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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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女神の選択3

 芦田邸から車で約十分。芦田邸と同じく、木々に囲まれた山の中に、画家・野崎大輔夫妻の家はある。

 洋風のその建物は、芦田邸ほど大きくはないが、それでも充分に立派と言える家である。というより、芦田邸が大きすぎるという言い方もできる。野崎の家は、高級住宅街の中の一軒をそのまま山の中へ持って来たように見えた。

 その家から十数メートル離れた場所に、小さな離れがある。ここが野崎大輔のアトリエになっていた。十畳ほどのその小屋には、所狭しと絵が並べられており、その真ん中で、野崎大輔がまた新しい絵に取り組んでいた。

 午後九時を回った頃。野崎が作品に没頭していると、後ろから「あなた」と、か細い女の声が野崎を呼んだ。

「どうした?」

 野崎は由奈の方は見ず、キャンバスに向かって筆を動かしたまま応答した。

「さっき能登さんからご連絡があって、この後仕事の話でもしながら食事でもどうかって」

「能登さんかーー。悪いけど、断っといてくれるかな。僕、あの人ちょっと苦手で。お世話になってる手前、あんまり言いづらいけど」

「え?私?でもーー」

「頼むよ。今ちょっと手が離せないんだ」

「…うん。分かった」

 由奈は扉をゆっくりと閉め、アトリエから自宅へと戻って行った。

 野崎と由奈の出会いは、高校の美術部だった。その頃には既に野崎は世界に名を知られるほどの画家になっており、学校でも、良く言えば一目置かれる存在、悪く言えば浮いた存在だった。そんな彼にも、他の友人と同じように分け隔てなく接したのが由奈だった。元々野崎は、他人の自分への接し方などには関心を示さなかったが、由奈と他の人間の、自分への態度が明らかに違うのにはすぐに気付いた。そして次第に、彼は由奈に惹かれて行った。実を言うと、読書と勉強以外のことにあまり興味がなかった由奈は、野崎が世界的に名を知られた画家であるということを知らなかっただけだったのだが、それは後になって発覚したことだった。

 奇しくもそんな二人は大学を卒業した数年後に結婚し、その頃にはすっかり絵で財を成していた野崎は、優雅にもこの山の中にある大きな家で、由奈との結婚生活を送っているのだった。ただ、次第に野崎の仕事が忙しくなり、また野崎の芸術への探究心もどんどん高まって来た頃から、二人の会話が少なくなって来たこともまた事実であった。


 由奈が自宅へ戻ってから数十分後、インターホンの音が鳴った。由奈はしばらくその場から動かなかった。さっきのインターホンは空耳で、同じ音は二度と聞こえることはなく、何だやっぱりさっきのは聞き間違いだったのだと胸を撫で下ろす。そんなふうになればどれだけ良いだろうと、由奈は考えていた。

 しかし、由奈の願いは呆気なく打ち砕かれた。一回目のインターホンから三十秒と経たずに、二回目のインターホンが押されたのである。由奈は諦めの表情を浮かべ、重い足取りで玄関へと向かった。

 玄関に立ち、深呼吸をした由奈は、ゆっくりとドアを開けた。そこには、スーツ姿の能登が立っていた。背が高く、顔も"イケメン"の部類に入る。おまけにユーモア溢れる話術まで持ち合わせているのだから、こんな男が自宅を訪ねて来たなら、普通の女性は飛んで喜んでるところだ。しかし、由奈はというと、喜ぶことはおろか、この男に嫌悪感さえ抱いていた。

「こんばんは」

由奈は能登の挨拶を無視した。能登はそんなことは気にしない様子で話を続けた。

「しばらく振りですね、奥様」

「…ええ」

「野崎先生は?」

「今は仕事中です。ですので、食事もお断りして欲しいと」

「何だ。それならもっと早く言って頂ければーー」

「申し訳ありません。ではこれで」

 由奈がドアを閉めようとした瞬間、能登がそこに素早く足を入れ、ドアが閉まるのを阻止した。

「ちょっと待ってくださいよ」

「ちょ、どういうつもりですか?」

 由奈は半ば無理矢理にドアを閉めようとしたが、身長が一八〇センチ近くある男の力に敵うはずもなく、ドアはびくともしなかった。

「このまま追い返すなんて薄情過ぎやしませんか?」

「主人は忙しくてご一緒できないという旨は伝えました。これ以上話すことは無いはずです」

「では別件ができました。今まさに」

「はい?」

「もう気付いているでしょうが、僕はね、奥さん、あなたに会いに来たんですよ」

「…」

 由奈はその表情に嫌悪感を隠さなかった。由奈は、この男のこういう気障な性格が心底嫌いだった。

「そんな顔しないでください。せっかくの美人が台無しだ」

「お帰りください」

 能登は由奈の言葉を無視し、その身をするりと玄関の中に潜り込ませ、由奈の腰に手を回した。そしてそのままキスをしようとした能登を、由奈は間一髪で回避し、能登を力一杯に突き飛ばした。と言っても、由奈の力ではこの大男を半歩仰け反らせ、玄関から片足を出すのが精一杯だった。

「何するんですか!?」

 由奈は、十数メートル先で絵を描いている自分の夫に聞こえないように、しかし怒気のこもった言い方で小さく叫んだ。

 能登はというと、由奈の剣幕に少しも怯む様子を見せず、むしろ余裕の表情で笑って見せた。

「いや申し訳ない。しばらく見ないうちに更に美しくなられていたので、思わずキスをしたくなりまして」

「帰ってください!前にも言いましたけど、私とあなたの関係はとっくに終わってるんです!」

「僕はそうは思っていません。そもそも誘って来たのはあなたの方じゃありませんか?」

 由奈は一瞬言葉に詰まった。確かに、仕事に夢中で自分のことを構ってくれない夫に不満を持ち、夫のマネージャーであるこの男に癒しを求めたのは事実だった。

 しかし、夫への罪悪感からすぐにそのことを後悔し、能登との関係を断ち、一途に夫への愛を貫くことを決めたのだった。だが、由奈が断ち切ったと思っていた過ちの糸は、しぶとく由奈自身にまとわりついてくるのだった。

「あのときは私もどうかしてたんです。今はあなたには何の感情も持っていません。後悔してるんです。お願いします。夫が仕事中なんです。帰ってください…」

 泣きそうな顔で懇願する由奈に能登も観念したのか、一つ息を吐いて、「また来ます」という言葉を残し、自身が乗って来たいかにも高そうな黒い車に乗って去って行った。

 由奈の頭の中では、能登が残して行った「また来ます」という言葉が反復して再生され、由奈の思考を奪って行った。由奈は頭を抱えながら玄関のドアに鍵をかけ、誰もいないリビングへ戻って行った。


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