編集者の事件メモ2(原由香)
朝日を浴びた電車が、光を眩しく反射させながら駅のホームに到着する。
カラカラに乾いた空気中に漂う埃は、列車のドアが開くと一斉に立ちのぼった。
忙しい、朝のラッシュアワー帯。ギュウギュウ詰めにされた満員電車というイケスから、会社員という名の魚は群れとなり、一気に解放される。
駅をはなれた魚は交差点素早くを泳ぐと、それぞれの持ち場のビルのオフィスへと吸収されていった。
(自ら拿捕されに行くとは、まったく奇妙な生き物だ。)
目につく人々を横目に、そんなこと考えながらエレベータに乗り、いつものように4階のボタンを押す。
私もまた一匹のさかな。手にできる自由といえば、そうだなぁ。ワイヤレスイヤホン越しに聴く音楽を、好きに選べることぐらいだろうか?
今の会社に勤めて、10年になる。社風は完全に身についたし、責任ある仕事を任せられる機会も出てきた。ポジション的には出世魚の赤ちゃん「モジャコ」の時期は卒業しただろう。でも、自分は社内ではまだまだ下っ端だ。出世頭のブリやハマチに及ばない。イナダに数えられるかも怪しいものだ。
エレベーターが4階に着く前に、耳にかけていたワイヤレスのイヤホンを外して鞄にしまう。朝から妙な事を考えたのは、久々に若者の音楽を聴いたせいに違いない。長らく流行の音楽はご無沙汰だった。
原由香はデスクにカバンを置くと、ベージュのパンプスから室内履きに履き替えてパソコンのスイッチを押した。
「原くん、例の件どうなっている?」
編集長がデスクの向こうから大きな声で呼びかけた。
「おはようございます、編集長。」
こちらも朝の挨拶を返す。
声を上げながら考えた。例の件ってどの件のことだろう。
そうしてる間に、原由香のパソコンはジリジリとOSを起動し、メールアプリを自動で立ち上げ始めた。
編集長の言う「例の件」で、原に思い当たるのは3つだ。それぞれ別々の案件だが、大元の出所は一つ。いずれも自分が担当する作家「浜中鉄平」の連載小説「警察官は眠らない」の販売拡大に関するものだ。
原のPCは新しいメールの受信を表示し終えた。
新着リストは同じ差出人で埋め尽くされている。
「吉澤ケイ」
仕事のギアが入る。由香の頭に、自分を一心に見つめる「浜中」先生の目が浮かんだ。
「吉澤ケイ」は浜中先生の代表作「警察官は眠らない」に登場するメインキャラクターだ。
このキャラクターの作成に、原は大きく貢献している。はっきり言って、「ケイ」を育てたのは編集を担当した自分だと自負している。
原稿が最初に自分のところに上がってきたのはもう6年も前の話だ。
小説の中で、初期の設定では、キャリア組の警部「ケイ」は主人公であるベテラン刑事の敵対ポジションだった。原稿を読み終えた原は、子犬のような瞳で自分を見つめる浜中先生に言い放った。
「先生。ケイをもっとこう膨らませて、彼の経歴と才能を活かした設定に出来せませんかね?」
原の熱意は、ついに浜中先生の心を動かした。
ケイは小説の中で急速に成長し、その輝かしい経歴とコミュニケーション能力を存分に発揮して読者の人気を集めるようになった。ケイの人気が上がると、彼はどんどん若返って金持ちになり、顔までイケメンになっていく。
今では人気キャラクターランキングの中でも彼は1番の出世頭だ。浜中先生まで、自らを「吉澤ケイ」とか呼ばせようとする。
ふと思うのは、シリーズを重ねてもケイがシングルなのは、彼を魅力的にしすぎた自分たちのせいに違いない。まあ、その辺は痛み分けってことで。
あれ、どっちのケイの話だっけ。どっちでもいいか。
吉澤ケイもとい浜中鉄平のメールは受信箱の上位を埋め尽くしていた。とても長いメールの後には
「さっき送った原稿だけれど、被害者の心情を書き直した方がいいかな。」と確認を求める別のメールが続く。
さらに独り言のようなメール。まだ半分も読み終わらないうちに、新たなメールがケイから届いた。
先生は不安なのだと思う。再来月には「警察官は眠らない」はコミック化が予定されていて、先生の頭の中での自由な発想で生み出されていた作品は新たな視点での見直しを迫られているのだから。
原は電話の子機を取り上げると、残りのメールを読み進めながら浜中先生に電話した。
「もしもし、ケイ先生?原です。メール拝見しました。」
「ああ、由香くん?さっき送った原稿はもう一回書き直すから、メールの件はもういいんだ。そっちは元気にしている?」
その声はシャッキリしていた。原の声を聞いて少し落ち着いたらしい。
「編集長もみんなもいつも通りですよ。そういえば、準若手の萩さんは取材だそうで、いま席外していますね。」
「PCに詳しい彼ね。あの時は本当に助かった。彼はいつから編集の仕事もするようになったんだ?」
準若手の萩紀夫が担当する作家は新作をちっとも書かない。
定年退職した伝説の編集者が担当していた時、彼女は一度だけヒット作を書いている。世に出た作品は、それきりだ。退職した編集者に代わって入れ替わりに担当が2人ついたが、さらにもう一度担当が変わり、萩紀夫が今の名目上の担当だ。それって萩が編集者を名乗れるのだろうか。
でも、編集者遍歴は関係ない。
私は以前、彼女の編集者ポジションを本気で狙っていた。
ペンネーム「木野理央」。
女性社員の間でささやかれているジンクスがある。
(木野を担当する編集者には恋人ができてゴールインすることができる)
と、まことしやかに噂されているのだ。
編集長が萩を大注目の木野先生の担当にすると言った時に、女子社員は全員ずっこけた。
「なんで、萩さんが担当なの?彼って情報管理の人だよね。」
この意見には、原も同意する。何かの間違いではあるまいか?
萩の編集者担当お披露目は、社の打ち上げと共に行われた。木野先生の前担当の寿退職祝いと、前々担当の産休前祝いと、萩の就任祝いは一緒くたに行われた。
祝いの席で乾杯の杯も乾かぬうちに、木野先生は早速ぶち上げた。
「あら、紀夫くんって原さんと同い年なの?ふたり結婚しちゃえば?」
彼女は素面でそう言った。
(ありえない)
原の目にうつる萩という人物は
「自分のパソコンがどうして処理能力が上がらないのか」PCに向かってぶつぶつと説明し、
「木野先生の作品が何故ヒットしたのか」について、頓珍漢な解釈をし、
わざわざ取り寄せた冷蔵庫の旧式のカタログを手に、給湯室の冷蔵庫の前で「フロンの歴史について」嫌がる社員を捕まえてながなが語ろうとする。
そんな男だ。
でも、考えようによっては萩は誠実な信頼できる男なのかもしれない。
自分のパソコンも完璧に設定してくれたし、そういえばコーヒーメーカーも修理してくれた。
彼が家にいてくれたら、何かと便利かもしれない。
宴会の席で、初めて編集者の肩書をもらった萩は勧められるままに酒を飲み、すっかり酔っぱらった。気分が解放的になったのかご機嫌になって、他の団体の女性客たちに絡み出した。
「ライン3つもゲットしちゃったぜ!ウエーィ!!」
(やっぱり、この男となんてありえない。)
編集長は花より実を取ることを選んだのだ。つまり、社員の個人的な人生の満足度は作品の後回しというわけだ。私の婚期は、きっと木野先生の担当とともに遠のいた。どこの女子がこんな男と結婚したがると言うのか。
萩くんが担当なら、木野先生のマッチング伝説もこれで打ち止めだろう。
電話口では、浜中先生の話がまだ続いていた。由香は合いの手を入れる。
「それで、コミックを描いてくれるあの青年は仕事進んでいる?彼も由香くんの担当なんだっけ?」
この頃の浜中先生には何かと気がかりが多い。コミックは先生が一番気にしているところだろう。何せ、先生の頭の中の人物がキャラクター化するのだ。
「先生のお目は確かでしたよ。彼は、勇君はいい絵を描きます。美大を卒業してまだ一年経っていないそうですね。来週月曜日には第一話のラフ画が出来上がりますから、もう少々お待ちください。」
電話しながら由香は残りの未読のメールをどんどんチェックしていった。
現時点で、先生の話の聞き逃しや読み落としはないようだ。
ふと、未読メールの中に旧友からの私的なメールを見つけた。
タイトルには「女子会のお誘い」とある。由香は受話器を持ったまま立ち上がると部屋のカレンダーボードの前に移動して、自分の金曜の午後の欄にばつ印を記入した。
浜中先生の話はまだまだ続く。このまま聞き続けた方がいいだろう。話すだけ話して不安が去れば、午後にはきっと先生の執筆活動が進んで新たなケイの物語が生まれるはずである。
金曜日の旧友の集まり、女子会のメンバーは3人だった。3人とも大学時代の同級生。卒業論文をお互い励ましながら仕上げたメンバーだ。
「源氏物語を読んでいたあなたがラノベの編集者になるだなんてね。」
フランス文学専攻だった友人は言う。
そういう彼女はクラスメイトと文学的でロマンチックな大恋愛をしたのち、子供を作って離婚して出戻ってきたクチだ。彼女は久々に飲むカクテルにご満悦だった。
「浜中鉄平の最新作読んだよ。由香がんばっているじゃん。」
もう1人の友人の言葉に、由香はちょっと感動した。
彼女の旦那については、フランス文学の友人も由香もなんとなく聞けずにいる。
「小説の中の吉澤ケイ君がかっこいい。ケイは理想の男よね。」
彼女たちは口を揃えて言う。
当たり前だ、女の描く理想の男を浜中先生に教えたのは私なのだから。
「そうは言っても、小説の中のキャラクターでしょ。吉澤ケイ君は由香をハグしてくれないわ。」
彼女たちは、痛いところを突いてくる。小説の中のケイは若々しいままなのに、私はどんどん歳をとっていく。これって、一方的な片思いだ。
私は日々、彼のために奔走しているのに、不公平な気もする。
友人のセリフは、母によって夕食どきにリフレインされた。
「お前の言う、吉澤ケイってのは生活費を稼いでくれるのかい?」
私の近況を聞いていた母が、ぽつりと言う。
「ベストセラー作家よ、私も出世したでしょう?」
久々に娘が帰省したのに、母の感想は相変わらず旧体制のままだ。
「そのケイくんは心の保養にはなっても、生活を支え会う相手でないわ。ところで、お友達のお子さんは何歳になったって?」
母は自分への矛先をしまってくれない。以前の私なら黙っているところだが、今の私は母の気をそらすのにとっておきのセリフがある。
「甥っ子君は元気?」
母は途端に顔を綻ばせてご機嫌になった。
(えらいぞ!甥っ子。生まれてまだ数年なのに、もうこうして私を助けてくれる。)
私が実家に滞在している間、彼の話題は私に安全な時間を保障してくれるだろう。
(明日の朝にはアパートに戻ろう。恋人はいないが、代わりにケイが私を待っている。)
次の日の日曜日の朝、由香はアパートへと帰る電車に揺られていた。
今日は身体が怠くて重い。週末の帰省で気疲れしたのかもしれない。頭の中に何かが詰まっている気がする。由香は、うつらうつらし始めた。
「お前は求めすぎなんだよ!」
耳元で怒鳴り声がして、由香は慌てて飛び起きた。
周りを見回したが、乗客がどなった声ではなかった。声は由香の頭の中で響いただけだった。
やけにリアルな夢の中の声。まだ心臓がバクバクしている。
声には心当たりがある、これは前に一度聞いたセリフだ。
それは、元恋人が私に言いはなった言葉だった。まだ編集者として働く前に、彼とは一時期同棲していたことがある。
何かの拍子に喧嘩になって、彼は私を非難して部屋を飛び出した。その時の彼のセリフだ。
由香は我に返って、呼吸を整える。
私にだって彼氏がいて同棲していた時期があった。みんなして私に「結婚、結婚」言うせいで、元恋人の夢を見たに違いない。
彼は、
「エネルギーに溢れる君が好きなんだ。」
とか言っておきながら、
「満足を知らないお前とは付き合い切れない。」
と言って私を振った。
部屋から出ていったきり関係は元には戻らなかった。
私はいつだって最高のものを求めている。貪欲であることの何が悪い。読者の心を癒す「吉澤ケイ」が世にプロデューサーされたのは先生や私やスタッフがより良いものを求め続けたからだ。貪欲に努力したから作品が仕上がり、今の職場での私があるんじゃないか。
由香はかぶりを振ると、頭を切り替えるために仕事用のフォルダーの中のメールを読み返した。明日の朝は美大出の青年、勇とコミックのしあがりを確認する日だ。ふと不安を覚えて、青年勇に確認のメールを入れた。
「仕事は順調ですか?明日の打ち合わせに持ってきてもらう下書きは完成してますか?」
メールの返信はすぐに来た。だけれど、文字化けしていて内容は読めない。ますます不安になって、今度は電話をかけた。
「電話してごめんね。メールが文字化けして読めなかったものだから。」
由香は2階建てのアパートの前に立っていた。
(何やっているんだろう、私。まるで家出した高校生を心配する母親みたい。)
いかにも学生の住みそうなアパートだ。勇は美大を卒業して一年になるのに、まだ学生時代の部屋に住み続けている。由香は勇の居る2階の部屋を目指して階段を上った。ドアの前に立って呼び鈴を押すが返事がない。
(そもそも、このベル壊れていないか?)
ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
由香は変なことを考え始める。これは彼女の、クセなのだ。
(これって、浜中先生の小説によく出てくるシーンに似ている。第一発見者は、きっとこのあとソファーで横たわる死体を発見するんだわ。)
我ながら馬鹿なことを考えたもんだ。そもそも、今どき勝手にドアを開けて中に入ったら住居侵入罪だ。少しだけドアを開けて呼びかける。
「こんにちは、原です。こんにちは。」
まさか勇が本当に死体になっているとは思わないが、電話でこれから訪ねると伝えてるのに出てこないのはどういう訳だろう。彼の家まで押し掛けたのは、明らかなお節介だ。だが、このままでは彼の仕事の進捗状況がいよいよ心配になってくる。思い切ってドアを大く開けて大声で呼びかけた。
「こんにちは。勇君いる?返事して!」
部屋の中は薄暗かった。手前の部屋に作業場兼ダイニングのローテーブルがあり、奥に見えるのは寝室のようだ。オレンジ色の厚手のカーテンを通して部屋に午後の光が滲んでいる。
奥の部屋に人影が見えた。寝室で座り込んでいた男はフラフラと立ち上がると、その病的なシルエットをこちらに向かって浮かび上がらせる。
「原さん、こんにちは。」
コミック作家の勇だった。
「どうした?具合悪いの?」
由香は、勇が生きていたという当たり前のことを確認して安堵する。
「大変なところ悪いんだけど、下書きの方はどう?進んでる?ちょっと見せてもらっていい?」
由香は玄関に立ってドアを大きく開けたままでいる。部屋がやけに暗いから、外からの光を入れるため、ドアが閉めれない。
勇はローテーブルにある用紙の山を指差した。骨太で長い美しい指だ。
「ちょっとあがるよ。」
由香は玄関で靴を脱いだ。電灯のスイッチを探すが見つからない。取り敢えず一番近くのカーテンを引いて、外から太陽光を取り入れる。勇は眩しそうな表情をした。
「よかったら、これでも食べていてね。」
由香はコンビニで買った卵サンドとコーヒーを、袋ごと勇に手渡した。
テーブル前にペタンと腰を下ろした由香は原稿をめくり始める。
紙をめくる音だけが部屋に響く。こんな状況であっても、これは自分の一番好きな神聖な時間。
絵は繊細でよく描けている。だが…。
半分を過ぎたあたりで由香の手が止まる。後半が仕上がっていない。このままでは明日の打ち合わせに間に合いそうにない。
「勇君。これじゃ明日の朝までに仕上がらなくない?」
由香はそう言いながら、スマホを取り出して予定表をアプリで確認した。
「ミーティングを水曜日に延期するから、後半もちゃんと仕上げてきて。」
由香は同意を求めて勇を見た。
マルチーズのようなウエーブのかかった長い前髪が彼の目を隠している。彼の丸い目は虚に揺れている。その瞳が一瞬、前髪の奥で由香を睨んだように感じた。
由香は勇の視線を逸らす。この部屋は日光に温められてやけに暑い。うちの母親なら、真っ先にカーテンと窓を全開して換気をするだろう。でも、ここは勇の部屋だし…。
今日の彼はなんと言うか、「危うい感じ」がする、と由香は思った。
由香はドキドキして、変な気分だ。部屋着の男性姿を何年も目にしていないから、自分は変に緊張しているのだろうか?
勇は艶っぽいと言うか、色っぽい。若い子って、こんな感じ?
グレーの長袖からは、華奢な腕がスラリと伸びていた。手首から手、そして長い指は、彼の膝の上で大きくクロスを作っている。
何考えているんだろう、私。
由香は視界から勇を遠ざけると、もう一度下書きに目を落とした。
そこには「吉澤ケイ」のアップが描かれていた。視線が止まる。
(違う。これは、私の求める「吉澤ケイ」の顔では無い。)
「原さんが欲しいのはこの顔じゃ無いですよね。吉澤ケイは…原さんのお気に入りですもんね。」
由香の言いたいこと察したかのように勇が口を開いた。
声のする方に向き直ると、由香のすぐ隣で同じように原稿をを覗き込む彼の顔があった。その髪が自分の頬に触れるほど近い。
由香の頬は、彼の発する熱を感じ取っていた。由香は勇に顔を向けたままの姿勢で、不可抗力にさりげなく匂いを嗅ぐ。さらに意識してもう一呼吸。ゆっくりと息を吸って、彼の匂いを確かめる。
(アルコールの匂いはしない。)
それは彼の体臭と部屋の臭いが混ざったような、独特の匂いだった。酔っているのかと疑ったが、少なくとも彼は酒を飲んでいないようだ。
それにしても、この匂い。作家の浜中先生なら文章でなんと表現するだろう。
由香の例のクセがでて、考えを巡らせていた。過去の作品の中から勇に似たキャラクターを探しはじめた。いくら考えても、キャラクターが思いつかない。彼のような人物は由香の知る作品の中のどこにもいない。
月曜日の朝、原はホワイトボードの予定表を書き直した。
「編集長。コミックなんですが、勇君が風邪をひいたので水曜日に延期したいんですがよろしいでしょうか?」
延期の理由なんてなんでもいい。皆が納得さえするものであれば。
部署のホープ、新人くんが席を立って近づいてきた。
「勇って、どんな絵を描くの?」
今日の新人は、珍しくグイグイ来る。由香が絵の雰囲気を伝えると、新人はスラスラと作家や画家の名前を口にした。何人かは知らない名前だった。
彼はインテリで頭もきれる。なんでうちに就職したんだろう。
新人は新卒枠の入社組の中で、一つ上の年齢で入社した。浪人を経験したのかと思いきや、学部を飛び級して修士号を取得済なのだ。大学のランクも自分より上だ。もし、勤続年数が長くて、自分に浜中先生との信頼関係がなかったなら、今の自分のポジションより彼の方が上だと思う。しかも、マッチョで背も高くてかっこいい。そのうえ、老若男女問わず誰とでもバランス良くコミュニケーションが取れるし、知識の豊富さに嫌味を感じさせない。その笑顔は爽やかで、色気すら滲む。
由香は新人との距離が物理的に近いことにドキドキした自分に焦った。日曜からの自分はどうかしている。
勇のあの部屋に行ってから、何かがおかしくなった。感情のコントロールを失ったように感じている。
きっと、あのロクでもない目に見つめられたせいに違いない。勇の、彼のあの揺れる瞳が、何かの扉を開いたのだ。
「先輩、水曜日は本社との拡販ミーティングでしたよね?」
新人の声がした。
しまった!すっかり忘れていた。由香は我に返ってもう一度焦る。
新人の言う通りだ。今の私は自分の感情どころか仕事の予定表まで管理できていない。
「よかったら、コミックのミーティングは代わりに俺が行きますよ。漫画は読みまくったクチなんで任せてください。ちゃんと報告は上げますから。」
新人の提案に、編集長も同意した。本来であれば担当である自分が同席しないのはあり得ないのだが、今の由香にとっては渡りに船だ。自分は仕事を抱えすぎている。他にも考えなければいけないことが多すぎる。
勇はちゃんと仕上げてくるのだろうか?しかし、不安定な勇と会うのは、今は気が進まない。
由香はカフェの2階の奥のソファーに一人座っていた。すでに2時をまわっている。昼食の混雑は終わり、自分の他には談笑する数名の客しかいない。
つまりは、サボっていた。許されるのなら、このまま家に帰って寝たい。頭にまだ何か詰まっているように感じる。
拡販の報告が終わったばかりで、気が抜けたのかもしれない。あるいは週末実家に帰った時に、何か風邪をもらったのかしら。
本社への拡販の報告はなかなか上手くやった。昇進後初めてのプレゼンにしては、上出来だと思う。パワポのアニメーションはスムーズに動いたし、グラフもインパクトがあって説得力があった。上層部は私を昇進させたことに満足だったに違いない。数字は狙い通り、うまく踊ってくれた。
実際の中身はどうなんだろう。その辺は、自分の手に負えない厄介な問題なのだ。
いつも心に引っかかっていることがある。自分はアファマ枠でポジションを得たのではないかと言う、負い目のような後ろめたさだ。
一緒に入社した同期が、もし彼が会社に残って今の自分の立場にいたなら。彼の成績は今の私よりも下だろうか、上だろうか?それは終わりのないゲームのようなものだ。何せ彼はもうこの会社にはいないのだから。
同期は優秀だった。しかも、正義と優しさにあふれた人だった。相手の立場が自分より上であろうと自分の意見を言ったし、その言葉には力があった。私は彼の理想を応援していて、その考えに同意しつつもいつも彼の後ろに隠れていた。そうやって大事なところを同期に任せておけば会社も自分もいつか困難を乗り越えて桃源郷に行けるのではないか、そんなことを夢見ながら。
当時のそれは、昇進という名の事業縮小だった。
同じ部門にいた自分と同期の二人の内、一人だけ残ることを許された。私が残って、彼は他部門へ移動になった。そして、同じ部署の伝説の編集者の定年退職と同時期に彼は早期退職した。他部門で活躍する代わりに、写真家になると言って社を辞めてしまったのだ。
「吉澤ケイ」が小説の中で大きな決断をする場面では、由香の中で同期の顔がよぎる。
一推しの場面は自分のキャリアを賭して主人公である刑事を庇うシーンだろう。ケイが演じる時のような派手な演出も煌びやかなバックミュージックもないけれど、同期の心にはケイと同じように正義感が満ちている。そこには揺るがない決意が人知れず横たわっている。
いや、正義ではない。彼を動かしたのは彼の信念だけではなかった。
今の私は知っている。彼は一つだけのポジションを、私に譲ったのだ。私を救って、彼は自分自身を消したのだ。最悪なことには、当時の私は、そのことに気づいいていなかった。
3時には由香は自分のデスクに戻った。カフェで軽く仮眠をとったおかげで、いつもの調子を取り戻している。新人が由香のデスクにやってきた。編集長と勇と3人で行った打ち合わせの報告をするために。
「コミックはいい感じに仕上がりつつありますね。編集長と僕とで3箇所ほど書き直しの指示を出しました。いずれもマイナーなものだから、再来週には浜中先生と原さんに確認してもらって、OKならペン入れです。」
新人は言った。由香はそれを聞いて安心した。勇はちゃんと締め切りの約束を守ってくれた。
「彼はデッサン力が素晴らしいし、構図もうまく使い分けている。勇の初めてのコミックとは思えないですね。きっと小説と同じか、もっと人気が出ますよ。」
新人はこの件にすっかり前のめりだ。下書きを見て少し興奮している。勇のコミックに対するこの反応は浜中先生のそれと似ている。勇は彼らの琴線にふれる絵のテクニックをもっている。
由香は内容に関しては詳しく聞かなかった。新人はすっかり乗り気だし、自分よりもよほどコミックに詳しい。
由香は同席した編集長にも、同じように尋ねた。
「編集長、ご迷惑おかけしました。原稿が順調で良かったです。」
それから、なんの気無しに付け加えた。
「彼は、元気そうでしたか?」
「元気にしていたよ。原くんによろしくだってさ。」
「そうだ、思い出した。彼に原稿料の前借りを頼まれたんだっけ。経理に相談にしなきゃだな。それは、こっちでやっておくよ。」
原稿料の前借りの話を聞いて、由香は訪ねて行った勇のアパートでの出来事を思い出した。まだモヤモヤする。編集長から聞く話と違って、部屋での彼は元気がなくてぼんやりとしていた。きっと、たまたま調子が悪かっただけなのだろう。勇はあの時、本当に風邪をひいていたのかも知れない。
いずれにしても、彼が住んでいた学生用のアパートはそろそろ出ないといけないだろう。引っ越しにはお金が必要だから、きっとそのための費用だろう。
「今日の資料のコピーです。」
新人が分厚い封筒を持って話に割って入った。
由香はそれを自分のデスクに置いた。コーヒーを飲んで気合いをいれる。この中には勇が書き直した、ケイが警察官としての職を賭して決断を下す大事なカットが描き直されているはずだ。
しかし新人はその場に残ると、少し声のトーンを落とした。先ほどのワクワクした表情から一転、顔を曇らせて言った。
「絵は問題なかったんですが、彼は。勇は、少し危うい感じがする。」
由香は一瞬自分の心のうちを読まれたのかと、パニックった。
(「危うい」ってどうゆうこと?新人も彼を「セクシー」だと感じたとでもいうの?新人は、私が彼に何を感じたのかを知っているのだろうか?)
「危ない感じって何?どう言う意味?」
由香は真顔で新人に質問した。彼は曖昧な表情を作って、そのあと何も答えなかった。由香のモヤモヤは、消えないままだ。
ところが、ほどなくして新人の言う「勇の危うい感じ」は的を得ていたことが明らかになった。ペン入れが終わって原稿が印刷所に行く前の出来事だ。もちろん、由香の想像したセクシーな意味合いでの「危うさ」とは違う意味でだ。
コミックを仕上げた後に勇は行方をくらませた。慌てた家族が警察に捜索願を出した。幸い、すぐに近所の道路で夜ふらついているところを警察に保護されたのだが、勇はひと目見て不審者とわかるほどの酷い風貌だったらしい。彼は保護されたとき、大麻を所有していた。
由香は動揺しながら朝のオフィスでみんなを待っていた。ケイが警察に保護されたことと、薬物所持で警察に捕まったことはメールで知らされていた。
「原さん、聞きましたか、勇のこと?」
新人は相変わらず耳が早い。今では、彼は実質のコミック編集担当みたいにこの件と関わっていた。
「編集長には報告しましたが、今日これから麻薬取締官が事情聴取にきます。」
新人は一体どうやってそんな情報を手に入れるのだろう?
噂をすれば、編集長も由香のデスクまでやってきた。絶望的な状況だというのに、編集長は鼻の穴を広げながら興奮している。この状況にどこかワクワクしていると言うべきか?
「おう、おはよう。いつ警察が来るって。捜査第一課か?」
部署の一大事だというのに、編集長の声のトーンは何故か高い。これからのイベントを心待ちにしているような口調だ。まったくもって、不謹慎な話だ。
うちの部署が世に出す小説は、刑事物がメインをしめる。つまり、小説の中では毎日、殺人事件や薬物所持といった重大事件が起きている。そんな架空の世界では、英雄や被害者や加害者と言った登場人物たちが、愛憎劇を繰り広げ。それを読んだ読者は非日常を擬似体験できる。読者に、想像を促すのが我々の仕事だ。
でも、それを世に出す我々は、フラットで平凡な日々を送る。
生活におけるドキドキといえば、「凶悪犯とやりあったり、敏腕刑事が危機一髪を救ったり、密室で艶かしい美女と秘密を打ち明けあう。」はずもなく。代わりに、納期の締め切りとストレスと、睡眠不足がもたらす平衡感覚の喪失と、世の見えざる不平等と戦っている。あるいは、存在するのかもわからない数値の増減やコントロールを失って抗うことのできない現実の数々に番号を振って、残された手持ちの時間を祈りながら数少ないオッズに割り振っている。
もっと簡単に言うなら、普段の生活で事件に遭遇したり本物の警察官にお目にかかるような機会はない。でもそれでいい、十分だ。平和のままでいい。私はそう思う。
「いえ、第一課が登場するのは凶悪な殺人事件とかです。クスリは捜査第四課、組織犯罪対策部の担当ですね。」
新人は、こんな話題でも知識が尽きない。彼も、編集長同様に興奮している。
「麻薬Gメンは厚生労働省の管轄なんですよ。」
新人は編集長に熱く語り出した。
「それで、捜査に来るのは第四課か?それとも、Gメン?マトリの方か?」
(いい加減ししてください、二人とも!この状況で、何浮かれているんですか。うちの利益に関わる大問題です!それに、これには未来ある若者の、勇の芸術家の人生がかかっているんですよ!)
由香は二人への非難の言葉を飲み込んだ。
麻薬取締官の捜査あっけなく終わった。
コミック作成の担当者に簡単な聞き取りをすると、彼らはすぐに次の場所に向かって行った。
もっとも、捜査が一瞬だと思ったのは我々の無知のせいだろう。こちらがそれと気づく前に、取締官は必要な捜査を充分に終えたようだ。
取締官の慧眼と勇との接点の少なさは会社にとっての幸運だった。会社は勇の大麻所持とは関係なかった。つまり、我々への嫌疑は無事に晴れたのだ。
これも幸と言うべきか、勇のコミックはまだ世に出ていなかった。
勇がペン入れして仕上げた原稿用紙が、手元のデスクに残されていた。原稿は勇の親の意向で会社に届けられたものだ。
由香は封筒から勇の作品を取り出すと、再び一枚一枚じっくりと目を通す。吉澤ケイがアップで登場するカットで、手が止まった。それは、勇のアパートで彼と一緒に見入ったページを彼が描き直したものだ。
(吉澤ケイは、原さんのお気に入りですもんね。)
あの時聞いた、勇のセリフが耳に残っている。
とても良いカットだった。ケイが己の信念に従って決断を下すシーンだ。それは同時に、社をやめた元同期を私に思い起こさせるシーンでもある。
勇もまた、私が何の望身をよく理解していた。ケイをどのように描くべきかを、自分からちゃんと読み取っていた。
豪快だが心配症な浜中先生の原作と、対照的に繊細で芯のあるガラス細工のような勇の絵。この二人はいい組み合わせだと思う。最高の作品を世に出せる…はずだった。
由香は顔を上げて、編集長と新人を見た。
「このコミックは、どうなるんですか?印刷にまわして出版できるんでしょう?」
さっきまで浮き足立っていた二人は、急に冷めたように静かになる。部屋の空気はガラリと変わる。
編集長は黙り込む。
新人は舌打ちをして、早足で部屋を出て行ってしまった。
(あのやろう、下手うちやがって!)
新人の怒りはごもっともだ。ここに至るまで苦労した新人を、結果的に勇は裏切ったのだから。
由香は、諦めきれずに編集長に詰め寄る。
「コミック出しましょうよ、編集長。とてもよく描けています!」
編集長の目に、同情のような色が浮かぶ。でも、無理なものは無理なのだ。
浜中先生の読者層は一般家庭や子供や若者だ。原作者のイメージダウンのリスクを冒してまで、薬物所持で起訴される予定の新参者の作品使用を社は望まない。編集長個人がいくら事情をくみとったところで、方針は変わらない。
後に聞いた話では、勇が大麻を吸ったきっかけは友達と行った海外への卒業旅行だと言う。夜のバーに繰り出した友達は、酒を飲んで開放的な気分になって他の客が勧めたマリファナを一緒になって吸った。
「タバコみたいだな。」
ちょっとふわふわした気分になって、煙たいだけだった。仲間たちは思い出話を一つ増やして、大麻とはそれきりだった。その時一緒に吸っていた勇を除いては。
大麻がゲートウェイドラッグとなって、日本に帰ってからも彼は吸い続けた。大麻だけでは飽き足らず、今では禁止になった危険ドラッグや他の違法薬物にまで手を出すようになった。気がつけば、勇はクスリがやめられない依存状態になっていた。彼は、あっという間に溺れていった。たった一年で彼は、自力で断ち切れないほどの中毒になってしまったのだ。
「勇君、気づいてあげられずにごめん。」
由香は原稿を封筒に戻すと、大事に保管庫にしまう。もし、勇が更生して周りの理解が得られたなら、作品が日の目を見る日がないとも限らない。
「シリーズの次の作品を考えたよ。新米刑事の初仕事のドタバタエピソードをスピンアウトさせようと思うんだ。原くんどう思う?」
浜中先生は今でも「警察官は眠らない」の続編を書き続けている。
「吉澤ケイもいいけどね。若い子の新しい物語が始めたくなってね。」
先生の頭の中で小説の人物達は成長を続ける。
「先生、それは楽しみですね。かっこいいケイの次は、どこかちょっと(かわいい)新米刑事だと親近感が湧きますね。」
私は、まだまだ浜中先生の担当を続ける予定だ。
(「お前の言う、吉澤ケイってのは生活費を稼いでくれるのかい?」)
母の言葉に言い返さなかったセリフが一つある。
「お母さま、ケイはとっても稼いでくれるんですよ。私に仕事も給料もくれます。こんな素敵な男性、世の中になかなかいるもんじゃありません。」