山崎のいない日1
桜田恵が目を覚ますと、田辺新一は既に半分着替えを済ませていた。
「早いのね」
恵はベッドの中から言った。
「起きたのか。言っただろ。今日は福岡に出張だって」
「忙しいのね。ごめんね、時間つくってもらっちゃって」
「いいよ別に」
田辺は着替えながら答える。
恵は枕元に置いてあった田辺の財布を何気なく開いてみた。中には十数万円の現金と共に、博多行きの新幹線のチケットが入っていた。
「いつこっちに帰って来るの?」
「明後日の予定だけど、もしかしたら一日延びるかも」
「そう。帰りは向こう?」
「そうなるかな」
「…次はいつ会える?」
「どうかな。まだ分からない。また連絡する」
「新しくできたカフェに一緒に行くって約束は?」
「カフェ?いつそんな約束を?」
「忘れたの?先週話したじゃない」
「…覚えてないな。というか、お前と二人でカフェなんかに行ける訳ないだろ。知り合いにでも見られたらどうするんだ」
「…最低」
「普通の関係じゃないんだ。お前もそれぐらい承知してると思ってたがな。というか、いい歳してカフェって。女子大生じゃないんだから」
「悪かったわね」
「ここは十時チェックアウトだから、お前もさっさと着替えろよ」
「…ねえ」
「何だよ?」
「…奥さんとは、いつ別れてくれるの?」
「…」
田辺はうんざりするような表情で大きくため息をついた。
「またその話か」
「だってもう四年もこんな関係続けてるのよ?あなたが奥さんとは別れて私と結婚してくれるって言うから、不倫っていう関係も甘んじて受け入れたの。言っとくけど、私は二番目で満足するような安い女じゃないし、ましてやあなたのセックスフレンドでもないのよ?」
「分かってるよ」
「分かってない! 私もう三十二なのよ? 適齢期ももう過ぎてるし、私の人生に責任取ってくれるの!?」
恵は自分を抑えられなかった。田辺に対してまくし立てながら、恵は思った。自分の悪い癖だ。ついつい感情的になってしまう。いけないと分かっているのに止められない。後で後悔すると分かっているのに、自分の口から出てくる言葉を押し込めることができない。感情のダムは決壊し、やがて取り返しのつかないことになる。今までそれで何度も痛い目に遭ってきたにもかかわらずだ。そして今回も、また同じことを繰り返そうとしている。
着替えを終えた田辺が、恵を真っ直ぐに見て言った。
「いい機会だからはっきり言っとこう。俺は、お前と結婚する気はない」
「…え?」
恵は絶句した。
「騙してたことは謝るよ。俺も魔が差したんだ。正直なところ、俺にとってお前は、仕事と家庭のストレスが溜まったときの捌け口という存在でしかない」
あまりに突然の宣告に言葉を失っている恵に、田辺は畳み掛けた。
「お前と出会った頃は俺も仕事が忙しい上に子供も小さかったから、どうしても安らげる場所が欲しかったんだ。でも、最近は仕事も落ち着いて来たし、子供もある程度大きくなって手間がかからなくなってきた。お前に頼る必要も無くなったんだよ」
「そんなーー」
「語弊を恐れずに言うなら、俺にとって今のお前との関係は、惰性だよ」
「待って、待ってよーー」
「待たない。この後出張だって言っただろ。俺と別れたいならそれでも俺は構わない。俺が出張から帰って来るまでにお前から連絡が無ければ、そういうことだと思って俺からはもう連絡しないよ。じゃあな」
「ねえ! 嫌! ちょっと待って!」
恵の言葉も虚しく、田辺はそそくさと部屋を出て行った。
恵はベッドの上に座り込み、さっきの田辺の言葉を頭の中で反芻していた。
別れる? 私と? 四年前、仕事や家庭に疲れたからと私に近付いてきたのはあの男の方なのに!それを、もう用済みだから別れる?ふざけるな! 人を馬鹿にするにも程がある!
恵は、「別れたくない」と田辺に電話して懇願するほど弱い女ではなかった。恵が部屋の窓から下を見ると、ちょうど田辺がホテルを出たのが見えた。恵は急いで急いで着替えを済ませ、エレベーターで一階に降り、受付でチェックアウトを済ませた。顔を覚えられたくなかったので、帽子を被り、サングラスをかけた。ホテルを出ると、すぐ目の前のタクシー乗り場で先頭に停まっているタクシーに乗った。
「品川駅まで」
タクシーに乗るや否や、恵は運転手に行き先を告げた。道中、何度か運転手が恵に話しかけてきたが、恵は全て無視していた。この後起こるであろうことを、頭の中で何度もイメージしていた。
目的地には二十分ほどで着いた。恵は料金を支払い、タクシーを降りると、駅の中へと入っていった。田辺が乗る新幹線は、今朝見たチケットで把握していた。恵は窓口で同じ便のチケットを購入した。幸い混む時間帯ではなく、時間ギリギリでも容易に購入できた。時計を見ると、出発までまだ少し時間があった。恵は駅の近くにある百貨店に入り、家具売り場で包丁を買った。それだけ買うと店員に不審に思われそうだったので、一緒に小さなコップと紙皿も買っておいた。
買ったものを鞄に詰めると、恵は再び駅に戻ってきた。目的の電車が発車する十分前だった。恵は小走りで新幹線乗り場へと向かった。先に購入していたチケットを改札に通し、ホームへと向かう。
田辺の席はグリーン車である九号車の10Aだ。今朝見たチケットに書いていたのを覚えていた。恵は田辺に見つかることを危惧し、少し離れた十三号車に乗り込んだ。恵が乗り込むと、新幹線はすぐに発車した。恵は先頭車両に向かって歩き出した。平日昼前の新幹線は、どの車両もガラガラだった。やがて十号車と九号車の間までやって来た。ちょうどここにトイレがある。恵は九号車の中を覗き込んだ。グリーン車ということもあって、他の車両よりも更に人は少なかった。そして10Aの席を見ると、男性の後頭部が見えていた。よし、と思った。
恵は鞄からスマホを取り出し、田辺に「後ろ見て」と一言LINEを送った。すると、男性の後頭部が少し動き、そしてすぐにこちらを振り向いた。田辺は恵を確認すると、驚いた表情を見せ、座席を立って恵の方に駆け寄って来た。
客席部分を出て、九号車の後方に恵を押し出した田辺は、周りに声が聞こえないような小さな声ながらも、明らかに怒りを含んだ声で言った。
「こんなとこまで何しに来たんだ!非常識にも程がある!」
しかし恵は聞く耳を持たず、すぐ横のトイレに田辺を押し込み、自分も追うように中に入った。新幹線のトイレは、人間二人が入るには少々狭かった。
「どういうつもりだ!何でここにいる!?」
「静かにして。聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?こんなとこにまで付いて来て聞くことなのか?」
「そう。とっても大事なこと。正直に答えて」
「何だよ」
「…本当に私と別れるつもり?」
田辺はまたうんざりした顔を見せた。この顔が恵は大嫌いだった。何度駆除してもしつこく家の中に現れる害虫を見るような目でこっちを見るのだった。
「わざわざそんなこと聞くためにここまで付いて来たのか?」
「…」
「信じられない。もう少し利口な女だと思っていたよ」
「…どっちなの?別れるの?」
「今確信したよ。お前みたいな馬鹿な女とこれ以上付き合う気はない。次の新横浜で降りて帰れ」
「…そう」
「ほら、話は終わっただろ。そこをどけよ」
恵は、田辺の言葉を無視し、ゆっくりと鞄の中に手を入れた。
「おい。何してるんだ。早くどけーー」
田辺は恵をどかそうと恵の肩に触れた。その瞬間、田辺の空いた心臓の辺りを目がけて、恵は鞄から素早く包丁を取り出し、力一杯突き刺した。恵は田辺が逃げられないよう、田辺に体を預け、トイレの奥に押し込んだ。田辺は痛みと驚きからか、少しも声を上げることなく、やがて動かなくなった。便座に座り込むような形になった田辺を見下ろし、しばらく呆然としていた。
やがて次の新横浜駅に着く。恵は田辺の体から包丁を抜き、白いタオルにくるんで鞄に入れた。
田辺を残し、恵はトイレを出ようとしたが、そのとき恵の手が止まった。このまま出る訳にはいかない。恵のこめかみを、一筋の汗が流れていた。