どんなに短い時間でも一目あなたの顔が見られるのなら
一週間後に都心の方に出掛ける用事が出来た。そのためにお仕事をお休みにしたのだけれど、そう言えばその辺りにキラ星さんの会社があったわね。平日だからキラ星さんはお仕事よね。でも、もしかしたらお昼ご飯くらいなら付き合ってくれるかしら…。
『おはようございます。今度、あなたの会社の近くに用事があって出掛けるんですけど、ランチでいいお店を知っていますか?』
遠回しにキラ星さんにLINEをしてみる。「是非ご一緒したいです」そんな返事を期待している私。キラ星さんはすぐに返信してくれた。
『是非ご一緒したいです』
ふふふ。思わず笑みがこぼれる。
『ではあなたのおすすめのお店に連れて行ってください』
『はい。いいお店を探しておきます』
キラ星さんはいつでも期待を裏切らない。
翌日、事前の打ち合わせのため、その場所を訪ねることになった。でも、急だし、時間もないからキラ星さんに会う余裕はないわね。そう思ってはみたものの、一応、キラ星さんにLINEをする。キラ星さんとのLINEは私の日課。生活の一部になっている。
『今日の夕方、近くに行くんですよ』
『会いたいです』
ふふふ。やっぱり。
『あまり時間がないですよ』
『一目でも姫の顔が見られたらうれしいです』
まあ! キラ星さんったら。でも、そういう風に言ってくれるキラ星さんの言葉は素直に嬉しい。
夕方、そこに行って、当日の打合せをしているうちに、その場ですべての要件が終わってしまった。拍子抜けしたのと同時に、キラ星さんとのランチの約束をどうしようかとそれが真っ先に頭に浮かんだ。
打ち合わせを終えて私はキラ星さんが待っている交差点に向かった。交差点に着くとキラ星さんは道路の向こう側で待っていた。キラ星さんが私に気付いてくれたので手を振った。信号は赤。私はどちらに行くのかゼスチャーでキラ星さんに尋ねた。キラ星さんが向かう方向を指し示して教えてくれた。その方向であれば私が横断歩道を渡って行くようだ。青に変わるまでの時間、なんだかとてもドキドキしている私。こういうシチュエーションの待ち合わせって、なんだか新鮮。
信号が青に変わった。信号待ちをしていた人込みを縫うようにキラ星さんの元へ走る。
「走って来ましたね」
「走って来ましたよ」
「可愛いです」
「もう! あなたったら。相変わらずですね」
「はい。では行きましょう」
「はい」
キラ星さんが連れて行ってくれたのは交差点の傍の喫茶店。ドアを開けるとコーヒーのいい香りが漂ってきた。お店の中の雰囲気も素敵。席に着くと私はキラ星さんに先ほどの打合せのことを話した。
「今度のランチなんですけどね…」
私がそう切り出すと、キラ星さんは嬉しそうに口を開いた。
「あ、前の日が夜勤になるので午後からはお休みを取りましたよ」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。だからゆっくりお付き合い出来ますよ」
それを聞いたらなんだか話しづらくなった。でも、やっぱりこういうことはちゃんと話さなくちゃ。
「それなんですけど、その日の用事が無くなってしまったんです」
キラ星さんをがっかりさせてしまったかしら。そんなことを思っていた私にキラ星さんは益々嬉しそうに切り出した。
「それはよかったです。それならこの辺ではなくて、この前行ったお店に行きましょう。午後から休みなのでお酒も飲めますよ」
本当にキラ星さんったら。どうしたらそんなにいつもニコニコ笑顔で居られるのかしら。でも、そうしていてくれるから私は何でも話が出来ちゃうのね。
「大丈夫ですか?」
「はい! 大丈夫ですよ」
「お昼ご飯を食べた後に時間はあるんですか?」
「はい。夕方までは大丈夫ですよ」
「では、カラオケにでも行きますか?」
「うわぁ、それは恥ずかしいな」
「でも、今更、動物園っていうのもないですよね」
「動物園! 動物園に行きたいです」
「そうなんですか?」
「はい」
「では、動物園に行きましょう。ところで、今日はあまり時間がないと言っていましたけど大丈夫ですか? そろそろ行きましょうか?」
「そうですね。そろそろ行きます」
キラ星さんが地下鉄の入口まで送ってくれた。握手をして私は地下への階段を降りる。途中で振り返るとキラ星さんの姿はもうなかった。
************************
約束の時間は11時半。朝から気温が上がり暑くなった。予報では35度まで上がるという。夜勤明けの身にはかなりきつい。それでも終電で帰れたのだから、そこそこの睡眠をとることが出来たのは大きい。
少し早く着いた僕は待ち合わせ場所で姫を待つ。日陰に居ても汗が止まらない。駅の出口から姫が出てくるのが見えた。僕を見つけて速足で近づいてくる。そんな姫の姿を見た途端に暑さも忘れる。
「お待たせしました」
「少しだけです」
「では早速行きましょう」
「はい。行きましょう」
店に入り、姫が予約してあることを告げると部屋まで案内された。前回とは違う部屋だったけれど、姫はその部屋が気に入ったみたいで感激している。そういう姿がいちいち可愛い。
「まずはビールを飲みたいです」
「私もビールを飲みます」
そして、姫が好きなものばかりを単品で3品ほど注文する。
「これでは、ランチではなくて昼から酒盛りですね」
「はい。酒盛りでいいんです」
まずは乾杯。そして、料理が運ばれてきた。姫の顔がほころぶ。一口つまむ。この上ない幸せが訪れたというような顔で料理を食べる。僕はそんな姫を見ているのがとても好きだ。
「美味しいですよ。あなたも食べてください」
「はい。それではこれをいただきます」
姫と一緒に食べる料理は本当に美味しい。ビールは二人とも違う銘柄のものを頼んだ。例によって一口ずつ飲み比べてみる。
「これはビールですね!」
「はいビールですから」
「でも、ビールです」
「はい。言いたいことは解かりますよ。確かにビールです」
「次はどうしますか?」
「やっぱり日本酒です」
「はい。私もそうします」
二人で違う銘柄のものを頼む。そして飲み比べてみる。飲んでいる途中で姫が彦星さんの話をする。僕は聞きながらただ頷く。姫の目から涙がこぼれる。僕は見て見ぬふりをする。そこにお店の従業員が予約の時間が終了することを告げに来た。
「今日は動物園は止めましょう」
「暑いですからね。ではカラオケですね」
「はい」
レジで僕が料金を支払おうとすると、姫がさっと紙幣を数枚先に置いた。それと合わせて料金を支払う。
店を出る。カラオケボックスはすぐ近くにある。
受付を済ませて部屋に入る。かなり緊張する。先ほどの店でも個室だったのだけれど、このカラオケボックスの密閉された空間の中は息苦しい。でも、それは部屋が密閉されているからではなくて、そこに姫と二人だけで居るからなのは言うまでもない。
姫の前で歌を歌うのはもちろん初めてだ。なんだかとても恥ずかしい。取り敢えず1曲。姫から言われたアーティストの曲を。歌い終わると満面の笑みで拍手をする姫。安心した。そして、そんな姫はやっぱり可愛い。次に姫が歌った。すごい。とても上手だし綺麗な声だ。
「上手いです。そして綺麗な声です」
照れくさそうに笑う姫。また可愛い。姫のこんなに可愛い笑顔を何度も見ることが出来るのはとても幸せなことだと思う。隣に座っている姫が歌う。僕は時折画面から目を離して姫の横顔を見る。こんなに綺麗な横顔を僕は今まで見たことがない。
交代で何曲も歌った。そこに居る間中、姫の顔から笑顔が絶えない。そこで僕はさっきの姫の涙を思い出した。
「リクエストがあります」
「知っている曲かしら?」
「はい。絶対に知っていると思います」
僕は曲を選んで送信する。曲のタイトルが画面に表示される。
「この曲を聞くと僕は必ず泣いてしまいます」
「そうなんですか? 思い出の曲とか?」
「思い出はありません。この曲の世界に入り込んでしまうんです」
イントロが流れ姫が歌い始める。途端に目頭が熱くなる。
「もうダメです…。あ、姫の歌はとても上手です。ダメなのは僕の方です」
曲が終わって姫が僕の膝の上にそっとハンカチを置いてくれた。それで僕は余計に泣けてきた。
「私にもあるんですよ。必ず泣いてしまう曲が」
「そうなんですね。でも、今日は止めておきましょう。僕がここで泣いてしまったので、これでおアイコです」
「何がおアイコなんですか…。あっ…」
姫は気付いてくれた。彦星さんの話をしながら涙を流したことを。
「ごめんなさい、あの時はどう言葉をかけてあげたらいいのかわからなくて」
「いいんです。話をすることが出来て、聞いて貰えて、私の方がお礼を言いたいのに」
楽しい時間は一瞬で通り過ぎてしまう。そろそろ姫は帰らなければならない時間だ。
「そろそろですね」
「そうですね」
店を出るといつものように駅までの道のりを二人並んで歩く。やっぱり、あっという間に駅に着く。
「あなたはJRですね」
「はい」
「改札口まで見送りに行きます」
「いつもありがとうございます」
そして、いつものように姫はJRの改札口まで来てくれた。いつものように手を振って僕を見送ってくれる。改札を抜けた僕は初めて振り返って姫の方を見た。姫はそこに居た。振り返った僕を見てもう一度手を振ってくれた。僕も手を振り返して少しずつホームに上がる階段の方へ進んだ。姫の姿が見えなくなるまで。それから一気にホームへ駆けあがった。




