7-1 薄明光線
また――――いつか見た暗闇の中に立っていた。
光のない。何も見えない。黒一色の視界。
色も。音も。匂いもない。ただ漠然と。どこまでも続く虚無だ。
だが、以前に訪れた時とは違って、その闇の中に自分の姿が見えている。
手も足もあり、身体が見えている。
まるで宇宙のように彼方まで広がり、漆黒で塗りつぶされた場所。
その中に、確かな自分という存在を感じることができた。
闇の向こうへ、じっと目を凝らし続ける。するとやはり、以前と同じように、1人の少女の姿が見つかった。それは虚無の中に浮かぶ、唯一の有。周囲は光さえない黒の世界であるというのに、不思議とその少女の姿だけは、ハッキリと目に捉えることができた。
白いワンピースを着た、まだ年端もいかない背格好。白銀の髪の少女である。奇妙なことに、その頭上には、赤い光で形成された、天使の輪のようなものが浮かんでいる。こちらをジッと見つめる表情は、モザイク処理されているかのように、歪んでいて認識できない。
「また、ここを訪れたのですね」
予期せず、話しかけられた。
聞いたことのない、知らない声だ。
少年は尋ねた。
「ここは……どこなんだ?」
「ここは自我と大海の狭間。入り口の世界。誰もに開かれていて、誰もが至る道」
少女の説明を、少年は理解できなかった。
入り口の世界とは、何の入り口なのだろう。
それが気にはなったが、他にも、確かめておきたいことがある。
もう1つ、少年は疑問を口にする。
「……君は誰なんだ?」
問われた少女は、黙り込んだ。
だが間を置いて、素直に答えてくれる。
「私は、かつて失われた者。その残照が刻む影」
「どういう意味だ?」
「……」
少女は涼やかな口調で告げた。
「剣の力は、ヒトの手には強大すぎます」
「剣って……」
「あなただけじゃない。このままでは、世界の全てが呑み込まれますよ?」
警告である。
もっと多くの言葉を、少女と交わしたかった。
だが時間切れのようだ。
少年の意識は、覚醒の時を迎えた。
◇◇◇
ベッドの上で目が覚めた。
天井には大きな鏡が埋め込まれており、横たわっている自分の姿が、仰向けのまま確認できた。白い病院服を着ていて、腹部のあたりまでがシーツで覆われている。心電図やバイタルモニタ、点滴などが、手足や胸に繋がれているようだ。
上体を起こしてみると、全身にひび割れるような痛みが走った。
歯を食いしばってそれに耐え、雨宮ケイは周囲を見渡す。
大型テレビがあった。
ソファやテーブルが置かれた、広いリビングルーム。
見た限りでは、そんなふうに見える部屋だった。
全ての窓にカーテンがかかっていて、外の様子はわからない。
室内の電灯だけが光源だった。
どこかの民家にいるのだろうか。だが、ケイのベッドの周りに置かれている機械類は、病院の設備だとしか思えない、本格的なものばかりだ。どこかの邸宅のようでいて、病室のような雰囲気でもある。過去に祖父が入院した時、病院の一般的な入院費用をインターネットで調べたことがある。その時に見た記憶があるが……もしかして、一泊するだけでも10万円くらいは料金を取られる、VIP用の病院個室ではないだろうか。そんな高価な部屋に泊まっているのだとしたら、入院費の支払いを考えるだけで、寿命が縮まるような思いである。
ふと、ケイは自分の右手に温もりを感じた。
見やると、ケイの手を握ったまま、眠りこけている少女の姿がある。
白銀の長い髪。左側頭部に生えた、赤い花。
美しい少女であった。
ベッド脇の椅子に腰掛け、小さな両手で、ケイの右手を握ってくれていた。おそらく、そのまま疲れて眠ってしまったのだろう、ベッドに突っ伏して、寝息を立てている。ずっと傍にいてくれたのか、少女の傍らには、たくさんの本が山積みになっていた。付き添い中に読み終えたと見られる、本の山である。
しばらくケイは、その愛らしい寝顔を見ていた。
すると少女は薄らと瞼を開け、身を起こす。
ぼやけた眼を擦りながら、少年が目覚めていることに気が付いた様子だ。
「ケイ!」
アデルは、心底から嬉しそうに表情を輝かせた。
「……!」
それを目の当たりにしたケイは、思わず頬を熱くしてしまった。
これまで表情の変化が乏しかった少女が、かつて見せたことのない、微笑みを浮かべている。てっきり、いつものムッツリ顔を向けられるものだとばかり思っていたケイだったが、不意を突かれた思いである。感情表現が苦手だったはずの少女は、今は花開いたように可憐な笑顔を向けてきた。
アデルは目尻に涙を溜め、ベッドの上のケイに抱きついた。
「いてて! アデル、点滴の針が痛いって、離れろよ!」
「離れません!」
ケイの生きた感触を確かめるように、アデルは一生懸命にケイの背中へ両手を這わせてきた。そうして、きつく、きつく抱きしめてくる。胸部に押し当てられた柔らかい2つの感触に、ケイはますます赤くなって、狼狽してしまう。
「あ、アデル……胸が当たって……!」
聞く耳を持たず、アデルはケイから離れようとしない。
ケイが目覚めたことを、本当に喜んでくれている様子だった。
それに悪い気はせず、やがてケイは観念する。
素直に、思ったことを口にした。
「……お前が無事で、本当に良かった」
「あなたの方こそ……! あなたが生きていて、私がどれだけ嬉しいと思ったのか……!」
アデルはケイの胸に顔を埋め、ポロポロと涙をこぼす。
その温かい滴で濡れた服の胸元が、ケイには熱く感じた。
「2度と会えないかもしれないと思ってました。生きてるかもしれないと、イリアが言ってくれたことだけを心の支えにしていました。もう私を心配させないでください。淫乱卿に、あなたが殺されたと思った時……あんな想い、私はもう受け止められませんから……!」
「アデル……悪かった」
ひとしきりケイの胸で泣いた後、アデルはようやく、ケイを放してくれた。
ナースコールのボタンを押してから、ケイへ忠告する。
「良いですか? 意識が戻ったからと言って、まだ油断はできません。ちゃんとお医者様に診てもらわなければダメですよ。ケイが受けた怪我は、普通じゃないのですから」
「普通じゃない怪我って……ちょっと身体が軋むこと以外は、別に何ともなさそうだけど?」
「それは、治し方が普通じゃなかったからです」
「……?」
不思議そうな顔をしているケイへ、アデルは言い聞かせるように語った。
「手首を切っての大量失血。全身骨折に裂傷。両腿は筋繊維の断裂と、血管破裂が起きていました。普通なら4回は死んでいるほどの大怪我なんですよ? そんな状態で、あれだけ動き回って戦えていたなんて……非常識です」
言われてケイは、思い出す。
四条院キョウヤとの攻防。自分が負った怪我。そして犠牲……。
全身に迸る激痛を懸命に噛み殺しながら、文字通り、死ぬ気で戦い抜いた。
最後の力で、死の赤剣を振り切ったところで、意識が途絶えた。
そしてこうして、病院で目覚めている。
「4回は死んでいた大怪我か……。たぶん実際に、4回くらい死んだんだろうな」
ケイがそう呟く頃、白衣を着た医者と看護師たちが、病室へやって来た。
医師たちは、ケイの意識が戻っていることを確認すると、手際良く診察を始めてくれた。聴診器を当てられたり、血圧を測られたり。一通りの検査が終わると「問題なさそうです」と、一言で結果を教えてくれた。
「これから、アルトローゼ財団の担当者に連絡してきますので、少々お待ちいただけますか?」
「え? あ……はい。待ってます」
帝国へ抵抗するために、イリアが立ち上げた財団。
その名が一般人の口から出てくることに、ケイは戸惑ってしまっていた。
連絡するから待っていろとは、どういことなのだろうか。
よくわからなかった。
医師たちと入れ違いで、見知った青髪の少女が病室へ入ってくる。
リーゼ・ベレッタは、元気そうなケイを見て微笑みかけてきた。
「意識が戻ったんだね、ケイ」
「リーゼか。そっちも無事だったんだな」
「淫乱卿との戦い以来の再会だよね。ようやく話しができて、嬉しいよ」
「同感だ」
ケイは苦笑しながら言った。
「しかし驚いたな……。機人族のリーゼが、身を隠さずに、普通に病院の中をうろついてるなんて。予想外だ」
「東京で、とんでもない事件が起きたばかりだしね。今さら、私の姿を見た程度で驚く人はいないわ。もうコソコソと人目を忍ぶ必要がなくなったのは、楽なものよ」
「……なんか気のせいか。リーゼ、普通のしゃべり方ができるようになってないか?」
「ああ。それね。まあ、会わない間に色々とあったのよ。あなたと同じで」
「そう言うものなのか……?」
「こうして直接に話しをするのは久しぶりだけど、こっちはあなたの身に起きた経緯について、すでにイリアから聞かされてるから。ちょっと不公平かもね」
以前より表情が豊かになったアデルと同じように、なんだかリーゼも、少し雰囲気が変わったように思えた。その変化に戸惑いながらも、ケイは恐る恐る尋ねた。
「それで……。オレはどれくらい、ここで寝てたんだ?」
「3日くらいかな」
「3日か……」
少し安心できた。
以前、剣の力を使って意識を失った時は、1ヵ月以上の時間が経っていた。それでも運が良かったはずだろう。ドミニクの実験じみた治療がうまくいかなければ、下手をすれば何年も意識を失っていたかもしれないのだから。今回については、さらに短期間で済んだのは、ラッキーだったと考えるべきだ。
リーゼは、ケイへ語り出した。
「この病院へあなたが運び込まれた時、医者が、あなたの身体を検査して驚いていたわ。右手に剣が根を張っていて、離れなくなってたのも相当に変だったけど、それどころじゃなかった。ヒトの身体を治療するために、なぜか機人の私が呼び出されたから、奇妙に思ったけど。見て納得したわ。どういう理由か知らないけど、あなたの身体には機人の体細胞が移植されてるわね」
今度はリーゼが苦笑する。
驚きと畏怖の混じった、乾いた笑みに近い。
「有機機械細胞によって、骨格が少し金属化していたわ。筋肉も強化されていたし。半分はヒトで、半分は機人。さしずめ今のケイは“半機人”とでも呼べば良いのかしら。ヒトだけど、ヒトとは思えない。見たこともない肉体構造になっているわ」
そう言えば。
淫乱卿との戦いでケイが生き延びた経緯について、おおよそのことはイリアに話していた。だが、どのように治療されたのか、具体的なことは説明していなかった。だからリーゼも聞かされてなかったのだろう。無理もない。
ケイは自分の身体のことを、簡単に説明した。
「……淫乱卿に殺された後、オレを治療してくれた医者が、人体実験好きの変なヤツだったんだよ。オレを治療するために、機人の細胞を移植したって言ってた」
「そんな無茶な手術が成功するなんて……。有機機械細胞を、普通のヒトに移植したら、とてつもない拒否反応が発生するはずなんだけど……その剣の力で“無死状態”になっていたから、身体に馴染むまで、好きなだけ時間をかけられたのかもしれないね。致死ダメージを受けても、死なないんだもの」
「もしかして、リーゼは、最初から剣の力に気付いてたのか?」
「いいえ。アデルたちから、あなたと四条院キョウヤの戦いの様子を聞いて、初めて知ったわ。死という不可侵の理を侵す剣だなんて、もはや機人族の知識を持ってしても解明不能な代物だと思うわ」
2人に視線を向けられたアデルは、いつものムッツリ顔にドヤ笑みを浮かべた。
そうしてアデルは、ケイへ言った。
「でも、そんな変な身体になっていたから、ケイは助かったのですよ」
「ん? どういうことだ?」
リーゼが、羽織っていたフードローブの内側から何かを取り出す。得体の知れない、白い円形の金属板である。絆創膏くらいの大きさだ。光沢がかかっていて、室内の電灯を反射してキラキラ光っていた。
「これはクスリ」
「クスリって言っても……板きれにしか見えないけど?」
「ヒトから見れば、そうかもね。これは機人族用の治療薬。有機機械細胞を再構築させる、ナノマシン集合体だよ」
「ナノマシン?!」
「機人の技術力は、興味深いですね」
感心した表情のケイとアデルを見て、リーゼは少し得意気になって話した。
「クスリと言うか、あなたたちの言葉で言うと、補修材というのが正確なのかも。この板きれを傷口に当てておくと、そこから体内にナノマシンが入っていくんだよ。ナノマシンは損傷部位に到達したところで物性を変化させ、補修パーツとなって肉体の復元を始めてくれるの。これは私の常備薬なんだけど、ケイの身体にも効果があるみたいだった。本来、ヒトの治療には使えないものなんだけど。なんだか変な感じだよ」
「……なるほどな。大怪我だって聞かされてたわりに、こうして治りが早いのは、その機人用のクスリのおかげだったのか」
ケイは自分の身体が、ほぼ無傷なように見える理由を理解した。ナノマシンによる損傷部位の補修のおかげだ。傷跡もほぼなく、3日程度で、これだけ回復することができたのだろう。納得である。
ふとリーゼは、病室の入り口へ向かい、壁のスイッチを操作する。
そうして室内の電灯を消してから、窓へ向かって歩き出した。
締め切られていたカーテンの1つを開けると、そこから微かな光が、室内へ差し込んだ。
陽光にしては弱く。月明かりにしては強い。そんな光だ。
「もう歩けるんでしょ? なら、こっちへ来て見てみるといいわ。今の東京を」
「……」
東京。
3日前に、死屍累々の地獄と化した故郷。
四条院キョウヤとの戦いの後、街がどうなっているのか。
正直なところ気になっていた。
ケイは点滴などを外して、ゆっくりとベッドから降り立った。
アデルに手を貸してもらいながら、ケイはリーゼの傍へ歩み寄っていく。
「もちろん、まだ問題はたくさん残ってる。今日もこれから、イリアと総理大臣たちが、対策会議を開くはずだよ。あなたが目覚めたら、すぐに連れてくるようにも言われてるわ。けれどまず、あなたには、あなたが“成したこと”を見せたかった」
外からの光に頬を照らされているリーゼ。
その隣に並び立ち、ケイも窓の向こうに目を向けた。
薄暗い闇の中に聳える、無数のビルディング。
夜かと見紛う暗闇の中に、その輪郭が見えた。
夜空に大きな“裂け目”ができている――――。
空を切り裂いてできた、横一文字の傷跡。その向こうから、眩い陽光が差し込んできている。帯状の光が、無数に天から注いできており、それが、暗闇の中の家々やビルディングを、照らし出している。薄明光線。あるいは「天使のはしご」とも呼ばれる自然現象だ。まるで暗い洞窟の底から、遠い太陽の光を見上げるような神々しさを感じた。
「あれは、あなたが剣で切り裂いた空。あなたがもたらした、希望の光」
現実とは思えないような、幻想的な光景。切り裂かれた白石塔の外壁の向こう、そこから注ぐ光を指さし、リーゼは微笑んで告げた。