女神の選択15
野崎大輔の遺体が発見された次の日の夕方。芦田は山崎に呼び出され、野崎のアトリエへやって来ていた。
アトリエのドアを開けると、キーキーと不快な音が鳴った。金はあるのだから、さっさと直せばいいものを。そんなことを考えていると、薄暗い部屋の中に、黒いスーツの男が向こうを向いて立っていた。
「おい。来てやったぞ」
芦田の呼び掛けに答えるように、男が振り返った。
「ご足労いただきありがとうございます」
男は笑顔で芦田に言った。
「山崎君。自分で言うのもなんだが、私はこれでも世界的な画家でね。それなりに忙しいんだよ」
「申し訳ありません。どうしても直接お話ししたいことがありまして」
「さっさと済ませてくれよ。作業を中断して来てるんだ」
「承知しました。まず、あれからいろいろと検討したんですが、やはり野崎先生を殺した犯人は、金銭が目的の強盗の仕業ではないと結論づけました」
「絵の値段が安かったからか?」
「それもありますが、そもそも盗んだ絵の数が少なすぎるんです。だって、たったの四点しか盗んでなかったんですよ。犯人が一人だったとしても、大きな袋でも持って来ればもっとたくさん運べたはずですし、この山の中ですから、犯人はおそらく車でここまで来たはずです。それなら、時間こそかかりますが、ここにある絵を全て盗み出すことだって可能だったはずです。なのに犯人はたった四つしか盗んで行かなかった」
「じゃあ、犯人は一体何が目的だったんだ?」
「それはまだ。ただ、間違いなく言えるのは、犯人の目的は金銭ではなく別の物だった。そこに野崎先生が帰って来てしまい、仕方なく殺害。そこで犯人は、強盗の仕業だとカモフラージュする為に絵を盗んだ。絵を盗むことは当初の計画に入っていなかったために、たった四つしか盗むことができなかった。これが私の立てた推論です」
「なるほど。なかなか面白いな。だが、君も今言ったように、それはあくまで推論でしかない。それとも、何か証拠があるのか?」
「いえ、それがまだ。ただですねーー」
「何だ?」
「犯人の目星はついてるんです」
「…誰だ?」
「野崎先生の奥様の由奈さんか、マネージャーの能登さんです」
「…ほう。それはなぜ?」
「芦田先生のお宅でのパーティにあの二人だけが来ていなかったからです。主役の奥様とマネージャーという立場の方が、少しも顔を出さないというのはどうも…」
「なるほどな」
「で、先生をお呼びしたのはですね、あのお二方、もしくはどちらかお一人でもいいんですが、最近何か気になる言動などありませんでしたか?何でもいいんですが」
「急にそんなこと言われてもなぁ…」
「ちなみに、野崎先生のお知り合いの方たちに伺ったところ、ちょっと気になることを聞いたんです」
「気になること?」
「はい。まあ、あくまで噂レベルなんですが、野崎先生の奥様と能登さんは、不倫関係にあったんじゃないかという話があったんです。まだ事実確認はしてないんですが、先生は何かご存知ですか?」
「ああ。そのことなら私も知ってるよ」
「本当ですか?どこでそのことを?」
「え?あ、ああ。家内から聞いたんだよ。二人がそういう関係にあると」
「奥様に、ですか?」
「あ、ああ」
「そうですか…」
「…」
「先生。それは嘘ですね?」
「…嘘?何を言ってるんだ。嘘なんかじゃーー」
「いいえ、嘘です。先生は不倫のことを、奥様から聞いたんじゃありません」
「何を根拠にそんなことを言うんだ!」
「だって、奥様は不倫のことをご存知ないんです。今朝聞いてみたので間違いありません。あ、もちろん直接的な聞き方ではなく、やんわりと、知っていればピンとくるような聞き方をしましたが」
「…何を言ってる?」
「もっと言えば、野崎先生のお知り合いにも同じようにお聞きしたんですが、知っている方は一人もいませんでした。さっきのは鎌をかける為の嘘です。申し訳ありません」
「おい。分かるように説明しろ。一体どういうことだ?」
「はい。順番に説明します。まず、野崎先生の奥様の由奈さんと、マネージャーの能登さんが不倫関係にあったのは事実です。今朝、お二人に確認しました。ちなみに、能登さんはすぐに話してくれましたが、奥様の方は頑なに否定されていました。野崎先生を殺した犯人が分かるかもしれないと話すと、渋々話してくれました。ただ、そのことをお二人は上手く隠されていたようで、その事実を知っている人間は誰一人いなかったんです。芦田先生。あなた一人を除いて」
「…」
「では、先生は一体いつ、どこで二人の関係を知ったのか。それは、二日前のパーティのときです。あの日、由奈さんと能登さんは、二人してパーティを欠席し、野崎先生のお宅で密会していました。これはお二人ともお認めになっていることです。芦田先生。あなたはそれをご覧になったんですね?野崎先生のアトリエへ行き、野崎先生を殺したときに見たんです。そしてそこで二人の関係を知った」
「違う!私は密会のことなど知らん!」
「ではどうやって二人の関係を知ったんですか!?」
「それは…忘れた。家内に聞いたというのは記憶違いだ。本当は、いつどこで知ったのか、全く覚えていない」
「忘れた?...そうですか」
芦田は高鳴る鼓動を抑えようと努めた。大丈夫だ。まだ逃げ切れる。
「君は私を犯人だと思っているようだが、そもそも私にはアリバイがある。忘れたのか?」
「あの絵の件ですか」
「そうだ。私はあのとき、ずっと二階で絵を描いていたんだ」
「そのアリバイなら、既に崩れています」
「…なに?」
「あの絵は、やはり先生が事前に描かれていたものですね?」
「だからそれは不可能だと言っただろう。どうして私が川田さんの着て来る服を予言できたんだ?」
「簡単です。あの青いドレスは、先生が川田さんに贈ったものだからです」
「…」
「川田さんにも既に確認済みです。川田さんからすれば、友人の夫で、世界的な画家の先生からのプレゼントです。パーティに来て行かないというのは失礼になる可能性があります。しかし、それだけでは不十分だと考えた先生は、確実に川田さんにあの青いドレスを着て来てもらう為に、保険をかけましたね?」
「…」
「パーティを開く数日前、川田さんを自宅に招待して一緒に食事をされたそうですね?そのとき、自分がプレゼントした指輪をつけてないと言って奥様をきつくお叱りになったそうじゃないですか。川田さんの目の前で。お二人とも大変驚いていました。普段は滅多に怒鳴ったりしないあなたが、そんなつまらないことで怒るなんてと。しかし、それを見れば、川田さんが青いドレスを着て来ないはずはない。考えましたね。先生の計画は、そこから既に始まっていたんですね?」
「ふん。何を言っているのか分からんな。結局それだって証拠はないじゃないか」
「いいえ、あります」
「…?」
「これです」
山崎は、懐から小さなビニールの袋を取り出した。その中には、黒い布の破片が入っている。
「それは?」
「昨日、私の部下の東堂さんが見つけてくれたんです。これ、先生のお宅の横に生えている木の枝にくっついてました。ちょうど先生のアトリエの真下です。何だと思います?」
「さあな」
「これ、スーツの生地なんです」
「スーツ?」
「はい。それで今朝、奥様に許可を頂いて、先生のクローゼットを見せてもらいました」
「何を勝手な」
「申し訳ありません。それでですね、先生がパーティのときにお召しになっていたスーツのズボンを見てみると、裾のところが破れてたんです。そこにこの布の破片をあてがうと、ぴったり形が一致しました。先生、アトリエにいたはずの先生のスーツが、なぜ外の木で見つかるんですか?あのとき、先生はアトリエから出て何をされていたんですか?」
「…黙秘する」
「黙秘?」
「ああ。話したくない」
まだだ。まだ逃げ切れる。俺は諦めない。
山崎とかいう刑事は頭を抱えていた。これだけの証拠を突き付ければ、自分が自白すると踏んでいたのだろう。尻の青い若造が考えそうなことだ。老人の粘り強さを甘く見るなよ。俺はどんなにみっともなくても、どんなに惨めでも諦めてなどやらない。それがこれまでの人生で培った哲学だ。
「どうした?話は終わりか?」
「…」
「もう話すことがないようなら帰らせてもらうぞ」
芦田は後ろを振り向こうとした。
「お待ちください」
「何だ?」
「まだ先生を帰す訳にはいきません」
「君もしつこい男だ。まだ何かあるのか?」
「しつこいのは先生の方ですよ?ここまで証拠を揃えてまだお認めにならないんですか?」
「ああ、認めないね」
「ううん。困りましたね…」
「もう帰って構わないか?さっきも言ったが、私も忙しいんだ」
「忙しい?どうしてです?」
「さっきも言っただろう。今、作業を中断してここに来ているんだ」
「作業とは?」
「作業とはって、絵を描くことに決まってるだろう」
「絵、ですか?」
「他に無いだろう。馬鹿な質問であまり私をイライラさせるな。私はもう帰るぞ」
「ちょっと待ってください」
芦田は遂に痺れを切らした。
「何なんだ!言いたいことがあるならさっさと言え!無いなら無いで諦めろ!」
「なぜそんなに急いで絵を描く必要があるんです?」
「だから、馬鹿な質問をするなとさっきから言っているだろう!無駄な足掻きはやめたらどうだ!?私を逮捕するのは無理だ!諦めろ!」
芦田は興奮していた。対照的に、山崎は落ち着いた様子だった。
「教えてください。先生はなぜ急いで絵を描かれるんですか?」
芦田は仕方ないという顔をしてため息をついた。
「だから、今度の国際展覧会に出す絵を描かなければいけないからだ」
「なぜ先生がそれを描くんです?展示されるのは野崎先生の作品では?」
「何を言ってるんだ。野崎君が描いていた作品は強盗に盗まれてしまったじゃないか。野崎君の作品が出せないとなれば、順当に行けば私の絵が飾られることになる」
「すいません。よく聞き取れませんでした。もう一度よろしいですか?」
「だから、野崎君の作品は盗まれてーー」
そのとき、芦田の動きが固まった。
山崎はニヤリと笑った。
「…はい。確かに野崎先生の描きかけだった作品は、他の作品と一緒に盗まれていました。しかし先生、なぜそのことをご存知なんですか?私は先生には『絵が四点盗まれた』としか言っていないはずです。盗まれた絵のうち一つが描きかけだったことを知っていたのは、我々警察と、実際に現場に立ち会った由奈さんと能登さんだけです。もちろん、誰も先生にそのことは話してません。話さないように私が指示しましたから。いかがですか?さすがにもう言い逃れはできないと思うのですが」
芦田は奥歯を噛み締めた。そして大きなため息をついて言った。
「…上手く行くと思ったんだがな」
山崎は、ふぅと小さく息を吐き、少し安堵したような表情を見せた。この男も自分と同じように気を張っていたのだと、芦田は思った。
「まさか、こんなことになるとはな。とんだ誤算だった」
「確かに、野崎先生が帰って来てしまったのは運が悪かった」
「いや、そっちじゃない。私の最大の誤算は、君が現れたことだよ、山崎君」
山崎は照れるように少し笑った。
「恐縮です」
「…計画自体は悪くなかっただろう?何度も二階からロープで降りる練習をしたり、川田さんの前で家内を怒鳴りつけさえしたんだ」
「確かに。ただ、正直私は、かなり早い段階で先生を疑ってました」
芦田は少し驚いた。
「本当か?いつから?」
「一番最初に違和感を感じたのは、初めて先生のお宅に伺ったときです」
「馬鹿を言うな。あのときはまだ事件が起きてすらいないじゃないか」
「はい。ですから、疑惑というより単なる違和感でしかないのですが、我々がリビングで奥様からお茶菓子を頂いていたとき、奥様は先生にビールを持って来ようとされました。しかし、先生はそれを断ってお茶を頼まれましたね。奥様は不思議な顔をしてらっしゃいました。私も少し不思議でした。先生は大のお酒好きだと、何かの本で読んだことがあったので。更に、パーティのときも先生が飲んでいたのはお酒ではなくジンジャーエールでした。奥様に聞いてみましたが、先生が最近お酒を控えているというような話もない。それがずっと疑問だったんですが、理由は後で分かりました。あの夜、先生は車を運転しなければならなかったからなんですね」
「ああ、その通りだよ」
「あと、先生が盗んだ絵は、先生のお宅の使われていない部屋のどれかに隠していますね?」
芦田は思わず噴き出した。
「はは。君には敵わないな」
「ちなみに、パーティの日の夜、能登さんは野崎先生のお宅には上がらなかったそうです。由奈さんが頑なに彼を拒んだそうです。彼女は、過去の過ちを心から後悔し、野崎先生に尽くし続けるとお決めになっていたそうです」
「そうか…」
「…私からは以上です」
山崎は、ショーを終え、観客に挨拶する役者のように、胸に手を当てて少しだけ体を前に傾けた。
「…何を言っても許されることはないが、野崎君と由奈君には、本当に申し訳ないことをしたと思っている。彼には、今回だけ我慢してもらう、それだけのつもりだったんだ。彼なら、これから何度だってあの展覧会に絵を飾れる。しかし、私には今回が最初で最後のチャンスだったんだ。絵を描き始めてから四十年以上。あの展覧会に自分の作品を飾ることだけを目標にして今までやって来たんだ。私ももう歳だ。周りはまだまだ元気にやってるなんて思っちゃいるが、正直言って、私は体も精神も、もうボロボロだ。次の展覧会が開かれるのはまた五年後。それまで作品を生み出し続けるだけのバイタリティは、私にはもう無い。今回だけがチャンスだったんだ。やっと掴んだチャンスだった。それを、まだ年端もいかない若造に横から掠め取られた。その気持ちが、君に分かるか?」
「…」
「…すまない。少しみっともなかったな」
「いいえ」
二人の間に、少しの沈黙が生まれた。
山崎が、ゆっくりと口を開いた。
「ただ、残念ながら、どちらにしても展覧会に出されるのは野崎先生の作品になっていたと思います」
「…どういうことだ?」
山崎は答えず、アトリエの奥へと歩き出した。
「このアトリエはいつも薄暗いですから。なかなか気付きにくかったかもしれませんね。私も、ずっとただのカーテンだと思っていました」
芦田は何も言わずに、山崎の話を聞いていた。
山崎は、アトリエの奥の大きなカーテンに手をかけた。
「こちらをご覧ください」
そう言って、山崎はカーテンのように見えた大きな布を勢いよく取り払った。
そこに現れた光景に、思わず芦田は声を失った。
「こ、これは…」
やっとのことで出た言葉がそれだった。
芦田の目の前には、巨大なヴィーナスが立っていたのだ。
ヴィーナスは一糸纏わぬ姿で、言葉にできないほどの造形美を保ちながら立っている。ヴィーナスの周りには、彼女を囲むように二、三十ほどの天使、その下には彼女に救いを求める数十の民。ヴィーナスの後ろには、果てしない海と、神々しい太陽の光が輝いている。
大きさにして、縦三メートル、横四メートルほどの巨大なキャンバスに、そのヴィーナスは描かれていた。
芦田は、無意識のうちにその絵に近付いていた。
絵に見惚れている芦田に、山崎が語りかけた。
「野崎先生は、国際展覧会に出す絵を既に完成させていたんです。キャンバスの裏にちゃんと書いてました。『国際展覧会用』と」
芦田は山崎の話を聞いているのかいないのか、ヴィーナスから一切目を離さなかった。まるで、自分自身を絵の中に閉じ込めてしまったかのようだった。
「残念でしたね」
「何が残念なものか。この絵を間近で見られただけで、この世に生まれた甲斐がある。これは、それだけの作品だ。野崎大輔…。天才だとは思っていたが、まさかここまでとは。私なら、一生かかったってこんな絵は描けない」
山崎は、芦田の隣に立ち、並んでヴィーナスを眺めた。
それから二人は、何も言わず、ただ絵を眺め続けた。この場に言葉は無粋だと、お互いが了解していた。
数分の沈黙の後、やっと芦田が口を開いた。
「私がこれを言うのもおかしな話だがね、山崎君」
「はい」
「惜しい男を失ったよ」
山崎は、未だ絵に見惚れている芦田の横顔に少し微笑みながら、またヴィーナスに目を戻した。