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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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山崎のいない日7

 恵はスマホで時刻を確認した。名古屋に着くまであと二十分ほどだ。このまま何事もなく着いてくれと、恵は心の中で懇願した。

 ざわつく心を落ち着かせるため、恵は二度も邪魔されてできなかった、化粧の仕上げをすることにした。

 恵は、化粧をしている時間が割と好きだった。確かに朝の忙しい時間などは、面倒だし、この時間を睡眠に充てられたなら、化粧などしなくてもいい男が心から羨ましいなどと思うことは多々あるが、鏡を見ながら自分の顔が美しく染まっていくのは、ある種の快感でもあり、化粧をしている間は、心が落ち着いていくのを感じていた。

 そして、今もそうだった。さっきまであんなに動揺していたのに、今は不思議と落ち着いている。不安が拭いきれた訳ではないが、冷静さは取り戻せたように思う。

 そして、いよいよ恵の化粧も口紅を塗るだけとなった。恵はバッグの中からいつも使っている口紅を取り出そうと、バッグの中を漁った。そこであることに気づいた。口紅が無い。

 おかしい。朝見たときには確かに入っていた。ということは、どこかで落としたことになる。心当たりは二つあった。

 一つは、九号車のトイレの中。田辺を殺した後、トイレから脱出しようとしたときに、バッグの紐が田辺の手に引っかかり、中身をばら撒いてしまったときだ。

 もう一つは自分の足元。さっきゴスロリ系の服を着た少女が、新幹線が揺れた際に恵のバッグの中身をばら撒いてしまったのだった。

 恵は考えた。もし後者であるなら、特に問題はない。ただの不運な事故により、恵の口紅が一つ無くなっただけの話だ。少々値は張ったが、また買い直せば済む。問題は前者だった場合だ。

 さっきの少女の話を信じるなら、田辺の死体は既にこの新幹線の乗務員によって見つかっている。そして今はトイレが故障していることになっていて、それ以降は誰もトイレには入っていない。もしそこに口紅が落ちているのが見つかり、それが恵のものであると分かったなら、一発でアウトだ。

 まず、そもそも口紅を落としたのがあのトイレなのか、もしそうだとして、口紅は乗務員に見つかっているのか、考えたところで答えが分からないことは明白だった。どちらにせよ、それを確かめるために、再び九号車に行くことは必須事項となった。

 恵は静かに立ち上がり、少し早歩きで九号車の方へ向かった。駅に停車していないのだから当然なのだが、車内は相変わらず空いていた。乗客はスーツを着た男性がほとんどで、パソコンを開いて仕事をしていたり、窓にもたれかかって大きく口を開けて寝ていたりと、各々が各々の時間を過ごしていた。

 似たような景色が七号車まで続き、八号車に入る。ここから十号車までがグリーン車だ。自由席でさえ静かだったのだから、ここは更に静かだった。

 恵は八号車も通り抜け、遂に九号車に入る。そこの通路も同じように通り抜け、自動ドアを抜けると、次の十号車との間に、トイレと洗面台があった。トイレのドアを見ると、さっき恵がいたときには無かった張り紙がしてあり、手書きで「故障中」とあった。どうやらさっきの少女が言っていたことは本当らしかった。

 恵は周りに誰もいないことを確認すると、素早くトイレのドアを開け、中に入ろうとした。するとそこには、恵が想像していたものとは全く違う光景があった。恵はてっきり、田辺の死体がそのまま放置されているものだと思っていたが、そこにいたのは、メガネをかけた一人の女だった。女はスキニージーンズに黒のハイヒールを履き、上は薄いピンクのシャツに白いジャケットを羽織っていた。

 あまりに恵が勢いよく入って来たので、そのメガネの女は驚いた表情を見せた。その顔をしたいのはこちらの方だ。そんなことを恵が考えていると、メガネの女は「どうも」と、気まずそうに挨拶してきた。恵が答えずにいると、後ろから別の女の声が聞こえた。

「お探しのものはこれですか?」

 恵が後ろを振り向くと、そこには三人の女と、乗務員の制服を着た男が一人立っていた。そのうち二人の女に、恵は見覚えがあった。一人は白地に花柄のワンピースを着た背の高い女。もう一人はゴスロリ系の服を着た背の低い少女。その二人の前に立っている、黒いレギンスパンツに黒のレザージャケット、その下にベージュのニットを着た長身の女は、見たことのあるような無いような、曖昧な記憶しかなかった。

 そしてさっき恵に声をかけてきたのは、どうやら真ん中の黒いレザージャケットの女のようだった。その女は自らの左手に持っているものを、恵に見せてきた。恵はそれを見て驚いた。女が持っていたのは、まさに今恵が探していた口紅そのものだった。

「まあ聞きたいことはたくさんあると思いますけど、その前に自己紹介を。私たち、こういう者です」

 そう言うと、口紅を持った女と、トイレの中にいたメガネの女が、懐から黒い手帳のような物を取り出した。それを見て、恵はさらに驚愕した。二人の女が取り出したのは、警察手帳だった。

「私は小倉マイコと言います。そっちのメガネの女性は東堂エリナさん」

「どうも」

「それで、さっきあなたとお話ししてたこの二人の女の子がーー」

「山崎カオルです!」

「小林ミクです」

「…な、何なのあんたたち…。これは、どういうこと?」

 恵は動揺を隠せなかった。

「まあ驚くのも無理はありません。順番に説明します」

マイコはまるで名探偵を気取るように、自信満々に話し始めた。

「まず、本日このトイレで死体が発見されました。状況から言って、どうやら他殺のようでした。そこで私たちは、まだこの新幹線に犯人が乗っている可能性が高いと思って、その犯人を探していたんです。そして最も怪しいと感じたのが、あなた」

「…ど、どうして私を…?」

「あなたに目をつけたのは、実は私じゃなくてカオルちゃんなんです。カオルちゃん、説明してあげて」

「はい!」

 カオルはにっこり笑って言った。

「最初にこのトイレに入ったとき、何か匂いがしたの。フルーツ系の、香水っぽい匂い!何でだろうってずっと思ってたんだけど、その後マイコさんと一緒に五号車を歩いてたとき、このお姉さんとすれ違ったの! そのときに、同じ香水の匂いがしたんだ! それで思ったの! 絶対この人が犯人だって!」

「…」

「駄目ですよ。人を殺すのに香水なんか振っちゃ。まあ、癖なんでしょうけど。あ、ちなみに、ここにあった死体は、車内販売のワゴンの中に隠して、別の場所に移動させました。ここじゃいつ誰に見つかるか分かりませんから」

 何も言い返さない恵に、マイコが続けた。

「そしてこの口紅」

 マイコは再び口紅を恵に見せた。

「あなたはこれをこのトイレで落としたと思ったんでしょうけど、それは違います。これは、さっきミクちゃんがあなたの化粧品を拾ってるときに、こっそり拝借して来たんです」

「え…?」

「盗みを働いたことは謝ります。でもお姉さん。どうしてこれがこの九号車のトイレにあるって思ったんですか?」

 マイコの質問で全てを察した恵は、どう答えるべきか必死で頭を回転させた。

 そして、ゆっくりと口を開き、答えた。

「…なるほどね。あんたたちの言いたいことは分かったわ。ここにあった死体は、私が殺したって言いたい訳ね。そのときに私が口紅を落としたんだと勘違いして、のこのこ現れたところを捕まえようって、そういう作戦でしょ?」

「…」

 マイコたちは何も答えない。

「ふふ。やっぱりそうなのね。残念だけど、私がここに口紅を探しに来たのは、実際にこのトイレを使ったからよ。私が使ったときは、男の死体なんてなかった。きっと、私が入った後に殺されたんじゃない? 私は死体とは一切関係ないわよ」

「…」

 マイコたちはまだ黙ったままだった。

「どうしたの? 何も言い返せないの?だったらもういいかしら。あと、この口紅は返してもらうから」

 恵はマイコの手から乱暴に口紅を取り上げ、その場を去ろうとした。

 そのとき、マイコが言った。

「カオルちゃん、さっきの聞いた?」

「うん、聞いたよ!」

「ミクちゃんは?」

「聞いた」

「東堂さんは?」

「聞きました!」

「乗務員さんは?」

「僕も聞きました!」

 恵は思わず立ち止まり、マイコたちを見た。

「何? どういうこと?」

 恵の問いには、マイコが答えた。

「お姉さん。確かにお姉さんの言う通り、お姉さんが入った後にここで殺人が行われた可能性も考えられます。でもお姉さん、さっきこう言いましたよね? 『私がトイレを使ったときには、男の死体なんてなかった』って」

「…ええ」

「どうして死体が男だって知ってるんですか? このトイレは男女兼用なのに」

「...あ...」

「ミクちゃん、この人に死体は男だって言った?」

「ううん。私は、死体の性別までは言ってない」

「だそうです」

 マイコはにっこりと笑って言った。

 そのマイコの言葉に、恵ははっとした。そして思った。まただ。また感情に身を任せて、取り返しのつかないことをしてしまった。何度後悔しても治らない、自分の悪い癖だ。この癖によって、自分はまた身を滅ぼすことになるのだと、恵は自分自身に呆れた。

 恵は諦めた表情を見せ、少し笑った後、マイコに向かって言った。

「元はと言えばあの男が悪いのよ。あの男が奥さんとは別れてくれるって言うからーー」

「あ、そういうのいいですから。私、犯人の動機を聞いたりするの嫌いなんです」

「えー」

 マイコを除いたその場にいた全員が、心の中でそう言った。


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