女神の選択2
ゆう子が帰宅し、洗い物を終えた美枝は、恐る恐る二階のアトリエを覗いてみた。中では、こちらに背を向けた芦田が、キャンバスに向かって絵筆を走らせている。キャンバスには、雪が降り積もる街が描かれている。どうやら、この間の北海道旅行で見た景色を絵にしているらしかった。この背中は、美枝がもう何十年も見続けてきた光景だ。
美枝は、ゆっくりとアトリエの中に足を踏み入れた。すると、美枝の姿は見えていないはずの芦田が、美枝がアトリエに入るや否や、背を向けたまま声を発した。
「仕事中は入って来るなといつも言っているはずだぞ」
「ごめんなさい。でも、あなたの様子が変だったから心配になって」
「別に変なんかじゃない」
「…もしかして、あのことを気にしてるの?」
「…別に気にしてなどいない」
「でもーー」
「本当だ。ちょっと気分が優れなかっただけだ。さっきは取り乱してすまなかった。川田さんにはお前の方から謝っておいてくれるか?」
「ええ。それはいいけど…」
「心配するな。俺はいつも通りだよ」
そう言って、芦田は美枝に向かって笑顔を見せた。それは、もういつもの芦田の笑顔だった。美枝は、自分の取り越し苦労だったのだと納得し、同じように彼に笑顔を見せた。
そのとき、芦田邸のインターホンが鳴った。
美枝は「あら、誰か来たみたいね」と、芦田への言葉とも独り言とも取れる言葉を呟き、「はいはい、今行きますよ」と、相手に聞こえるはずのない返答をしながらアトリエを出て行った。
部屋に一人残った芦田は、再び椅子に座り直して、雪の街の絵の続きを描き始めた。
「芦田先生」という、よく通る男の声が聞こえたのは、そのすぐ後である。芦田は再び筆を動かす手を止め、後ろを振り向くと、そこに立っていたのは能登だった。
「先生。ご無沙汰してます」
笑顔で挨拶する能登に、芦田も笑顔で応答した。
「本当にご無沙汰だな。私のマネージャーのくせに、全く私に会いに来ないのだから、薄情な男だよ、君は」
「そう言わないでください。僕もいろいろと忙しいんです」
言いながら、能登はアトリエに入り、持っていた鞄を近くにあった椅子の上に置いた。能登はスーツを着ていたが、絵の具が付くのを嫌がったのか、ジャケットを脱ぐことはしなかった。
「どうだかな」
「勘弁してくださいよ」
能登は現在三十一歳で、スポーツマンのようにシュッとしている。芦田とは二十以上も歳が離れているが、その親しみやすい性格もあり、芦田ともすっかり打ち解けていた。
「あと、先生。この前のことは、本当に申し訳ありませんでした」
能登はさっきまでの笑顔から急に真面目な顔になり、芦田に謝罪した。芦田は顔の前で手を振り、「気にするな」というジェスチャーを見せた。
「君が謝ることじゃない。単に、俺の絵が野崎君の絵よりも劣っていた。それだけのことだよ」
「しかし、僕がもう少し上手くやれていればーー」
「だからそれは違う。あまり謝られると、今度はこっちが情けなくなってくる。だから、もうこの件のことは忘れなさい。私も忘れる」
能登は数秒の沈黙の後、「はい」と短くも重たい返事をした。
「そんなことより、ちょっとそこにある青の絵の具を取ってくれないか?」
重い雰囲気を切り替えようとしたのか、芦田は能登にちょっとした頼み事をした。能登は「はい」と返事をして、自分の後ろにある机の上の、青の絵の具チューブを取ろうとした。そのとき、能登の体が近くにあった椅子にぶつかってしまい、能登のジャケットのポケットに甘く入っていた財布が床に落ちてしまった。その際、財布の中のカードや小銭が散らばり、芦田の足元にまで及んだ。
「全く、何をやってるんだ君は」
「申し訳ありません」
普段そんなドジをしない男であるため、例の件を本当に気にしているのだなと、芦田は思った。そして、自分の足元に散らばった小銭やカードを拾うのを手伝ってやった。
その中で、一つ芦田の目を引いた物があった。それは、小銭でもカードでもない。手の平に乗るほどの大きさで、四角く薄い袋に、丸い形をした線が浮き出ている。その小さな袋には、「0.01」という字がプリントされていた。
芦田がその袋を拾い上げ、能登に返すと、能登はばつの悪そうな顔をした。
「あ、すいません・・・」
「まあまあ、君も若いし、良いことじゃないか。それに、大事なことだしな」
芦田はからかうような言い方で、能登にその袋を返した。能登は袋を受け取ると、自分の財布の端のポケットにそれを入れた。ポケットの深さに対して袋の方が少し大きく、上の部分が少しはみ出している。
そのとき、アトリエの入口の方から美枝が現れた。
「能登さん。今日はご飯食べて行くんでしょ?」
「すいません、奥さん。この後また仕事でして」
「あら、そうなの?お忙しいのね」
申し訳なさそうな能登に、美枝は優しい笑顔で応答した。すると今度は、芦田が能登に話しかける。
「忙しいことは良いことだよ。今のうちにできるだけ苦労をしておきなさい。あと、女遊びもな」
「やめてくださいよ、先生」
芦田と能登は、年甲斐もなくじゃれ合っていた。二人のやり取りを微笑ましく見ていた美枝は、「じゃあ後はごゆっくり」と言って、一階へと戻って行った。
再び芦田の方へ向き直った能登に、芦田が話を続けた。
「ところで、今日は何をしに来たんだ?」
「いえ、特に用事があった訳ではないんですが、仕事で近くまで来たのでご挨拶でもと」
「何だそんなことか。仕事でこんな所まで来るということは、なるほど、野崎君か」
「…はい」
能登は再び気まずそうにした。
「だから気にするなと言っているだろう。あんまりそういう態度をされると、むしろそっちの方が不快だぞ」
「はい。分かりました。僕ももうこの件は気にしません。申し訳ありませんでした」
「うむ」と、芦田は頷いた。
「では、僕はこの辺で」
「ああ。野崎君によろしく言っといてくれ」
「分かりました。では、失礼します」
能登の挨拶に、芦田はキャンバスに体を向けたまま、片手を挙げるだけで答えた。能登はそのまま一階へ降り、美枝に軽く挨拶をして、芦田邸を後にした。