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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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女神の選択9

「何やってるんですか、先生?ていうか、どうしてここに?パーティにいたはずでは?」

 芦田は野崎の姿を見た瞬間、心臓が止まりそうなほど驚き、そして今は張り裂けそうなほどに鼓動を打っていた。

「君こそ、どうしてここに?」

「僕は、今週中に仕上げたい絵があったので、途中で抜けて…あれ?」

 何かに気付いた様子の野崎は、急に深刻な顔になり、アトリエの真ん中へと早歩きで進んだ。そして、そこに立っていた芦田を押し退け、芦田の後ろにあったズタズタの絵を凝視した。芦田は何も言うことができず、ただ野崎の次の言葉を待つのみだった。

 数十秒間の沈黙の後、野崎が絵を見つめたまま、芦田に問うた。

「先生、これはどういうことですか?」

「いや、これは違うんだ…」

「一体何が違うんです?」

 野崎はヴィーナスから一切目を離さなかった。野崎の声は落ち着いていたが、明らかに怒りを含んでいた。

 芦田はそれ以上何も答えられなかった。それよりも、芦田は"これから"のことを考えた。自分はこれからどうなるだろうか。不法侵入で逮捕されるだろうか。そして野崎の作品を駄目にしたことで、世界中から叩かれるだろうか。もしそうなれば、とてもじゃないが生きてなど行かれない。それなら、野崎にこのことを口止めするか。野崎にはこれまでいろいろと世話をしてやった恩義もある。この男は自分に対して頭が上がらないはずだ。頼めば了承はしてくれるだろう。だが、本当にそれでいいだろうか。確かに世界中からバッシングされるのは回避できるかもしれない。しかし、自分の最も知られたくない行いを、最も知られたくない相手に知られてしまったという事実は変わらない。野崎はきっと口を割らないだろう。それでも、自分は死ぬまでこの屈辱を抱えたまま生きて行かなければならない。野崎は一生自分のことを見下し続けるだろう。それは、もしかすると、世界中から非難の目を向けられるよりも耐え難い苦痛かもしれない。

 芦田は考えた。自分の行いが表沙汰にならず、かつ野崎もこのことを忘れるような選択肢はないか。芦田は考えた。

 気が付くと、目の前に野崎の後頭部があった。野崎は微動だにしない。声も発さない。突然の出来事に当惑しているようだった。

 芦田の頭は真っ白になっていた。手は汗でべっとりと濡れていた。その手には、さっきまでヴィーナスを八つ裂きにしていたナイフが握られている。そしてその切っ先は、野崎の背中に深く沈み込んでいた。

 芦田は、慌てて持っていたナイフを野崎の背中から抜こうとしたが、思った以上に深く刺さっており、簡単には抜けなかった。改めて勢いよく引き抜くと、大量の血が噴き出ると同時に、野崎がその場にうつ伏せに倒れた。芦田には、その倒れる光景がスローモーションのように見えた。そのとき、芦田を見つめる野崎の顔は、驚嘆と困惑に満ちていた。

 倒れた野崎の体の下からは、赤黒い血溜まりが少しずつ広がっていた。そのときになって、芦田はやっと我に返った。そして、事態の緊急性に気付いた。とんでもないことをしてしまった。このままだと、世界中からバッシングを受けるどころか、刑務所行きだ。

 芦田は、この状況を切り抜ける術を必死に考えた。幸い、アリバイ工作は既に仕掛けてある。後は、野崎殺害の罪さえ逃れればいい。

 芦田は脳がパンクしそうなほど思考を巡らし、そして一つの作戦を思い付いた。強盗の仕業に見せかけるのだ。高価な絵を狙って野崎のアトリエに侵入し、盗みを働いているときに運悪く野崎が帰って来てしまい、止むを得ず殺害。そういうストーリーを仕立て上げればいい。

 芦田はすぐに行動に移った。野崎の体と血に触れないように、アトリエの中に並べられた絵を三つほど両脇に抱えた。キャンバスの大きさと重さを考慮すると、その数が限界だった。その際、手当たり次第に盗むのではなく、芦田なりにある基準を持って絵を選んで盗んでいった。それは絵の値段だった。芦田は敢えて比較的値段の安い絵だけを盗んで行った。それにより、犯人は絵に関して知識が薄く、適当に盗む絵を選んで行ったと演出できる。自分が容疑者から外れる為のちょっとした工夫だった。そして忘れず、芦田が刺し殺したヴィーナスも脇に抱え、足音を立てないようにアトリエを出た。

 芦田は来たときと同じように、草むらの陰に隠れながら、野崎宅の前を通って、向こう側に停めた自身の車の方へ進んで行った。

 野崎宅の前を通るとき、芦田が念の為に野崎宅の方を見やると、玄関に誰か人がいるのが見えた。芦田は慌てて草むらに身を隠し、葉と葉の間から、その人物が誰なのかを確かめようとした。

 そこには二人の人物がいた。一人は女で、一人は男だ。芦田は目を凝らしてよく見ようとした。そして、何とかその二人の人物の顔を認識することができた。女の方は、野崎の妻である由奈だった。そして男の方は、芦田もよく知っている人物、マネージャーの能登だった。確かあの二人は今日のパーティに参加していなかったはずだ。由奈にとっては夫の、能登にとっては仕事のパートナーとも言える人物のお祝いのパーティであるにもかかわらず、それに顔も見せずに何をしているのだろう。芦田はいろいろと推測を立てたが、そんな場合ではないことにすぐ思い至り、車の方へ急いだ。

 車に飛び乗った芦田は、後部座席に盗んで来た四点の絵を入れ、エンジンをかけてその場を去って行った。

 十数分後、自宅の駐車場に戻って来た芦田は、車のエンジンを止め、来たときと同じように、今度はさっき垂らしたロープを登って二階のアトリエへと戻った。降りるときに比べ、老体にはかなり堪えたが、壁に足を付けて体を持ち上げるようにして登ることで、何とか戻ることができた。

 ロープを回収し、椅子に座った芦田は、乱れた息を整えるのに数分を要した。やっと呼吸が落ち着いてきたとき、芦田はゆっくりと思考を巡らした。自分の作り上げたストーリーに沿って忠実に動けるよう、何度も頭の中でシミュレーションをした。警察は必ず自分たちに話を聞きに来る。これを聞かれたらこう答える、というパターンをいくつも想定しては対策を立てた。

 その作業が終わると、芦田はアトリエの奥から一枚の絵を取り出した。その絵を抱え、芦田はアトリエを出て、一階に降りて行った。

 再びリビングに現れた芦田を、パーティの参加者たちは歓迎した。

「どこに行ってたんですか、先生!」

「いや、すまない。ちょっと絵を描いててね」

 そう言って、芦田は脇に抱えていた絵を皆に見せた。そこには、二人の女性が描かれていた。一人は黒いドレスを、もう一人は青色のドレスを身に纏っている。それらが誰であるか、参加者たちはすぐに分かった。

「奥様と川田さんですね!」

 参加者のうちの一人が言った。

「いやあ、素晴らしい。まさか、先生の最新の作品を見られるなんて。とんだサプライズですよ」

「三時間ほどでぱぱっと描いた落書きだがね」

 しかし、その絵の出来は落書きというにはあまりに二人の女性を忠実に、写実的に描いていた。

 参加者たちの賞賛に、芦田も、そして知らず知らずのうちにモデルとなった美枝とゆう子も、みな満足そうな表情になった。

 野崎大輔の祝賀パーティは、和やかな雰囲気のまま終わりを迎えた。


 その日の真夜中。パーティはとっくにお開きになり、美枝も寝室で寝息を立てていた。物音一つ聞こえない芦田邸で一人、芦田は忍び足で駐車場へと向かっていた。

 自分の車の側に到着した芦田は、後部座席から数時間前に野崎のアトリエから盗んできた四点の絵を両脇に抱え、そそくさと家に戻って行った。

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