守りたい女10
本番を三十分前に控えた都子は、いつものように楽屋で一人、鏡に向かって精神を集中させていた。この時間だけは、高木も他のスタッフも、誰も楽屋に入れないようにしていた。
目を閉じ、小声でセリフや歌を繰り返し呟く。このルーティンが、これから本番に臨む都子の、いわば儀式のようなものだった。
本番二十分前になった頃、楽屋をノックする音がした。精神統一に集中していた都子は一度は無視した。だが、ノックの音は繰り返された。都子は、仕方なくノックに応じることにした。
「はい」
「どうも、山崎です。少しお話が」
ドアの向こうからは、聞き覚えのある男の声が聞こえた。
「すみません。後にしてもらえますか?これから本番までなんです」
ドアの向こうにいる男に、都子は答えた。だが、その男は引かなかった。
「すぐに終わりますから。できれば今お話ししたいんです。五分で終わりますから」
「・・・三分よ」
「恐縮です」
そう言うと、男はドアを開け、申し訳なさそうに中に入ってきた。
「いやぁ本番前に申し訳ありません」
「そう思うなら早く済ませてくれる?」
「あ、そうですね。では早速ーー」
山崎は、懐を探りながら話し始めた。
「椿さん。あなた嘘をつきましたね?」
「嘘?」
「はい。やはりあなた、あの五十嵐って記者に会ったことがありましたね?ほらこれ」
と言って、山崎は都子の前に一冊の雑誌を開いた状態で出した。都子はそのページに書かれた記事を、ほとんど姿勢を変えないまま眺めた。
「これはあなたが三年ほど前に受けた雑誌の取材の記事です。これを書いたのが、五十嵐さんなんです。ほらここ、五十嵐さんの名前が」
山崎は、自分がエリナからされた説明と同じものを都子にも行った。
「どうして会ったことはないなんて嘘を?」
「・・・山崎さん」
「はい?」
「あなた、私が年間どれだけの取材を受けるか知ってる?」
「・・・」
「雑誌だけじゃない。テレビや新聞、今はネットニュースなんかもある。それだけの中から、三年も前に受けた取材の記者のことなんて覚えてると本気で思ったの?」
「・・・」
「それでよくもまあ自信満々に『あなたは五十嵐さんと知り合いですね?』なんて言えたわね。何度か取材を受けただけで知り合いにされちゃ、私の知り合いの数は千や万じゃ利かなくなりますよ」
「・・・何度か?」
「え?」
「今『何度か』とおっしゃいましたね。どうして五十嵐さんの取材を受けたのが一回じゃないと分かったんですか?」
「は?」
「確かにあなたが五十嵐さんの取材を受けたのは一回ではありません。全部で三回受けています。しかし、どうしてそのことは覚えているんですか?五十嵐さんのことは覚えていないのに、取材を受けたのが複数回だったことは覚えているんですか?私はあなたに、初めての取材のときの雑誌しか見せていませんよ?」
「・・・あなた、いつもそういうやり方なの?」
「そういうとは?」
「人の揚げ足ばっかり取って・・・。それで一体何が証明できると言うの?」
「・・・」
「不快だわ。出て行ってもらえる?」
「すみません。まだお聞きしたいことが」
「三分経ったわ。約束の時間よ」
「お願いします。椿さん、あなたいつも使ってる鞄を無くしたそうですね。マネージャーの高木さんから聞きました。それはどうされたんですか?」
「出て行って」
「事件が起こってすぐ、我々が椿さんのご自宅に電話をしたら、あなたは出られませんでしたね。あれは何故ですか?」
「出て行きなさいと言ってるの!」
「・・・」
二人だけの部屋を沈黙が包んだ。先に口を開いたのは都子だった。
「・・・ごめんなさい、大きな声を出して」
「・・・」
「もうすぐ本番なの。それが終わればいくらでも話は聞いてあげるから、今は遠慮してもらえるかしら」
「・・・分かりました。どうもすみませんでした。今日の舞台、観客席で拝見させていただきます」
山崎は都子に深々と頭を下げ、静かに楽屋を出て行った。
一人残された都子は、じんわりとかいた汗を拭い、少し荒れた息を整えた。
とにかく今は本番にだけ集中しよう。山崎のことはその後考える。都子は再び鏡の中に映る自分の顔を見つめ、そして瞑想をした。