「書き手」と「読み手」の関係性とは?
とある「書き手」の方のエッセイを拝読しました。
「未完作品」に関するエッセイなのですが、「未完作品に抗議する読み手は未完前に(書き手に)何か(反応)したのか」というものでした。未完になる前に、「評価・感想・レビュー」などを継続的に「読み手」はしたのか?ということです。「継続的に」というのは、「(書き手は)一度っきりの感想では満足しない」とのことです。
「(読み手は)未完になってほしくなくば、感想・レビュー・評価をすべき」であると、そのとあるエッセイでは語られていました。
流石にこれは「責任転嫁」が過ぎる内容ではありますが、要は「面白いと思ったなら、何かしら反応ぐらいしてもいいだろう」ということなのでしょう。
以前に私も未完作品に関して、「どういう形であれ、連載は終わらせてほしい」という内容のエッセイ擬きを投稿させていただきました。
概略を書かせていただくと、
①連載は終わらせてほしい。
②連載が続けられない場合は「未完終了」「休載」の告知をしてほしい。
③以上のように私は願っています。
という内容です。
これらは「読み手のわがまま」であるのは間違いありません。それ故に私は「願い」と書かせていただきました。
「終わらせるべきだ」などとは勿論思っていません。だからこそ「願い」としたのです。
さて、冒頭のエッセイに話を戻させていただきます。
私の読んだ率直な感想ですが、
「読み手は作品を読んだら、書き手の方に何かしらの反応を示さなければいけないのか?」
というものです。
例えばですが、「小説の新刊」を一冊買ったとします。面白すぎて夜寝る間を惜しんで読み切った新刊です。
その新刊を読み終えた時、その感想を作者様に伝える読者は果たして、どれくらいいるのでしょうか?
申し訳ありませんが、詳細なデータはありません。
ただ「感想を作者様に伝える読者」の割合は相当低いと考えています。
一割にも満たないのではないでしょうか?
私もそれなりの数の小説を買いましたが、今まで「作者様に感想を伝える」ということはしたことがありません。
と、ここまで書いたところで、こういう意見が出ると思われます。
「どちらもがweb上でのことなのだから、簡単に反応できるはず」
果たして、そうなのでしょうか。
確かに、「手間」は掛かりにくいのは事実でしょう。
しかし、言い方は悪いかもしれませんが、プロの作家が書いた「本当に面白いと感じた小説」にも感想を送っていない人が、アマチュアの書き手の方の書いた「面白いと感じた作品」に手間がかからないとはいえ感想を送るでしょうか?
しかも、「感想をもらうことでモチベーションが維持できる(上がる)」と言われてしまえば、「〇〇の部分がわかりにくい」などの「否定的な感想」は送れません。「面白かった」などの「肯定的な感想」しか送れないのではないでしょうか。
少し「感想」に比重を置き過ぎたので、「評価」についても考察します。
以前に「☆1評価はモチベーションが下がる」というような内容のエッセイを拝読しました。
「どうせなら☆5がほしい」と仰っていたと記憶しています。
この「☆評価」が人によって受け取り方が違うために起こりえた考え方だと思われます。
このエッセイを書かれた方は「☆1」は「マイナス評価」のように受け取っていたのではないかと私は推察しました。
私の「☆評価」の考え方は「☆」は「面白かった」が前提で、「1~5」が「面白さのランク」だと考えています。
このエッセイを書かれた方が「マイナス評価」はいらないと思ったのか、「☆1」という中途半端な評価でなく「最高ランクの評価」が欲しいと思ったのかは不明ですが、伝えたかったことは「(出来れば最上級に)称賛してほしい」ということだったと私は推察しました。
このように考える「書き手」の方は多いのではないでしょうか。
そして、書き手の方からすると、どうなのでしょうか。
おべっかでもいいから作品を称賛してほしいのでしょうか。もちろん、それが悪いというつもりはありません。
ただ、それは「書き手の総意」なのでしょうか。
そうではなく、「肯定的な感想だけでなく、否定的な感想もほしい」という「書き手」の方はいらっしゃらないのでしょうか。こう考える書き手の方は「おべっか」を喜ぶものなのでしょうか?
私、気になります。
私は自身の別のエッセイ擬きで、感想とは「(書き手の方が)今後の参考や励みにすることのできるツール」であると書かせていただきました。そういう意味では「評価」や「レビュー」も同様でしょう。
ゆえに、書き手の方に何かしらの反応(感想など)をする読み手の方々を否定するつもりは全くありません。
寧ろ、すごいことだと私は考えています。
しかし、私は「感想・レビュー・評価をする」ということは「読者の善意」だと考えています。
作品に対する感想・レビュー・評価は読者が絶対にしなければいけないことではありません。
だからこそ、「すごいこと」だと私は考えるのです。
先に私は「連載を終わらせてほしい」ということは「読み手のわがまま」だと書きました。
この対極にあるのが、「感想・レビュー・評価が欲しい」ということは「書き手のわがまま」だと私は考えています。
「わがままを言うな」などと言うつもりは毛頭ありません。
存分に主張していただきたいのですが、感想・レビュー・評価をされるのが「書き手」の方にとっては「当然のことではない」と言いたいのです。
「未完になってほしくなくば、感想・レビュー・評価をすべき」という考えを「書き手の方」が持つのは危険なのではないかと私は愚考し、今回のエッセイ擬きを書かせていただきました。
ちなみにですが、「書き手の方」がこう考えるのは危険だと思いますが、「読み手」がこう考えるのは否定しません。
なぜなら、読み手はこれくらいに考えないと「感想・レビュー・評価」が中々できないからです。
「お客様は神様です」思考と一緒だと私は考えます。
この「お客様は神様です」思考は「店側」の考え方です。
「お客様は神様のように扱うべき」という気持ちで丁寧に接客しましょうね。ということです。
つまり、「お客様は神様です」という言い回しは不足で、本来は「店側は『お客様は神様です』と考えるべきである」とするのが正しい表現です。
これを「客側」が振りかざすと意味合いが全く変わります。
「客は神様なんだから店側は客の要望を全部叶えろよ」となってしまうのです。
もちろん、これが「対価」分のサービスなら問題ないのですが、こういった場合の「お客様にならない困った人」は「対価」以上のサービスを要求します。
「割引」などのサービスはいいのか?と思われるかもしれませんが、店側も「対価」があるから「割引」などのサービスをするのです。例えばですが、そのお客様がまた「別のお客様」を誘引してくれる可能性が高い時などです。
実際にこういう考え方の「お客様にならない困った人」が意外とたくさんいるのを皆様はご存じですか?
話を戻しましょう。
語る視点が変わると全く意味合いが異なるという点が今回の件と同じではないかと思います。
「連載を終わらせてほしい」ということは「読み手のわがまま」であり、
「感想・レビュー・評価が欲しい」ということは「書き手のわがまま」である。
と上記で述べましたが、視点を変えると、
「読み手」は「書き手」のために「感想・レビュー・評価をする努力」をすべきであり、
「書き手」は「読み手」のために「連載を終わらせる努力」をすべきである。
となるのではないでしょうか?
内容は同じ筈なのに主語が変わると意味合いが全く異なります。
蛇足になりますが、
ここまで書くと、こういった声が聞こえてくるような気がします。
「書き手は作品を生み出す努力をしている」と。
だから「読み手は感想・レビュー・評価をすべきではないのか」と。
まずもう一度言いますが、「感想・レビュー・評価をする」ということは「読者の善意」であるというのが私の考えです。
次に、辛辣に思われるかもしれませんが、「書き手」の方は「誰かに頼まれて作品を生み出した」のでしょうか?
これに「是」と答えた方は「頼んできた誰か」に感想を求めてください。
一般的な「読み手」は投稿されていた作品なので読んでいます。そこに「強制力」は発生しません。
水掛け論になりそうなので、私はこう結論付けさせていただきます。
「読み手」も「書き手」もお互いに「義務」を押し付けてはいけない。
「読み手」も「書き手」もどちらもがお互いを尊重するのが正しいのではないでしょうか?
中には「作品を生み出す書き手の方が立場は上だ」という意見もありますが、「感想・レビュー・評価がなくて、モチベーションが下がって続きが書けない」と「書き手」の方が自ら仰る通り、「書き手」にとっても「読み手」は必要な存在なのではないでしょうか?
無論、自制という意味で「読み手が読み手」に「書き手が書き手」に注意を促すのは問題ないでしょう。むしろ、それが「自浄作用」ということになると私は考えます。
最後に、少し話は変わるのですが、「読み手」で「評価クレクレはやめろ」という人がいますが、これは「書き手」の自由の筈です。
作品内のあとがき等での「感想・評価ほしい」は「書き手側の告知」として全く問題ないと私は考えます。自作品内でコマーシャルが打てないなら、どこで宣伝をしたらいいのでしょうか?
確かに、一話ごとに毎回「評価ほしい」は過剰かもしれませんが、それでも正当な「書き手からのお願い」です。
それを「やめろ」という権利は「読み手」にはありません。
さて、皆様はどのようにお考えになられたでしょうか?
ご意見お待ちしています。