吐いて、吐いて、吐いて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ああ、おはようさん、よく眠れたかい?
私は昔から、いびきがひどいと女房に言われていてね、普段からだいぶ気にするようになったんだが、問題はなかったかな。
――ん? ちょっと私が鼻声になっている気がする?
う〜ん、鼻づまりっていうのも、あるあるな原因だな。口、開いていたんだろうか。
口を開くっていうのは、何かと大きい仕事を担っているよねえ。今、話してくれた呼吸しかり、食事しかり……。格言でも、戸は立てられないし、災いのもとだしと、この世における悲劇の原因として、かなりのシェアを持っているだろう。
私自身も、昔に体験した出来事があるんだけど、聞いてみないか?
私は歯医者にいい印象を持っていない子供の一人だった。
たとえ痛くなくても、あの「キュイィィ―ン」と耳を塞ぎたくなるような、器具の音の数々に、すっかり苦手意識を植え付けられている。
だが、親が歯のお手入れに熱心で、三ヵ月に一回は歯医者の検診に連れていかれたんだよ。
最寄りの歯医者は、家から徒歩8分程度。以前、この近辺で連続通り魔事件があってより、夕方近くになると、母親は私が出かけるところにたいていついてくる。
歯医者はともかく、それが友達と遊ぶ時だって、だよ。どれだけ肩身の狭い思いをしていたかは、察してくれるとありがたい。
その検診の一環に、歯がどれだけ汚れがついているか調べる、ピンク色の染色液をつける時間がある。汚れがあると、そこにピンク色が残るんだ。
私は特に前歯の先が、赤く染まるタイプの人間だった。
奥歯や歯の裏側はばっちりなのに、前歯や犬歯は毎回、赤く染まってしまう。自分では歯磨きに十分、力を入れていたつもりだったんだが。
歯医者さんは原因について、ひとつの可能性をあげる。それは、私が寝ている時に、口を開いて寝ている可能性があるとのことだった。
話によると、私たちが起きている間は、歯が唾液によってコーティングされ、汚れや虫歯菌がつきづらい状態になっているという。
だが、眠る時になると唾液の分泌量が減り、歯のバリアーが解ける。この時こそ、乾燥した歯の表面にばい菌などがくっつき、悪さを始める足掛かりとするらしい。
そして私のように、前歯へ汚れが付着してしまうケース。これは寝ている最中に、口を開けて眠ってしまっている可能性があるというんだ。
「こいつは口臭の原因にもなるんだ。君の歳で、ここまで顕著とは珍しい」
特別扱いされる言い草に関して、ほとんどの人間は敏感だ。
「喉とか、痛くなっていませんよ!」と、私があくまで口を開けたまま、寝るような真似はしないことをアピールしたが、先生は苦笑い。
今日からはできる限り、鼻呼吸を意識すること。そして、眠る前にマスクを着けることをおすすめされたよ。
この頃の私にとって、マスクを着けることは体調不良アピールと同じ意味で、軟弱者の証でもあった。
本当に口を開いたまま寝ているのか。信じがたい私は、すでに夜更かしの常習犯となっていた兄に頼み込み、寝ている私の様子を見届けてもらうことを頼み込んだ。
弟の頼みも無償で聞いてくれた兄。その彼から、開口の件がウソではないことを知らされた時には、ショックだったよ。
私が寝息を立て始めてしばらく経った後。上唇が鼻の方向にずれていき、上側の二本の前歯と犬歯が露わになる。前歯同士の間のわずかなすき間から、「コヒュ、コヒュ」と息が出入りする音がしたらしい。
それに呼応するように下唇もわずかにずれ下がり、下の前歯二本が露出。数が増えたことで、音はますますその大きさを増し、半ばいびきをかいているかのようだった、と兄は語ってくれたんだ。
認めたくはないが、歯医者さんのいう予防措置をとることにしたよ。
そして誓う。「どうせやるのなら、徹底的にやってやる」とね。
歯医者さんからは、寝る時だけでいいといわれていたが、私は起きている間もずっとマスクを着用することにした。
これまで、マスクを着けていなかった私を見慣れているせいで、「風邪でもひいた?」と心配してくる友達が、ちらほら。
「予防だ」と手短に返す私。やや声音が不機嫌だったせいか、すぐに追及してくる人はいなくなった。
そのまま、朝のホームルーム。先生から、また通り魔の被害が出た旨の話を聞かされたが、そんなことより、私は自分の口の奥が気になってしょうがない。
徹底抗戦の意を示すべく、マスクを外すのは飲水、食事、先生の指示を受けた時だけ。
家でも同じような感じで、一日の大半は口元をマスクの下に隠して、過ごしていた。すべてはにっくき、暴れん坊前歯を大人しくさせんがためだ。
歯磨きを入念に行い、マスクを着けなおす。
――これだったら、口内の湿り気を逃さずに済むはず。前歯め、ざまあみろだ。
勝利を確信し、意気揚々と寝入った私だったが、その真夜中のこと。
突然、激しくせき込んで、私は目が覚めた。
すでに協力期間が終わった兄は自室におり、私の目に映るのは天井と、そこから下がる、かさつきの丸形蛍光灯だけ。
私は口を大きく開けていた。マスクをしながらでも、自覚できるほどだ。
「ハフ、ハフ、ハフ」と犬が舌を出してするような、細切れな吸い込み。私の意志と関係なく、吸い続ける動作が続き、止められない。
マスクの一部が吸い込まれて、一気に苦しくなる。なおも肺は吸い続けて、私の舌がじょじょに綿の味を覚えていく……。
マスクをひっつかむ私。軽く引っ張ったが思いのほか抵抗され、力任せにもぎはなった。
自由を得た口周り。これを待っていたかのように、私の身体は勝手に、思い切り大口を開けた。両こめかみからあごにかけて、神経がキンキンに痛みを訴えてくる。
「フウウ、フウウ」とひたすらに吸い続ける、私。胸もお腹も、もはやパンパンだ。寝巻のズボンに入れたシャツが、内側から弾けてしまいそうだ、と思い始めた時。
「ハアアア……」
吸い続けた息を、今度は思い切り吐き始めた、私の身体。溜まりに溜まった空気が吐き出され、圧迫感が弱まり出す。「助かった」と思ったのも、ほんの束の間のこと。
今度は吐くのが止まらない。
十秒……二十秒……。以前、お試しでやってみた発声練習でも、私はせいぜい三十秒が限度。なのに、その限界を越えんとするかのように、身体が動く。
「ハアアア……」
痛い……痛い……。お腹はすでに胸板より内側に引っ込んでしまい、肺が骨の内側でズキズキと危険信号を出してくる。
せき込んだ。喉の奥がやけて、マスクの外れた口元から、布団へつばが飛び散った。反射的に身体が、空気をわずかに吸い込む。でもまた、「ハアアア……」と勝手に吐き出し始めてしまった。
もう、胃液以外出てこない。しゃっくりの時に似た、「オエッ」と空のゲップとともに、喉の奥をやきながら上ってくるものが。
――出したら、やばい。
口を閉じる。今度は、身体が言うことを聞いた。
が、せき止められた流れは、別の小さい穴。鼻につながる通路の方へ。
つーん、と鼻腔がしびれる。奥を針でつついたかのような、目の裏側まで届くかと思う痛痒さで、思わず布団の中でじたばたしてしまう。
鼻をかむことも、水でゆすぐこともできない。胃液に荒らされた箇所が、もろに痛むらしい。
ぐすぐす、声を押し殺してなきながら、その晩はうとうとするのが限度で、ほとんど眠ることができなかった。
翌日の私は、すこぶる機嫌が悪かった。
朝ごはんを食べる段から、のどの痛みが引かないんだ。加えて、マスクをしているにも関わらず、何人かから「なんだかどぶくさ〜い」と鼻をつままれる事態に見舞われた。
歯医者さんの言う通り、というのが、余計シャクにさわる。
――面白くない……なんなんだよ、もう。
ボカボカと、八つ当たりで自分の頭を叩きながら、家路に着いた私。本来の通学路じゃないが近道でもある、レンタルビデオ屋の裏手に差し掛かったところで。
「フウウ……」
あの発作が来てしまった。
すぐさま吸い込まれるマスク。詰まる喉。取り除ける私の手。そして、流れ込む空気。
肺が膨れる。お腹が膨れる。私全体を風船にせんばかりの勢いで、お腹がどんどん張り出していく。でも、それに続く怖さ、苦しさを私は知っている。
「ハアア……」
来てしまった。しかも今度は立っている姿勢のためか、昨日にも増してどんどん息が出ていく。
限界も早い。すぐにまた「オエッ」と喉奥がうめいた。今度はもう、耐えられない勢い。
前かがみになった私は、ぐわっと吐いた。
喉や鼻の痛みの割に、出てきた胃酸の量はスポイドで垂らしたかのごとく、ポタポタっとごくわずか。アスファルトに点々とシミが広がった。
でも、それ以上にどぶのような臭いが、強く……。
「ゲエエ!」
私のものじゃない悲鳴が、おじぎするような姿勢をした、頭の先から響く。
上目遣いで見てみる。私の髪の毛、数センチ先に床屋が使う、長い剃刀の刃が閃いていた。それは手袋をした手に握られていて、一気に肝が冷える。
バタバタと足音。見ると、剃刀を持ったままのニット帽、ジャンパー、ジーンズのいずれも黒一色でそろえた、中背の後ろ姿がかけ去っていくところだった。
うわさの通り魔? と思ったが、それも一瞬のこと。漂う異臭に、私自身も鼻をつまんでしまう。どうも臭いの源は、私が出したものらしい。
今一度、垂らしたものを凝視すると、水たまりの中心に小さな塊のようなものが横たわっている。それに鼻を近づけて……ひん曲がりそうになった。
みんなのいうどぶのような臭い。それがまさにこれから発せられていたんだ。
後で歯医者さんに聞いたのだが、これは「膿栓」と呼ばれるもの。
食べかすや細胞の死骸などが集まり、喉の奥にできる。普段はせきやくしゃみなどで簡単に取れるのだが、唾液が少なかったりすると、喉の奥に挟まって出てこない。
そして口内にあってもその存在が分かるくらい、強烈などぶの臭いを放ってしまうのだとか。




