第一話 アパシー (Aパート)
「アパシー?」
「要するに、今の君の状態を『病気』として表現したら浮かび上がってくる単語だよ。意味については説明しておいた方が良いかな?」
「いいや、あまり聞きたくないので」
「アパシーとは無表情のことだよ。表情を取りにくい、とでも言えば良いのかな」
白衣を着た老人は、患者の言うことを無視して話を続けた。
そこまでして話さないといけないことだったのだろうか? 少なくとも、ぼくはそう思わない。
「鬱病やアルツハイマーに多いと言われているのだけれど……、君は最近ストレスを抱えているとか、そういう状況に陥ったことはあるかい?」
「いいえ。ありません。そんな状況があるなら、きっともっと早く相談しに来ていると思います」
「そうだろう、そうだろうねえ」
白衣を着た老人はパソコンのキーボードをしっかり一本一本の指で押し込みながら、画面とにらめっこしている。
「希死念慮は?」
「希死念慮?」
「死にたいと思う気持ちさ。そこまでは行ってないかな?」
「行ってない……と思います。多分」
「ならば良し。薬を出しておきましょう。なあに、初回だからそんな強い薬を出すことはありませんよ。あと睡眠導入剤もね。眠れないって言っていたから、これも出しておきましょう。他に質問は?」
矢継ぎ早に捲し立てるように告げる白衣の老人。
きっと後にも支えているから、さっさと終わらせてしまいたいというのが本心だろう。
なんとなく理解できる。何百人もこのような人間の相手をしていれば、自分が精神病にかかってもおかしくはないのだから。
「……無いようですね。それじゃあ、また来週来てください。時間はこれぐらいで良いですか」
こくり、と僕は頷いた。
「それじゃあ、来週のこの時間でね。出しておきますからね。お大事に」
「…………ありがとうございました」
僕は鞄を持って立ち上がると、白衣の老人に頭を下げて診療室を出て行った。
◇◇◇
薬局で薬を受け取って、道を歩く。薬は一週間分、たんまりと貰った。薬代と治療費でしめて三千円。これでも『学生割引』が効いているから安いんだけれど。
七宝市。
かつて国が全力を挙げて立ち上げた『学力向上プロジェクト』のために新興住宅地まるまるを一つの市に仕立て上げたことが始まりであると言われている。
人口の構成比は、七割が学生。残りの三割がどうしても学生ではこなすことの出来ない役割――例えば、今日ぼくが行った病院のこと――だ。それ以外を学生で担うことが出来るということが既に奇跡なのだが、実際の所、そのシステムはとっくにぼろが出始めている。
例えば、ぼくのような、存在が。
『プログラム』に失敗した存在は、一度精神病院に送られる。それで治療が行われ、『プログラム』に復帰出来るまで自宅学習で何とか無理矢理に治すことを可能とする。それがプログラムの暗部だ。それを知ったのは、ぼくがこのような状態になってから、のことだけれど。
家に帰り、序でに買ってきたコンビニの弁当で夕食を取ることにする。自宅学習はそれから、ということにしよう。自宅学習の良いところは、『いつどの時間でもやって良い』というところだよな。それを普通の学校も採用して欲しいところだけれど、そうも行かないのが実情なのだろう。
夕食を終えたところで、薬を飲む。緑色のコンビニ袋から取り出したのは、気味の悪い色のしたカプセルだ。これから毎日これを飲まなくてはならないのかと思うと、はっきり言って気味が悪い。もっと飲みやすいものを想像することは出来なかったのだろうか。いや、それを言ったところで何も話が進まないし、進む訳が無い。そう思って僕はごくり、と薬を飲み干した。
意外と苦味は無かった。薬がカプセル状になっているからだろうか。ならそれはそれで問題無いが、問題はそのカプセルの色だ。何だ黄色と紫って。気味が悪いし、飲ませないように敢えてその選択をしたのでは無いかと勘繰ってしまうレベルだ。分からないのだろう、これを医者は。適当にはいはいこれでいいですねーと言って済ませてしまうのが医者なのだ。医者という属性なのだ。
医者という属性は、どうにも苦手だった。それはぼくの両親が医者だからということが原因にほかならない。医者という人間はどうも他人との接触を嫌っているような、そんな感覚に陥らせる。わざとなのか偶然なのか分からない。何せ一度もそれについて効いたことが無いのだから。小学校に入ってから直ぐ、ぼくはこの七宝市に『管理』されることになったのだから。
七宝市を『卒業』するには、大学を出なくてはならない。裏を返せば大学を出ない限り、七宝市から許可無く出ることは許されない。そして僕は中学二年生。はっきり言ってまだまだの時期と言ってもいいだろう。まだあと九年もこの七宝市に居なければならないのだと思うと反吐が出る。途中退出を命じられるなら、喜んで馳せ参じたいぐらいだ。
さて。
そろそろ薬も効いてきた頃合いだし、自宅学習に精を出すことにしますか。
自宅学習もきちんとやらなければ先生から『お叱り』が来る。それがこの自宅学習のシステムだ。だったら最初から普通に学校に通わせてくれよ、と思うかもしれないが、精神に異常を来した人間が学校に通うことは禁止されているらしい。ぼくは病気か何かか?
プルルル、と電話の着信音が鳴ったのは、ちょうどそのときだった。
ずしん、ずしん、と何かが揺れる音も聞こえる。……幻聴か? 確か副作用にそういうのがあると聞いた覚えがある。スマートフォンを確認する。着信音はホンモノらしい。見たことの無い電話番号だが取りあえず出ることにする。
「はい。もしもし」
言いかけた瞬間、ばちっ! と電気か何かが弾けた音がした。
「うわっ!」
思わずスマートフォンを落としそうになってしまったが、すんでの所で押さえる。
スマートフォンに改めて耳を当てると、スマートフォンの通話は切れていた。
「何の電話だったんだ……まったく……」
そんなことを思いながら。
ずしん、ずしん。
なおも、震動は続いていた。
「ったく、何なんだよこの震動は……」
ぼくは、ベランダから外を眺める。
すると、そこに、『そいつ』は居た。
ピンクと青と黒で塗られた、首長竜のような化け物だった。
「ぎゃああああああああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
そいつは、咆哮していた。
そいつが動くと街が破壊され、そいつが動くと人が飛び散っていった。
「何だ? こいつはいったい……何なんだ?」
何者なんだ?
さっきのスマートフォンの電話といい、この化け物といい、謎が多すぎる。
流石に副作用の『幻聴』『幻覚』で片付けるには、ぼくの頭は馬鹿じゃあなかった。
『聞こえるか、少年』
「ああ……また幻聴が聞こえてくる……」
『幻聴ではない、聞こえるか、少年。もし君に街を助けたいという思いがあるならば、私と「シンクロ」するのだ』
シンクロ? 私と? どうやって?
シンクロの手段が分からないし、そもそもその幻聴を信用していいのか分からないし。
「シンクロって何をするんだよ!」
『私の思いを感じ取るのだ……!』
「あんたの……思い?」
じっと、目を瞑る。
ずしん、ずしん、という音も遠ざかり、人の悲鳴も遠ざかっていく――。
でも、その中ではっきりとした声は聞こえてきた。
『聞こえるか、少年』
「…………ああ、何度も頭の中騒ぎ立てるんじゃねえよ、聞こえてるよ。それがどうした?」
『これが、私と同調したということだ。君はあの化け物を倒さなくてはならない』
「倒す? ぼくは人間だぞ。そんなことが出来る訳が無い!」
『でも、出来るんだ。私と一緒ならば。あの化け物と同じように戦うことが出来る!』
「…………あーあー、やっぱり幻聴が強くなってるな。明日もう一度病院に行くべきだろうか」
『話を聞いてくれ、少年』
「話なら何度も聞いているよ!」
『あの化け物を倒すことが出来るのは、君だけなのだ。分かるか? 君がいなければ、この七宝市は崩壊してしまう。意味が分かるか?』
「分かるよ、分かっているよ。でも……」
『君は、この街を守りたいと思わないのか?』
禅問答をしているような感覚だった。
「…………あー、もう、分かったよ! 守るよ、守れば良いんだろ!」
『分かってくれれば、それでいいのだ!』
刹那、ぼくの身体が光に包まれた。