女神の選択8
二階のアトリエに上がって来た芦田は、即座に計画の遂行に移った。ここからは時間との勝負になる。できるだけ急いで、かつ正確に行動しなければならない。
まず芦田はアトリエの鍵を閉めた。客人はわざわざ二階に来る用事は無いし、美枝は夫が仕事を邪魔されるのを一番嫌がることを知っているし、かつ今は主婦仲間たちとの会話に夢中だ。よっぽどのことがない限りは二階へ上がっては来ないだろう。とは言っても、何があるか分からない。芦田はすぐに次の行動に移った。
芦田は引き出しの奥から、予め用意していたロープを取り出し、片方の端を窓の手すりに固く結び、もう片方を地面へと垂らした。芦田はそのロープを伝って、素早く地面へと降りて行く。その身のこなしは、およそ老人のそれではなかった。どんなに年老いても、健康には気を遣い、週三回のジョギングを欠かさなかった甲斐があった。
このとき、脚に何かが引っかかったような気がしたが、急いでいた芦田は気にも留めなかった。
地面に降り立った芦田は、休むことなく小走りで駐車場へと向かった。芦田邸の駐車場はアトリエの窓から見て目の前にある。芦田は誰にも見つかることなく、駐車場に停まった自分の車へ乗り込んだ。
「ねえ山崎さ〜ん」
「東堂さん。あなたちょっと飲み過ぎですよ」
山崎が食事に夢中になっている間、エリナは高級ワインの方に夢中になり、いつの間にかすっかり泥酔し、今は山崎にしつこく絡んでいた。
「え〜、全然酔ってないですよ〜」
「酔ってる人はみんなそう言うんですよ。ていうかあなた酒臭いですよ」
「何でそんなこと言うんですか…。酷い…」
今度は泣き始める。
「酷いって…」
「山崎さんは酷いですよ!何人も女をたぶらかして!一体誰が本命なんですか!?」
「たぶらかしてって、そんなことしてませんよ」
「してるじゃないですか!カオルさんにミクさんにマイコさんに…それに今日だってあの人と!」
「誤解ですよ。僕は別に誰ともーー」
と、山崎が言い訳を始めようとしたとき、ひと通り挨拶回りを終えた野崎が、パーティの参加者全員に聞こえるように言葉を発した。
「では皆さん。僕はこの辺で失礼します」
その途端、野崎の周りから「えー」という抗議の声が起こった。野崎は申し訳なさそうに弁明した。
「すいません。今週中に仕上げなきゃいけない作品がありまして。また機会があればよろしくお願いします」
野崎の言葉に、「そんなの後でいいだろ。絵なんていつでも描けるんだから」と、冗談めかして言う者もいたが、その場にいた全員、野崎が多忙であることは理解していたから、本気で彼を止めようとする者はいなかった。
野崎は参加者一人一人に謝罪をしながらリビングの出口の方へと歩いて行った。そして最後に、出口付近にいた山崎とエリナにも謝罪の挨拶をした。
「山崎さんと東堂さん、でしたね。本日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ、お会いできて光栄でした。ご多忙かとは思いますが、頑張ってください。応援させていただきます」
「ありがとうございます。機会があればゆっくり食事でもしましょう」
「もちろんです」
野崎と山崎が丁寧に挨拶を交わしていると、相変わらず泥酔しているエリナが絡んできた。
「ちょっと野崎先生〜。もう帰っちゃうんですか〜?」
「ええ。東堂さんも、今日はありがとうございました」
「う〜ん帰っちゃ嫌だ〜。もっとお話しましょうよ〜」
エリナの態度にまずいと思った山崎は、すぐさまエリナを制した。
「東堂さん。失礼ですよ」
「いえ、大丈夫ですよ。それだけ楽しんで頂けてるということですから。僕はもう帰りますが、この後も楽しんでくださいね」
「はい。ありがとうございました」
「野崎先生〜!」
エリナの叫びも空しく、野崎は芦田邸を去って行った。
芦田邸から車で十数分。芦田は野崎宅の草むらにいた。車は目立たないよう、野崎宅よりも少し手前に停めておいた。
芦田は草むらの中から野崎宅の方を見やり、そこに誰もいないのを確認し、早足で野崎宅の離れへと歩を進めた。野崎が離れをアトリエとして使っていることを、芦田は何度か訪れて知っていた。
離れは特に鍵などはかかっていない。実に不用心だが、わざわざここまで盗みを働きに来る者もいなかったし、野崎もそういうことには無頓着だった。
芦田が離れ兼アトリエに足を踏み入れると、中は薄暗くて全体を把握するのはなかなか難しいが、そこら中に布を被せられた絵が並べられていることは分かった。安いものなら何十万、高いものだと何千万という価値のついた絵がごろごろ転がっているが、今はそんなものに興味はなかった。芦田が用があったのは、アトリエの真ん中に置かれた絵だった。芦田はゆっくりとその絵に近付いた。キャンバスには、肉感的で艶やかなヴィーナスが、上半身だけ描かれていた。
「これだ…」
芦田は思わず呟いた。今目の前にあるこの絵。このヴィーナスの絵こそが、自分の栄光を邪魔した憎き作品なのだ。芦田にはキャンバスに描かれているのが、民に救いの手を差し伸べる女神などではなく、自分の手を引いて地獄へと導く悪魔のように見えた。
芦田は懐から革の手袋を取り出して両手に嵌め、逆側のポケットからナイフを取り出した。そしてナイフを持った方の手を大きく振り上げ、「悪いな」と小さく呟き、半分だけのヴィーナスに向かって思い切り振り下ろした。ナイフはヴィーナスの眉間に深く刺さった。芦田はすぐにナイフをキャンバスから抜き、そこから何度も何度もキャンバスに振り下ろした。
ヴィーナスが見る見るうちにズタズタになっていくのを見て、芦田は一種のトランス状態に陥った。消えろ。消えてしまえ。お前がいては俺の望みが叶えられない。お前は俺の人生の邪魔なのだ。消えろ。消えてしまえ。
気が付くと、目の前のヴィーナスは見るも無残な姿になっていた。芦田は充足感を覚えていた。後は誰にも見付からずに来た道を逆行して自分のアトリエに戻り、何食わぬ顔で絵を描いていた振りをすればいい。これで野崎が国際展覧会に出展する作品は無くなり、日本からは自分が出展することになるはずだ。
兎にも角にも、一刻も早くここを立ち去らなければならない。そう思って芦田が後ろを振り向くと、そこには信じられない光景があった。
アトリエの入口に、野崎大輔が立っていた。