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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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負けられない女9

 イメージトレーニングを終えた後、めぐりは自分の部屋でずっとテレビを見ていた。画面の中ではたくさんのお笑い芸人が楽しい話を代わる代わるに披露していたが、めぐりの耳には一切入っては来なかった。他のことで頭がいっぱいになっているというよりはむしろその逆で、今は何も考えられなかった。

 めぐりはテレビを消し、着替えとバスタオルを持って風呂場へと向かった。シャワーを浴びて頭の中をリセットし、さっさと眠ってしまうことにした。脱衣所で服を脱ぎ、季節外れの雪のように白い肌が、風呂場のオレンジ色の照明に反射した。

 シャワーを浴びていると、めぐりは自分の体に張り付いている水の粒が、突然真っ赤に変色したように錯覚し、思わず悲鳴を上げた。そして、目の前の鏡に映る自分の後ろには、頭から血を流した裕香が映っていた。めぐりは再び悲鳴を上げると同時に嘔吐した。今までは警察の捜査の目をいかに自分から逸らすかということについてしか考えていなかったが、一人になって落ち着くと、自分が人殺しになったのだという実感が急激にめぐりを襲って来た。めぐりは、とにかく呼吸を整えることに集中した。何度も何度も深呼吸をした。そのうち呼吸は正常になり、強張っていた全身の筋肉も力が抜けて行くようだった。

 めぐりは立ち上がり、風呂場を出て、用意していたバスタオルで体の水分を拭った後、新しい部屋着に着替えた。部屋に戻っためぐりは、すぐにベッドへ向かい、休むことにした。自分は疲れているのだ。きちんと休めば何の問題も無く、またかるたが取れるようになる。今は我慢するしかない。そう自分に言い聞かせ、ベッドに入ろうとしたときだった。めぐりの部屋をノックする音が聞こえた。めぐりはその音に少し驚いて、ドアの方を見た。

「はい。どなた?」

「こんばんは、山崎です。昨日伺った。覚えておられますか?」

 山崎。覚えている。昨日、裕香を殺した後、夜中に部屋へやって来て自分にいろいろ話を聞いてきた刑事だ。忘れる訳はない。現場に自分の妹を連れてくるような変な男だったこともよく覚えている。

「すみません。またお話を伺えないかと思いまして」

 正直、めぐりにとっては最悪のタイミングだった。さっきまで気分が悪く、風呂場で嘔吐していて、これから眠ろうとしていたところだったのだから当然である。本当なら体調が悪いからと断っても何の問題も無いはずだったのだが、今のめぐりにとっては、山崎からの申し出を断ることは、即自分が裕香を殺した犯人だと疑われる要因になり得ることのように思えた。

「はい。今開けますから、ちょっと待ってください」

 部屋の中から答えて、めぐりはドアを開けた。そこには昨日と全く同じ装いの山崎が立っていた。服装から立ち居振る舞いまで、何から何まで昨日と同じなので、まるでめぐりは昨日の再現を見せられているような感覚に陥ったほどだった。

「どうかされましたか?」

 めうりの様子がおかしかったのに気付いて、山崎が心配そうに言った。

「いえ、何でもないんです」

「そうですか。どうもすみません。こんな夜分遅くに」

「構いません。私でよければいつでも力になると、昨日言ったじゃないですか」

「そう協力的だと非常にありがたいです。仕事柄、あまり好意的でない方がほとんどなので…」

「大変ですね、刑事さんも」

「かるたの選手に比べれば大したことはありませんよ」

 そんな会話をしながら、山崎はめぐりの部屋に入り、昨日と全く同じソファの全く同じ位置に座った。めぐりも同じように山崎の向かい側に腰を下ろした。

「そういえば、今日はお一人なんですね。昨日一緒にいた部下と妹さん。えっと、名前は何て言ったかしら…」

「部下は東堂さん。妹はカオルと言います」

「ああそうだ。東堂さんとカオルさん。今日はいらっしゃらないんですか?」

「ええ。もう時間も遅いので帰らせました。二人とも、昨日からあまり寝ていないもので」

「それは山崎さんも同じなんじゃないですか?」

「私は、人よりあまり睡眠を必要としないんです」

「そうなんですか? 毎日平均でどれくらい寝てらっしゃるの?」

「そうですねえ。平均だと二、三時間ってとこでしょうか」

「二、三時間!? 駄目ですよ、山崎さん。もっとちゃんと睡眠を取らないと。体を壊しますよ?」

「刑事という仕事は、時には昼も夜もないときがありますから、この生活にも慣れてしまいまして」

「良くないですね。今日はお家に帰ってゆっくりお休みになってください。じゃないと、今後捜査には協力しません!」

「はは…。分かりました。今日は家でゆっくり休むとします」

 部屋の中は終始和やかな雰囲気だった。これが前日に人を殺した女と、その事件を捜査している刑事の会話だとは、客観的にはとても想像できるものではなかった。

「じゃあ、山崎さんが早く帰られるよう、さっさと本題に入りましょうか。何か、私にお聞きしたいことがあるんですよね?」

 めぐりは、さっきまでの不調が嘘のように消え去っているのを感じていた。この山崎という男には、たとえ殺人犯と刑事という関係であっても、話し相手を楽な気持ちにさせる不思議な雰囲気を持った男なのだと、めぐりは自分の中で結論付けた。

「そうなんです。実は、今日は競技かるたの大会を見に行きまして」

「昨日言ってましたね。でもまさか本当に行くとは…。どうでした? 初めてのかるたの大会は」

「いやあ何というか、とにかく凄かったです」

「驚いたでしょ? イメージと全然違ってて」

「それはそうです。小学生や中学生の頃に『百人一首』のかるたは経験済みですが、あそこまで激しくはありませんでしたから」

「競技かるたは、その激しさやキツさから『畳の上の格闘技』って異名まであるんですよ」

「格闘技ですか…。まさにそんな感じでしたね。何よりものすごく暑かったです」

「ああ、そうなんです。かるたの試合では、窓を開けたり空調を付けたりすると、読み手の声がちゃんと聞こえなかったりすることがあるので、基本的に密室なんです。真夏でもそうなので、熱中症になったりする選手もいるんですよ」

「へえ。それは大変だ。日野さんがかるたをされているところも、是非拝見したいですね」

「…機会があれば…」

 少し返答に詰まってしまった。変に思われただろうか。

「ところで、私にしたい話ってそれですか? 山崎さんが初めてかるたの試合を見た感想なんて、正直私は興味ないんですが」

「ああ、これはすいません。貴重な経験だったので、誰かに話したくなってしまって。釈迦に説法でしたね。ご安心ください。今日参ったのは、ちゃんと他に理由があるんです。新たに判明した情報をお教えしたいと思いまして」

「それなら少し興味ありますね。何ですか? 新しい情報って」

「実は、大川さんがなぜ非常階段を使ったのかが分かったんです」

「…」

 めぐりの顔が一瞬強張った。

「へえ。それは是非お聞きしたいですね。どうしてなんですか?」

「その前に一つ確認しておきたいんですが、昨日日野さんと大川さんがこのホテルの一階にあるレストランで食事を終えた後、日野さんは大川さんより先にご自分の部屋へ上がられたんですよね?」

「はい」

「そのときは何を使って上がられましたか?」

「エレベーターです」

「そうですか。実はですね、ここに来る前、我々はこのホテルの宿泊客や従業員全員にあたって、昨日のその時間に、同じようにエレベーターを利用した人を探したんです。そして、三人見つかりました」

「よく見つけましたね」

「骨が折れました。そして、その三人に話を聞くと、三人とも同じ証言をしてくれました」

「…」

「その時間、エレベーターが一階に降りて来るまで、すごく時間がかかったそうなんです。それもそのはずです。階数表示を見ていたところ、エレベーターは上の階へ一階ずつ上がって行っていたそうなんです。いい迷惑だったと皆さんおっしゃってました」

「…よくあることですね」

「そうですか? 少なくとも私はそんな経験はありません。一階ずつなんて、誰かが故意にやったようにしか思えないんですが」

「ていうことは、誰かの悪戯ってことですか? まあ、このホテルには子供も大勢泊まってますから、遊んでたんじゃないですか?」

「本当にそうでしょうか…」

「…どういうこと?」

 山崎は、真っ直ぐにめぐりの目を見つめていた。

「…もしかして、私がそれをやったと?」

「状況から考えて、その可能性が一番高いと思うのですが…」

「私じゃありません。何で私がそんなことしなくちゃいけないんですか?」

「それを聞きたくてここに来たんですが」

「じゃあ、残念ながら私に答えられることはありませんね。それに、今話してるのは、どうして裕香が非常階段を使ったかってことですよね? エレベーターが悪戯されてたこととどういう関係があるんですか?」

「だって考えてみてくださいよ。大川さんの部屋は、ここと同じ四階です。ずっと降りて来ないエレベーターを待つより、階段を使った方が早いと思ったんじゃないでしょうか? それに大川さんは女性相撲のチャンピオンです。体力的に階段を苦にするということは無かったでしょう。そして、なぜ一般の階段でなく非常階段を使ったのかですが―」

 めぐりは、今から山崎が何を言い出すのか分かっていた。当然だ。その理由は自分が一番よく分かっている。

「ここのホテルの階段は、少し狭いんです。我々はずっとエレベーターしか使っていなかったので気付きませんでしたが、大川さんの体型だと、おそらく前から来た人とすれ違うのに少し苦労するでしょう。ですから、その手間を嫌って、普段あまり人の通らない非常階段の方を使ったんですよ。ここのホテルで働いている、大川さんのお知り合いの方にも確認を取りました。確かに昔、そんな話をしていたと。日野さんはご存知でしたか?」

「…いえ。知りませんでした」

「そうですか。大川さんと一番付き合いの長いあなたならご存知かと思ったんですが」

「…」

 このホテルに裕香と親しい従業員がいることは知っていたが、そんな細かい話までしているとは思っていなかった。めぐりは、自分の詰めの甘さを呪った。

「なるほど…。裕香がなぜ非常階段を使ったのかは分かりました。でも、それで何かが変わるんですか? 結局裕香が事故で死んだってことには変わりありませんよね?」

「いいえ。そんなことはありません。もしこのことを知っていれば、大川さんの行動を操作することができます。やることはエレベーターのボタンを押すだけでいい」

「…なるほど。つまり、私が裕香を殺したと」

「そこまでは言ってません。ただ、それも可能だというだけです。気分を害されたのなら謝ります」

「いえ。山崎さんの仕事は、あらゆる可能性を考慮する必要があるんですもんね」

「理解を示していただけてありがたいです。そこで、改めて伺いたいことがあるのですが」

「何ですか?」

「…大川さんが亡くなった時間、日野さんはどこで何をしていましたか?」

「…何度聞いても答えは変わりません。私はずっとこの部屋にいました。証明できる人はいません」

「分かりました。何度も同じことを聞いて申し訳ありません」

「いえ…」

 一瞬の沈黙が部屋を包んだ。その静寂を破ったのは、めぐりの方だった。

「でも、山崎さん」

「はい」

「仮にエレベーターを操作したのが私だったとして、それで私は逮捕されちゃうんですか?」

「…」

「それだけじゃ、私が裕香を殺した犯人かどうかなんて分かりませんよね? そんな証拠はどこにも無いじゃないですか」

「確かに。その通りです」

 めぐりは少し笑って見せた。

「山崎さん。やっぱり考えすぎですよ。今の話だって、そういう可能性もあるってだけで、その証拠は何一つないじゃないですか」

「はい」

「でしょ? 裕香は事故で死んだんです。殺されたりなんかしてません。人に恨みを買うような人間じゃないってことは、私が一番よく分かってます」

「そこなんですよね。誰に話を聞いても、大川さんに何かしら恨みを持っている人は見つかりませんでした。むしろ皆さん彼女のことを慕ってらっしゃった」

「人付き合いのいい人でしたから。私とは正反対」

「…」

「私は人見知りで、人付き合いも悪くて、親しい友人も裕香以外にはいませんでした」

 言いながら、めぐりは唯一の親友を自らの手で葬ってしまったことを改めて認識した。

「何をしても、私は裕香よりも劣ってた。競技かるたでは、次にクイーンになるのは私か裕香のどちらかだなんて言われてたけど、内心ではみんな裕香の方が強いって思ってたはずです。私は土壇場に弱いって…」

 山崎は黙って巡りの話を聞いていた。

「私と裕香の通算の勝敗も、裕香の方が多く勝ってたはずです。裕香は本当に強かった。私と違って、追い込まれても動揺しない心の強さを持ってた。その強さを誰よりも近くで見て来たのは、他でもない私。裕香には一生勝てないと誰よりも思い知らされてきたのは、私です」

 めぐりは、山崎の顔を真っ直ぐに見つめ直した。

「だからね、山崎さん。もしかしたら、私が唯一、裕香を恨んでいた人間かもしれないわ」

「…」

 山崎もまた、めぐりの目をじっと見つめ返した。

「…私を、逮捕してみます?」

「残念ながら、逮捕状が出ていない限りは、あなたを逮捕することはできません。ただ、あなたが自首していただけるのなら話は別ですが…」

 また二人の間に静寂が流れた。二人は真剣な顔でじっと相手の目を見ている。それはさながら、西部劇の決闘のようでもあった。

 再びの静寂を破ったのは、やはりめぐりだった。めぐりは、少し微笑んで山崎に言った。

「自首なんてしません。裕香が死んだとき、私はずっとこの部屋にいたんですから。もし山崎さんが、どうしても裕香が事故でないと言いたいなら。そして、裕香を殺したのは私だと言いたいなら、それを証明して見せてください。私の前に揺るぎない証拠を持ってきて、私に自白させてみてください。それが、私と山崎さんの闘い」

「…なるほど。分かりました。その勝負、受けて立ちましょう」

「知ってます? 私、負けるの大嫌いなんです」

「私もです」

 二人はお互いに不敵な笑みを浮かべた。

「では、そろそろお暇することにします。遅くまで失礼しました」

 山崎が立ち上がり、ドアの方へ向かった。めぐりはその後を追うようにして、山崎を見送った。山崎が廊下に出ると、めぐりは山崎に声をかけた。

「またいつでもいらしてくださいね。今度は東堂さんや妹さんも一緒に」

「そうします。では、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 別れの挨拶を交わし、めぐりは部屋のドアを閉めた。ドアに耳を当て、山崎の足音が遠ざかって行くのを確認すると、めぐりはすぐにベッドへと向かい、掛布団の中に潜りこんだ。たった十分ほどのやり取りだったが、どっと疲れたような気がする。あんなに神経をすり減らして誰かと会話したのは初めてかもしれない。あの言い知れぬ緊張感は、かるたの試合にも似ているような気がした。

 それと同時に、さっきまでの自分の態度を思い返すと、今更ながら背筋がゾッとした。他人に対してあんなにも挑戦的な態度を取ったのは初めてだったように思う。極限まで張り詰めた空気感がそうさせたのだろうか。とにかく、これで山崎は完全に自分に対して疑いの目を向けただろう。それはいい。どうせエレベーターの件が分かってからは、自分のことを疑い始めていたはずだ。そこに大した差はない。何より恐ろしいのは、自分が知り得ない新たな状況証拠を持って来られることだった。それに関しては対策のしようがない。そのときは、咄嗟のアドリブで何とか切り抜ける必要があると思った。

 しばらく考えを巡らせたが、未知の領域を思考しても無駄だと気付き、大人しく眠ることにした。存在するかどうかも分からないものに苦悩するのは、宇宙人に地球が支配されたらどうしようと考えることと同じだ。そんなものに意味はない。今分かっていることだけに集中すればいい。

 めぐりは、自分の心配が杞憂に終わるだろうことを予感して、静かに目を閉じた。


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