女神の選択13
芦田は自宅二階のアトリエにいた。今頃は野崎の家に警察が集まっていることだろう。自分の狙った通りに彼らが動いてくれれば、野崎を殺したのはどこかの強盗ということになっているはずだ。どうか上手くいってくれと願うことしか、今の芦田にはできなかった。
野崎宅での捜査がどれくらいかかるのか分からないが、今日中には間違いなくこの家にも警察が来るだろう。そのときは慌てず騒がず、冷静に対処さえすれば、自分が疑われることはないはずだ。そのための作戦を、芦田は既に用意していた。
そんなことを考えていると、アトリエのドアをノックする音が聞こえた。「はい」と芦田が答えると、ドアの向こうから「山崎です」という声がした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
芦田が入室を許可するのと同時に、ドアを開けて山崎が入って来た。
「家内から聞いたよ。まさか刑事だったとはな」
「すいません。隠すつもりはなかったのですが、警察の人間というだけで変に構えてしまう方もいらっしゃるので」
「分かるよ。別に怒っちゃいない。少し驚いただけだ」
「ありがとうございます」
「君と一緒にいた女の子はどうしたんだ?」
「ああ、東堂さんなら、まだ野崎先生のお宅の方で捜査にあたってもらってます」
「そうか。それにしても、酷いことをする輩がいたもんだ。野崎君の絵を狙った強盗の仕業らしいな」
「今のところ、その可能性が高いかと。ただーー」
「ただ?」
「ちょっと気になることがあるんです」
「気になること?何だそれは?」
しかし、山崎は芦田の問いには答えず、一点を見つめていた。
「おい?」
「あ、すいません。もしかして、今お仕事中でいらっしゃいましたか?」
芦田の後ろには、描きかけの絵が置かれてあった。
「ああ。いや、今ちょうど行き詰まってたところでね。息抜きしたかったところだから、別に気にすることはない。むしろ君が来てくれてありがたいよ。気分転換になるからね」
「それならよかったです。私はてっきり先生のお仕事を邪魔してしまったんじゃないかと」
芦田は笑って見せた。
「そんなことはない。ところで、話の続きを聞きたいんだが」
「ああ、そうでしたね。すいません。えっと、何の話でしたっけ?」
「犯人について何か気になってることがあるんだろう?」
「ああ、そうでしたね。そうなんです。野崎先生を襲った犯人なんですが、現場から野崎先生の絵を数点盗んで行ってるんです」
「まあ、それが本来の目的だろうからな」
「そして、その盗まれた絵がどの作品なのかを調べたら、少し妙なことが分かりまして」
「ほう。それは?」
「盗まれた絵は、値段にして数十万円程度のものばかりだったんですよ。もちろんそれでも充分に高価なんですが、あそこにはもっと高価な絵が他にもたくさん置いてあったんです。それこそ数百万円から数千万円するものまで。にもかかわらず、犯人は比較的安価なものばかり盗んで行った。これが気になってるんです」
「何だそんなことか。たいした問題じゃないじゃないか」
「そうですか?」
「ああ。大方、犯人は絵に知識の無い人間だったんだろう。絵の価値も分からず、とりあえず適当に盗んで行ったんだ。それだけのことだろう」
「うーん」
「何か不満か?」
「いえ、不満という訳ではないんですが、正直私は、逆の可能性を考えてます」
「逆?」
「はい。つまり犯人は、絵画に関して明るい人物なのではないかと。そしてそのことを周りにも知られている。だから犯人は、敢えて安い作品だけを盗んで行ったんです。犯人は絵に知識の無い人間だと我々に思わせるために」
芦田の手には生温い汗が流れていた。
「考えすぎだろう」
「ですが考えてみてください。犯人は、野崎先生の自宅の場所、家の離れがアトリエになっていること、そして昨夜、野崎先生が芦田先生のお宅でパーティに参加する予定だったことまで調べ上げてるんです。そんな用意周到な人物が、どの絵がより高価かという最も重要なことを知らないというのは明らかにおかしい」
「…なるほど」
「更にですね、現場の状況から、犯人は野崎先生の知り合いである可能性が高いことが分かってるんです」
「なに?」
「もしこれらの仮説が全て正しかった場合、犯人像はぐっと絞られてくるとは思いませんか?」
芦田は答えなかった。
「つまり犯人は、野崎先生のお知り合いで、絵画作品について明るく、そして昨夜、野崎先生がパーティに参加することを知っていた人物です」
「…確かにそうなるな。君の仮説が正しければの話だが」
「…はい」
「…君の言いたいことは分かっているよ。私を疑っているんだな?」
「いえ、そういう訳ではーー」
「いや、いいんだ。私なら、彼に恨みを持っていると思われても仕方ないからな。展覧会の件は既に知っているんだろう?」
「…はい」
「なら話は早い。君も知っての通り、私は野崎君に実力で負かされた。犯人と疑われても仕方ない。それに、君の言う犯人像の条件に、私は全て当てはまる。だが、それは私はだけじゃない。それは理解しているな?」
「はい」
「野崎君は、君も知っての通り、非常に社交的な人物だった。芸術家や芸術関係の仕事をしている人物だけでなく、スポーツ選手や芸能人にも友人がいたと聞く。君は、彼ら全員にあたってみたのか?」
「…」
「君はさっき、犯人は絞れたと言ったが、実際はそうでもないんじゃないか?さっきも言ったように、彼には友人が多かったし、彼もパーティのことを誰かに話しているかもしれない。そうだろう?」
「確かに」
「君の考えていることは分かっているよ。私がパーティの途中、席を外したことを気にしているんだろう?その間に野崎君を殺しに行けたんじゃないかと」
山崎は答えなかった。
「だが、残念ながら私にはアリバイがある」
そう言って、芦田は部屋の奥から布を被ったキャンバスを一枚持って来た。そして、それを山崎の方に向け、さっと布を取った。
それは、昨夜パーティの最後に芦田が披露した、美枝とゆう子が描かれた絵だった。もちろん、山崎もその絵を昨夜見ていた。
「これが何か分かるな?」
「はい」
「私は席を外してからもう一度リビングに戻って来るまで、ずっとここでこの絵を描いていたんだ。これぐらいのクオリティの絵なら、どんなに急いで描いても三時間はかかる。もし途中で抜け出して野崎君を殺しに行き、絵を盗んでいたりしたら、少なくとも一時間はロスするだろう。とてもじゃないが、二時間でこれを完成させるのは私でも無理だ」
山崎は小さく「ううん」と唸った。
「言っておくが、前もって描いておくなんてのは無理だぞ。なぜだか分かるな?」
「奥様はともかく、川田さんがどんな服を着て来られるかは、先生には分からない」
「その通り。川田さんがあの青いドレスを着て来ることは、パーティ当日にならないと分からない。故に、私のアリバイは成立だ。どうだね?」
「確かに。先生にはアリバイがあるようですね」
芦田は笑みを浮かべた。
「それを聞いて安心したよ。もし犯人が捕まったら、私にもすぐ教えてくれ。どんな奴か、私も知りたいからな」
「分かりました。真っ先にお教えします」
そう言って、山崎は丁寧にお辞儀をし、部屋を出て行った。
それから数秒後、芦田は近くにあった椅子にもたれかかるようにして座った。額と手の平から冷や汗が止まらない。
あの山崎とかいう刑事は舐めてはいけない。まさか犯人像をこの短時間であそこまで絞っているとは思わなかった。芦田は、とんでもない男を招き入れてしまったと、昨日の自分の行動を後悔した。
しかし、まだ自分は何人もいる容疑者の一人に過ぎない。それにアリバイもある。恐れることはない。芦田は何度も自分にそう言い聞かせた。
その日の夜、芦田は能登を自宅に呼び、夕食を共にした。芦田と能登、そして美枝の三人の食卓は、水を打ったように静かだった。
結局ほとんど会話のないまま、三人の食事は終わりを迎えた。
この日芦田が能登を呼び出したのは、昨日から気になっていたことを確かめる為だった。だから、いつも能登が帰るときに見送るのは美枝の役目なのだが、この日は芦田がその役を買って出た。
玄関には、芦田と能登の二人だけになった。
「今日はお招きいただきありがとうございました」
「いや、いいんだ。本当はもう少し明るく食事をしたかったんだが、時期尚早だったな」
能登は気まずい顔をした。
「この歳になると、若い人が命を落としたときの悲しさは、自分も若かったときのそれとはまた違った重みを感じるよ。それが身近な人間なら尚更だ」
「分かります」
「能登君。変なことを言うようだが、君は突然死んだりしないでくれよ」
「何言ってるんですか。僕はそんな簡単に死んだりしませんよ」
能登は笑顔で返した。
「そうか。…能登君」
「はい」
「どうしてと思うかもしれないが、理由は聞かず、これを受け取ってくれないか?」
そう言って、芦田は自分の財布を取り出し、そこから一万円札を三枚抜き取り、能登に差し出した。
「え?」
能登は驚いた顔を見せた。
「いいんだ。何も言うな。今回のことで、若くて有望な人たちに、できるだけ投資しておきたくなっただけなんだ。年寄りのわがままだと思って、黙って受け取ってはくれないか?」
「でも…」
「頼む」
「…」
能登は少し考えてから、「分かりました」と言って、芦田から三万円を受け取った。
「ありがとう」
能登は受け取ったお札をしまう為、ジャケットのポケットから財布を取り出した。
能登がお札をしまう瞬間、芦田は能登の財布の中を凝視した。そして、二日前には財布の端の方に入っていた避妊具の袋が、今は無くなっていることを確認した。
これで確信した。二日前まであった避妊具が、昨日のパーティを境に無くなっている。使ったタイミングは昨日の夜で間違いないだろう。つまり、野崎由奈との密会の際に使用したのだ。二人は不倫関係にある。
芦田は、ずっと胸につかえていた物が取れたような気がした。芦田は笑って能登を見送り、リビングに戻ってほろ酔いになるまで酒を飲んだ。