってくる店内の客たちを睨み付けた。
「おい、なんだ? この俺、フェルティエ家のサドンに、何か文句があるヤツでもいるのか? んー?」
誰も目を合わせようとしない。鼻血を出しながら「許してください」と懇願する店主を、問答無用で殴りつけ、サドンは悦に入っていた。そうしてから店内を見渡したサドンは、次のオモチャを見つけて、歓喜の口笛を吹いた。
「おい、そこの銀髪の女」
サドンはアデルを指さしている。
ガレンが額を抱え、「まずいな……」と呟くのが聞こえた。
「お前は市民か? ずいぶんと整った顔をしているじゃないかよ。よく見せろ」
歩み寄ってきたサドンは、アデルの肩を掴み上げて立たせる。
そうして乱暴に顎を掴み、値踏みするように観察した。
サドンはいきなり、アデルの胸をわしづかみにする。
「痛っ!」
「ほほお。ゴム鞠のような、良い張りじゃないか。顔もとびきりときてる。気に入ったぞ。下の具合も、気になるところだなあ?」
下卑た笑みをこぼし、サドンはアデルの耳元で囁いた。
「光栄に思え? お前は今日から、俺の女だ」
見かねたリーゼが席を立ち、アデルにちょっかいを出してくるサドンを突き飛ばした。自分に反抗的な存在に対して、頭にきたサドンは拳銃を取り出してリーゼを撃とうとする。だがリーゼは、素早くサドンの手首を打ち付け、簡単に銃を手放させる。武器を落としたサドンは、慌てて後退した。
「コイツ……貴族に手を出しただと! 許せん狼藉だ!」
人前で恥を掻かされたことで、サドンの怒りは一気に最高潮のようだ。
こめかに青筋を浮かべ、右手の中指にした指輪をかざす。
貴族になった者に、帝国から授けられる指輪。
貴族であることの証でもある。
それは帝国が製造することができる、数少ない拡張機能の1つだ。正規資格を持った者のみが、秘められた力を行使できる。支配権限の力を有した指輪。サドンはリーゼを指さして命じた。
「お前、この場で自害しろ!」
店内に緊張が走る。
貴族が行使する支配権限の効果は絶大だ。どんなに理不尽な命令であっても、命じられたが最後、市民や下民に反抗の余地はない。それがわかっているからこそ、周囲の客たちは青ざめた顔で、命じられたリーゼへ注目していた。
だが、リーゼは涼しい顔で立ったままである。
サドンの命令に従う様子がない。
「命令に従わないだと?! どういうわけだ!」
うろたえているサドンに、貴族の友人たちが笑って助言した。
「サドン、名前を呼んで命じてないから、強制力が足りないんじゃね? たまにいるらしいぜ。遺伝的に、支配権限の効きが悪くて、命令に逆らえるヤツがいるって」
「私も父様から聞いたことあるー。普段はあんま気にすることないんだけど、そういう下民に会ったら、名前を呼んで命じないとダメなんだってー」
「クッソ……!」
人の生き死にを左右しようとしているのに、ふざけあっている貴族の子供たち。
リーゼは呆れ果て、頭を抱えた。
次の瞬間――――凄まじい行動速度で、貴族の子供たち全員を殴って昏倒させる。
反撃する暇も与えず、電光石火で4人を打ち倒したリーゼ。それを見た店内の客たちは感嘆の声を漏らした。だが同時に「何てことを……」、「仕返しされる……」と、呻く声も聞こえる。
サドンはまだ意識があるらしく、殴られた腹を抱えて蹲っている。苦しいのだろう。脂汗をかいて震えており、悔しげにリーゼを見上げていた。周囲の反応など気にせず、リーゼはフードの下から、冷ややかな眼差しをサドンに向けて告げる。
「――――我が王への非礼は、これで許す」
そう言ってリーゼは、アデルの手を引いて店を後にする。
「行くよ、アデル。ここにはいられない」
「リーゼさん……かっこいい!」
「なんてこった……。かなりまずいことをしでかしたな、お前さん」
鎮圧された貴族の子供たちを見渡して、ガレンは頭を抱えた。
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