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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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守りたい女3

 都子は、五十嵐の挨拶には答えなかった。

 五十嵐は体格のいい四十代前半の男で、短髪で口元には無精髭を生やしていた。何年も着回していることがすぐに分かるボロボロのジーンズに無地のシャツという装いで、服装に気を遣っていないことは明らかだった。

「今日の舞台、拝見しましたよ。相変わらず見事でした」

 五十嵐が本心で言っていないことはすぐ分かった。むしろ、五十嵐がそう分かるように言っているようだった。

「何しに来たの?」

 都子は、極めて無感情に、普段なら聞かれないような低い声で言った。

「そんなツンケンしなくていいでしょう?知らない仲じゃないんだから」

「そもそもどうやってここまで入ったの?関係者以外入れないはずだけど」

「関係者ですよ。ほら」

 五十嵐は、胸に下げた長方形の紙を都子に見せた。その紙には「取材許可証」と書かれていた。

「一応私も、フリーとは言え記者ですからね。これぐらい何とでもできますよ」

「・・・」

 都子は不愉快を表情に表した。が、五十嵐はそんなことは気にもしていないようだった。

「しかし、お疲れのところ伺って申し訳ありませんね」

「そう思うならさっさと帰って。それと、さっきからその不自然な敬語も不快だから、普通に喋ってくれる?」

 五十嵐はニヤリと笑い、今度は口調を変えて話し始めた。

「分かったよ。要件さえ伝えたらすぐに帰るから。それにしてもーー」

 五十嵐は、鏡の前に置かれた都子のバッグに付いているストラップに触れた。

「まだこんな趣味の悪いもの付けてるのか。大女優なんだからもっと良いものを付ければいいものを」

「触らないで!」

 都子はストラップから五十嵐の手を離した。それは、都子が昔海外旅行に行ったときに、現地で買ったものだった。日本では見たことのない、熊のようなキャラクターで、あまり可愛らしいビジュアルではなかったが、都子は何故か気に入っていた。ストラップの裏には、このときの記念にと、「ミヤコ」という名前と共に、それを買った日付が記されていた。

「そんなに怒らなくても。ちょっと触っただけだろ?」

「私の物に触れないで」

「おお、怖い怖い」

 五十嵐は全く反省していない様子で、都子に笑って見せた。都子はどんどん苛立ち始めた。

「で?要件は何?」

「ああ、そうだった。今日はそれで来たんだった。まあ、あんたも察しはついてると思うがーー」

 言いながら、五十嵐はポケットから煙草を一本取り出し火をつけた。

 都子は呆れたようにため息をついた。

「ここは禁煙なんだけど」

「硬いこと言うなよ」

「・・・で?いくら欲しいの?」

「話が早くて助かるよ」

 五十嵐は煙草の灰を、テーブルの上に置かれた石でできた灰皿に落とした。

「あなたが私に会いに来る理由なんてそれしかないでしょう?それで、いくら?」

「そうだな。とりあえず五十」

「ちょっと待って。この間三十万払ったばっかりよ?それはどうしたの?」

「ああ、あれはもう使っちまったよ」

「信じられない。どうせお金とギャンブルでしょう?」

「まあまあ。どうせあんたにとっちゃ屁でもない金額なんだから」

「勘違いしないで。バブルの頃ならともかく、今はそんなに景気がいい訳じゃない。私だってこう何度も来られちゃ、そのうち飢え死にするわ」

「またまたご冗談を。五十万なんて、今日一日の公演で稼いだ額の半分もないだろ?」

「そういう問題じゃないわ」

「あら、否定しないんだ。やっぱり一回で何百万も貰ってるんだ。へえ、かまもかけてみるもんだ」

 都子は、今にも激昂しそうなのを必死に堪えていた。

「とにかく、これからはもっと計画的に使ってもらえる?」

「はいはい。分かりましたよ。しかし、俺が言うのもなんだけど、あんたも大変だな。俺みたいなのに捕まって。まあ、元はと言えばあんたの身から出た錆なんだけどな」

 都子は何も言い返せなかった。これに関しては五十嵐の言う通りだったからだ。

 都子と五十嵐が出会ったのは、都子がミュージカル女優として大成し、超多忙な過密スケジュールを必死にこなしている時期だった。

 当時、ある有名雑誌社で記者をしていた五十嵐は、都子のインタビュー記事を載せる為、都子に取材を申し込んだ。その取材は、都子にとって実に居心地のいいものだった。五十嵐は人柄も良く、ユーモラスな会話で都子を笑わせ、そして彼女を褒めちぎった。当時、あまりの忙しさに肉体的にも精神的にも参っていて、生活のどこかに癒しを求めていた都子は、自分を気持ち良くさせてくれる五十嵐に、次第に惹かれていった。

 その後、五十嵐は二度都子に取材をした。そして三回目の取材の後、都子と五十嵐は肉体関係を持った。それが都子にとって人生の最大の失敗だった。

 五十嵐は、ラブホテルのベッドで全裸になって眠っている都子の写真を撮影し、それを盾に都子に金を要求して来たのだった。五十嵐は、それまでの優しかった仮面を脱ぎ、その正体を都子に晒け出したのだった。しかし、気付いたときには時すでに遅く、都子は泣く泣く、五十嵐に大金を払い続けていたのだった。ちなみに、これは後から分かったことだが、ラブホテルに行く前、五十嵐は都子の飲み物に少量の睡眠薬を入れていた。

「じゃ、金はいつもの口座に頼むよ。できれば今週中に」

 そう言って、五十嵐は楽屋の出口へと向かった。その背中に、都子は言葉を投げかけた。

「これで最後にしてね」

 その言葉を聞いた瞬間、五十嵐の足が止まった。そしてゆっくりと振り向き、都子に近付いて来た。都子は後ずさりしたが、すぐに壁にぶつかってしまい、ただ無表情の五十嵐が近付いて来るのを待つしかなかった。

 都子を見下ろせる位置まで近付いた五十嵐は、囁くような声で言った。

「あんた、まだ自分の立場が分かってないみたいだな」

 そのときの五十嵐の声は、悪魔のように恐ろしかった。

「あんた、自分一人が犠牲になればそれでいいって思ってるだろ?本当に俺が何も知らないと思ってんのか?」

 その言葉に、都子は震えを抑えられなかった。五十嵐は、ニヤニヤと笑いながら話を続けた。

「巽君、だったな。もうすぐ一歳になる。今はあんたの実家で、あんたの母親が一人で育ててる。そして、産まれた時期から遡れば、ちょうど俺とあんたが関係を持った頃と重なる。はっきり言っちまえよ。あれは俺の子だろう?」

 都子は口を噤んだ。五十嵐にとっては、それが何よりの返答だった。

「やっぱりそうか。必死に調べ回った甲斐があったよ。まあ、つまりそういうことだ。あんたは俺には逆らえない。全裸のベッド写真と隠し子発覚じゃ、ゴシップのデカさは比にならないもんなぁ。可哀想に。さっさと堕ろしてればこんなことにはならなかったのに」

 五十嵐は再び都子に顔を近付けた。

「あんたは優しいなぁ。子供には罪は無いもんなぁ。罪の無い子供の命を奪うなんてできなかったんだよなぁ。でも、その優しさが、今あんたの首絞めてる。皮肉なもんだよなぁ」

「あなた、仮にも自分の子供なのよ?それを金のダシにするの?」

「生憎、俺は子供が大嫌いなんだ。見てると胸糞悪くなってくる。たとえ自分の子でもな」

「・・・あんたは、人間じゃない」

「かもな」

 五十嵐は少し笑って言った。

「じゃあ、そういう訳だから」

 そう言い残して、五十嵐は再び都子に背を向け、楽屋の出口へと向かった。

 その背中を見ながら、都子は"未来"のことを考えた。

 この男は、金を自分から絞れるだけ絞るつもりだろう。それで自分の生活が困窮することは、一向に構わないと思っていた。何より都子が恐れていたのは、息子の巽のことだった。

 愛の無い男との子供とはいえ、都子は巽を愛していた。父親が誰であろうと関係ない。都子はこれまで、巽にだけは危害を加えまいと、誰にも子供の存在は明かさずひた隠しにしてきた。直接会うことはなかなかできないが、遠くから巽がすくすくと育つところを想像しては、仕事に精を出した。

 しかし、ここに今一人の悪魔が現れた。この男は独自の情報網を駆使して、自分に息子がいることを突き止めた。そして、人の心を持たないこの男は、あろうことか自分の息子を利用して、産みの親である自分から金を強請り取ろうとしている。

 それだけならまだ構わないが、そのうちこの男は、巽の存在を世間に明かしてしまうかもしれない。巽に接触しようとするかもしれない。あるいは、何十年後、年老いた自分に見切りをつけた後、今度は巽から金を取ろうとするかもしれない。

 巽の未来の為にも、この男は生かしておく訳にはいかない。都子は一瞬でそう判断した。

 次の瞬間、都子はテーブルの上の灰皿を手に取り、五十嵐の後頭部へ力一杯振り下ろした。五十嵐が吸っていた吸い殻と灰が辺りに飛び散った。

 当たりどころが悪かったのか(都子にとっては良かったのか)、五十嵐は「うがっ」と唸り声をあげた後、その場にうつ伏せに倒れ、そのまま動かなくなった。五十嵐の頭の殴られた部分からは、真っ赤な血がどくどくと溢れ出していた。

 都子は、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていた。



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