守りたい女2
芝内海岸から程近い丘の上に、芝内国際会館はある。
今日ここでは、椿都子主演のミュージカル「運命のひと」の千秋楽公演が行われていた。この作品は有名脚本家の新作オリジナル脚本で、その主演を椿都子が務めるということで、公演が始まる前からかなり話題になっていた。当然チケットは即完売となり、二週間に渡って行われた全ての公演で満員御礼となった。
特に、戦時中、恋と仕事に生きたある一人の女を演じた主演の都子への賞賛は止まなかった。都子の圧倒的な歌と演技に、観客は魅了され、感動し、会場中からすすり泣きが聞こえるほどだった。
約二時間の公演が終わり、スタンディングオベーションの中、カーテンコールが行われた。鳴り止まない拍手の中で、都子をはじめとした出演者、演出家が舞台上に登場し、何度も客席に手を振り、お辞儀を繰り返した。そして、何分も続いたカーテンコールがやっと終わると、出演者たちは舞台の裏へと戻って行った。
関係者専用通路に出てきた都子の周りでは、マネージャーの高木を始め専属の衣装やメイクなどの女性スタッフ、制作側のプロデューサーなど、たくさんの人間がひっきりなしに都子に称賛の声をあげていた。都子は笑顔でそれに答えながら自分の楽屋へと歩いて行った。
楽屋の前に着くと、自分に向かって「お疲れ様です」と頭を下げている制作側の人間たちに挨拶をし、都子は高木、そして専属のスタッフたちと楽屋に入って行った。
楽屋に入ると、都子は後ろ髪を縛っていたゴムを解き、何時間も拘束されていた自分の髪を解放してやった。そして舞台衣装のまま鏡の前の椅子に座り、鏡に映る自分自身やスタッフたちを見たまま「お疲れ様」とスタッフたちを労う。これが公演が終わった後の都子のルーティンだった。
高木を含め、三人のスタッフたちもまた都子に「お疲れ様です」という言葉と共に、その日の公演の感想を正直に言う。そうしてくれと都子からいつも言われているからだ。駄目だと思ったところがあれば言ってくれと、演出に関しては素人のスタッフにまで助言を求める都子の衰えぬ向上心に、周りの人間はいつも驚かされていた。メイクさんにはメイクさんなりの、衣装さんには衣装なりの意見が必ずあるはずだからというのが都子の持論だった。
それに応えるように、都子の周りのスタッフたちはいつも忌憚ない意見を都子にぶつけた。特にマネージャーである高木は、都子より歳が五つ下だが、一切遠慮というものがなかった。
「千秋楽だからって気合い入り過ぎてませんでした?」
「入ってたけど、空回りしちゃってた?」
「いえ、そういう訳じゃないんです。声もいつも以上に伸びてて良かったと思います。だけどーー」
「だけど?」
高木は都子の隣に立ち、鏡の中の都子に向かって言った。
「セリフ、二つ飛ばしましたよね?」
都子はいたずらっぽく笑った。
「上手く誤魔化せたと思ったのに」
「他の人は大丈夫でも、私の目は誤魔化せません」
「あんな間違いの内にも入らない間違いに気付くのは高木ちゃんくらいよ。ていうか、マネージャーなんだから台本全部覚える必要なんて無いでしょ」
「仕事ですから」
都子は呆れたように笑った。高木は時折、そこまでやらなくてもと思ってしまうほど仕事熱心で隙が無く、仕事において都子が最も信頼できる人間だった。高木無しでは、ここまでの女優にはなれていなかっただろうとさえ思っていた。
メイクスタッフが立ち上がり、そろそろメイクを落としましょうかという雰囲気を出したところで、楽屋のドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
都子に代わって高木が返事をすると、会場スタッフらしき男性の声が聞こえた。
「椿さんに、五十嵐さんという記者の方が取材をしたいといらっしゃってます。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「五十嵐」という名前を聞いた瞬間、都子の動きが一瞬止まった。それには気付かず、高木はドアの向こうのスタッフに言った。
「取材?聞いてませんけど。何かの間違いじゃないですか?」
「え?いや、でもーー」
そのとき、固まっていた都子が言った。
「いいわよ、別に。取材ぐらい」
「え?でもーー」
「きっと連絡が行き違いになってただけよ。よくあることじゃない。それに、今は気分が良いの。取材の一つや二つ、なんてことないわ」
そう言って、都子は高木の後ろにいる衣装担当、メイク担当の女性スタッフに声を掛けた。
「ごめんなさい。ちょっと席外してもらえる?その間、ご飯食べて来ていいから。領収書貰って来てね。後で払うわ」
「ちょっと椿さん」
「高木ちゃんもごめん。ちょっと出ててもらえる?あ、ついでにコンビニで何か買って来て。私、お腹空いちゃった。おにぎりがいいな。あ、でも梅はやめてね」
「椿さん!」
高木が少し大きな声を出すと、楽屋内が静寂に包まれた。
「一体どうしたんですか?様子が変ですよ?」
「・・・何でもないわよ。大丈夫だから。信用して?」
「・・・分かりました」
高木は明らかに納得いっていなかったが、都子の圧力に負け、都子の意思を尊重することにした。高木は衣装担当とメイク担当のスタッフを促し、楽屋を出て行った。
都子は、三人が出て行くときに「ごめんね」と一言声を掛けた。
それから少しして、都子一人になった楽屋に、再びノックの音がした。
「どうぞ」
都子が低い声で言うと、「ガチャ」という音と共に、一人の男が入って来た。
「お久しぶりです」