女神の選択1
様々な職業が存在する現代において、画家ほど曖昧なものは無いだろう。
一枚の絵の値段を画家自身が設定することもあれば、購入者が決定することもある。それによって、同じ大きさの一枚の絵が札束の山と化すこともあれば、子供の落書きと同価値にされることもある。
無論、そんな世界では富を成すことはおろか、生活に最低限必要な収入を安定して得ることさえ困難で、それができるのは数多存在する画家たちの、本当に一握りに過ぎない。
そして、そのほんの一握りの頂点に君臨しているのが、芦田雲照(本名・芦田学)である。
物心ついた頃から絵を描くことが好きだった彼は、瞬く間にその才能を開花させ、十七歳のときに全国の絵画コンクールで優勝。以来、数々の賞を総なめにして来た。
それから四十年以上が経った今でも、そのバイタリティは未だ衰えず、常に自らの中にある「美」への探究心を持ち続け、高め、そしてそれを作品へと昇華する。この繰り返しを実に四十年以上も続けているのだから、もはや人間業ではない。そしてそれこそが、彼が今なお、日本のみならず、世界でもトップクラスの画家であり続ける理由でもあるのである。
しかし、これまで何十年もすり減らし、磨耗しながらいくつもの作品を生み続けた彼の精神は、もはや限界に近いところまで来ていたこともまた事実であった。
都内某所。都内と言っても、そこには首が痛くなるような高いビルも、迷路のように入り組んだ線路もない。あるのは生い茂る木々と、その間を吹き抜けるそよ風である。
都会の喧騒から離れたこの山の中にあって目を引くのが、芦田雲照夫妻の邸宅である。西洋風のその建物は、白を基調とした荘厳な造りで、どこかの国の大使館のようにも見える。
その芦田邸の広いリビングの真ん中で、芦田雲照と妻の美枝、そしてその対面に、美枝の主婦仲間である川田ゆう子が夕食を共にしていた。
「このお野菜、とっても瑞々しくて美味しいわね、美枝さん」
「そうでしょう?この人のお得意様から頂いたのよ」
美枝は隣で黙々と食事をする自分の夫を指差しながら説明した。
「よかったらいくつか持って帰って。まだまだたくさんあるの」
「え?いいの?」
「もちろん。どうせ二人じゃ食べきれないもの。ねえ、あなた?」
「あぁ。そうだな」
芦田はビールを口に運びながら短く答える。
「そう?じゃあお言葉に甘えて頂いちゃおうかしら」
「ええ。是非持って行って」
それから少しの間、三人は無言で美枝の手作り料理の味を楽しんだ。
ただ、美枝には少し気がかりなことがあった。どうも夫の様子がおかしい気がする。元々社交的な方ではないが、客人の前でほとんど会話をせず、笑顔の一つも見せないほど無礼な男でもない。
いくら仲の良い主婦仲間だからといって、このままでは大変な失礼になると考えた美枝は、少し不安ながらも、夫の不機嫌の理由を、冗談めかして聞いてみることにした。
「ところであなた、さっきから元気ないみたいだけど、昨日のお酒でも残ってるの?」
美枝の言葉にゆう子も笑顔を見せたが、芦田だけは相変わらずの仏頂面で、美枝の問いに何も答えなかった。さすがに不審に思った美枝は、今度は本当に答えを求めている言い方で同じ質問をした。
「ねえ、どうしたのよ、一体」
すると、芦田は重い口を開けて言った。
「お前、俺が前に買ってやった指輪はどうした?」
「え?」
「前に買ってやった指輪はどうしたと聞いてるんだ!」
思いもしなかった返答に、美枝もゆう子も戸惑った。確かに先週、美枝は芦田から数十万円する宝石の付いた指輪をプレゼントされていた。プレゼントなど滅多にするタイプではないので、珍しこともあるものだと思うと同時に、とても喜んだことをよく覚えている。
しかし、それを今日たまたま付けていなかったからといって、ここまで激怒するとは予想だにしなかった。そもそも怒鳴ること自体基本的にしない男であるから、美枝とゆう子は本当に驚いた。
しばらくの沈黙の後、芦田は席を立ち、無言ですたすたとアトリエのある二階へ歩いて行った。残された美枝とゆう子は、何と言っていいのか分からず、二人で顔を見合わせ、数分の間、呆気に取られていることしかできなかった。