山崎のいない日3
恵は焦っていた。
田辺を殺した後は、できるだけ離れた車両で普通の乗客になりすまし、次の新横浜駅でさっさと降りてしまうつもりだった。
しかし、今このトイレのドアの向こうには、見知らぬ女が用を足す為にずっと待っている。今外に出てしまえば、田辺の死体はこの女に即座に見つかり、自分は現行犯で逮捕されるだろう。
この状況を打開するには、もはや新横浜駅に着くまでにこの女が諦めて違うトイレに向かってくれることに賭けるしかなかった。
恵が乗車した品川駅から次の新横浜駅までは、ものの十分もあれば到着してしまう。恵は苛立ちながらも、この女がどこかに消えてくれるのを心から願った。
すると、トイレの外からもう一人の女の声が聞こえて来た。
「マイコさん。どうしたんですか?こんなところで」
「あら、カオルちゃん。それがね、ここのトイレがいつまで経っても開かないのよ。もう十五分は経ってるのに」
「それでいつまで経っても帰って来なかったんだ。それなら別の車両のトイレに行けばいいじゃないですか。中の人はお腹でも壊してるんじゃないんですか」
「やっぱりそうなのかな。仕方ない。もう一個向こうのトイレに行くわ」
これを聞いた瞬間、恵は心の中でガッツポーズをした。これでこの女はこの場から離れてくれる。恵は、さっき現れた二人目の女に感謝の気持ちを伝えたいほどだった。
そうこうしているうちに、新幹線は新横浜駅に到着した。乗り口のドアが開いている時間は一分あるかないか程度だ。それまでにこの二人の女がこの場を離れ、そして自分は新幹線から脱出しなければならない。恵の手には大粒の汗が握られていた。
「ちょ、ちょっとマイコさん! 何で私まで!?」
「いいじゃない。連れションよ、連れション」
「いや、私は別に今はトイレ行く気はーー」
その声と共に、二人の女の声は遠のいていった。
「今だ!」
恵はトイレのドアの取っ手に手をかけ、外に出ようとした。しかしその瞬間、もう一方の手に何か引っかかりを感じた。後ろを振り返ると、死んでいる田辺の手に、恵のバッグの持ち手が握られていた。いつの間に?田辺を殺し、ここから脱出することで頭がいっぱいで、全く気付かなかった。ただ、今はそんなことを考えている暇はない。既に駅に着いてから三十秒近く経っている。ドアが閉まるまで、あと三十秒も無い。
恵は急いで田辺の手から持ち手を放そうとした。だが、田辺の手は思った以上にしっかりと握られており、手を外すまでにかなり骨が折れた。もどかしくなった恵は、思わずバッグの持ち手を力いっぱいに引っ張っていた。すると、田辺の手からバッグは離れたものの、その勢いでバッグの中に入っていた化粧品や小物などが床に散らばってしまった。恵は自分に苛立った。これを全部拾っていてはこの駅で降りるのはかなり困難になる。かといって、このまま降りてしまっては、田辺を殺した犯人が自分であるという証拠品を大量に残してしまうことになる。恵は一瞬逡巡した後、素早く散らばった化粧品や小物を全て拾い上げ、この駅で降りるという賭けに出ることにした。
恵は十秒もしないうちに散らばっていたバッグの中身を拾い上げ、拾い残しが無いことも確認し、急いでトイレを出た。そして、新幹線の乗り口が見えたその瞬間だった。
無情にも、恵の眼前でその扉は閉まってしまった。
恵は今にも膝から崩れ落ちそうになった。だが、まだ完全に希望が消えた訳ではないことに気が付いた。この新幹線は、この後名古屋まで止まらない。逆に言えば、名古屋まで田辺とは関係のない人間のふりを押し通せれば、後は何事もなかったかのように新幹線から降り、東京に引き返せばいい。幸い、この新幹線は乗客が少ない。自分がトイレから出て来るところを見ていた人間もいない。
恵はまず、現場からできるだけ離れることにした。新横浜まで座席に座るつもりのなかった恵は、自由席のチケットを購入していた。もし指定席に座っていると、後から来た乗客に顔を覚えられる恐れがある。自由席は一~三号車だ。恵は自分が今いる九号車から、先頭に向かってすたすたと歩き出した。どの車両も空席が多い。
途中、白いワンピースを来た女の子と、黒のレザージャケットを来た女とすれ違った。二人とも目を見張るほどの美人だったが、今の恵には彼女たちを気に留める余裕は、数秒もなかった。
そして、九号車から最も離れた一号車に辿り着き、その中から適当に窓際の席を選んで座った。ここも乗客が少なかったので、容易に座ることができた。
後はここでただの"乗客の一人"になればいい。名古屋まで約一時間半。可能だ。
恵は、窓の外に流れる景色を眺めながら、心が落ち着くのを待った。しかし、いつまで経っても恵の胸は高鳴るばかりだった。