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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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泳ぐ女15

 着替えて観客席の方へ戻ると、後輩たちは複雑そうな顔で千鶴のことを見た。声をかけてくる者さえいなかった。あの由利と洋子でさえそうだった。無理もない。自分が逆の立場だったら、同じように振る舞うだろう。目の前で大先輩が無様に予選落ちしたのだ。後で聞いた話だと、自分が絶好調だと感じていた前半も、それほど速かった訳ではなかったそうだ。そして何より、後半のスピードの落ち具合は、目も当てられないほどだったそうだ。千鶴も含め、この場にいる誰もが、「引退」の二文字を思い浮かべていただろう。千鶴自身も、ここまで結果を突き付けられては、決断する他なかった。

 全員が同じことを考えながら、誰もそのことを口にしない、奇妙で息苦しい時間が流れ、やがてOSCの選手たちは解散となった。千鶴以外のOSCの選手たちも、予選は突破しても、目立った活躍をする者はいなかった。全体的な意識を変える必要があると、帰りのミーティングで大木が話していたが、おそらくその話を真剣に聞いていた者はいなかっただろう。それほどに、千鶴の負け方はインパクトが大きかった。

 解散後、千鶴は自宅には向かわず、違う方向へ向かう電車に乗った。行きのときと違い、電車は空いていた。帰宅ラッシュの時間は既に過ぎていたから当然だろう。千鶴は電車の窓から見える月を眺めながら、今後の身の振り方を考えていた。競泳を引退した後のことなど考えたことがなかった。どこかのスポーツニュースにレギュラーとして起用されたりしないだろうか。有名スポーツ選手が引退後、テレビのスポーツニュースでコメンテーターのようなポジションで起用されることはよくある。解説者なんかもいいだろう。ビジュアルも悪くないから、画面映えはするだろう。テレビの前で堂々と話すだけの度胸と話術は無いかもしれないが、それはやっていくうちに慣れて行くだろう。それに、その慣れていない感じが視聴者に好感を与えるということもある。

 そんなことを考えていると、千鶴は思わず笑ってしまった。自分はそこまで知名度のある選手ではない。九年前に一度だけオリンピックでメダルを取ったことがある選手など、誰が覚えているだろうか。そんな人間を起用したがるテレビ関係者などいないだろう。そもそも人を殺したことのある人間が、テレビで偉そうにコメントなどしていいはずがない。自分の身の程を、千鶴は改めて再認識した。

 やがて、電車は目的の駅に着いた。千鶴は電車を降り、夜の街を一人歩いた。季節は夏だったが、この時間は涼しい風がそよそよと吹いていた。人気も無く、街灯も少ない夜道を、千鶴はゆっくりと歩いた。本来なら女性がこんな時間に夜道を一人で歩くのは危険だが、千鶴は特に警戒することもなく、目的地に向かって歩を進めていた。

 駅から十五分ほど歩くと、千鶴は目的地へとたどり着いた。もう嫌になるほど何度も見て来た建物だ。それはOSCの建物だった。

 千鶴は裏の駐車場に周り、裏口のドアを開けた。いつも通り、そこには鍵がかかっていなかった。中に入ると、千鶴は廊下を真っ直ぐに進み、奥のドアを開けた。そこは、千鶴が二十年近くも練習してきたプールがあった。

千鶴はプールサイドを歩き、スタート台の前で止まった。窓から差す月明かりが、プールの水面に乱反射している。千鶴は、その光を、じっと眺めていた。きっともう、この光を見ることはないだろう。千鶴は、柄にもなく感慨に耽っていた。

しばらくそのままプールに差す月明かりを眺めていると、後ろの方でドアが開く音がした。千鶴が後ろを振り返ると、そこには例の男が立っていた。正直「またか」と思ったが、今の千鶴にとってはありがたい存在だった。千鶴は、誰でもいいから話をしたい気分だったのだ。

「またあなたですか」

「すいません。何度もしつこくて」

「全くです」

 そうは言いながら、千鶴の顔は少し緩んでいた。

「どうしてここが?」

「どうしてでしょう…。刑事の勘というやつでしょうか」

「へえ…」

「…今日の大会、お疲れ様でした」

「…どうも」

「…残念でしたね」

「山崎さんが直前にあんな話するからよ」

「やっぱりそうなんでしょうか? 本当に申し訳ありません。何とお詫びしていいか…」

「冗談です。あれがあろうが無かろうが、結果は一緒だったわ」

「…しかし、やっぱり申し訳ないことをしました」

「いいのよ。気にしないで」

「…」

「…山崎さん。私ね、こう見えて、子供の頃は全く泳げなかったの」

「そうなんですか? 意外ですね」

「そう?」

「じゃあ、どうして競泳の選手に?」

「小学三年生のときにね、父親が私を無理矢理海に連れて行ったの。それで、荒療治だって言って私を海に放り込んだの」

「また強引ですね」

「今思えばね。でも、そのとき見た海の中の景色が、今でも忘れられないぐらい綺麗だったの。自分一人だけが異次元に飛ばされたような、鳥になって空を飛んでるような感覚になったんです。それからです。私が水泳にハマったのは。それからこの歳まで、ずっと泳ぎっぱなし。何だか、馬鹿みたいでしょ?」

「いえ。立派だと思います」

「本当に?」

「はい」

「そう。ありがとう」

「…しかし、今日の大会は残念でした」

「またその話?」

「あ、すいません」

「…まあ別にいいわ。今日の結果は、ある程度予想できてたことだし」

「そうですか。しかし私としては、野々宮さんが活躍する姿を見てみたかったです。野々宮さんが人を殺してまで出たかった大会でしたからね」

「…」

「…」

 二人は少しの間、お互いを見つめ合った。

「…まだそんなこと言ってるの?」

「はい。やはり、神崎さんを殺したのは野々宮さん、あなたです」

「分からない人ね。あなたすっかり忘れてるようだから改めて言うけど、私は麻帆ちゃんが居残り練習してたとき、後輩の子とご飯を食べてたの。麻帆ちゃんを殺すなんて無理よ」

「普通ならそうです。ただ、その後輩の方によると、あなたは食事中、十分ほど席を外していたそうですね」

「私はトイレに行くことも許されてないの?」

「それだけの時間があれば、呼び出した神崎さんを気絶させ、車に閉じ込めておくぐらいのことはできます」

 千鶴は、遂に痺れを切らした。

「いい加減にして! 大会の前から何の証拠もない話を長々と。私をそんなに殺人犯にしたいわけ!? それなら、証拠の一つでも持って来なさいよ!」

 凄む千鶴に山崎は少しも臆する様子は見せず、言葉を続けた。

「証拠ならあります」

「え?」

「今日の大会が行われている間に、部下にいろいろ調べてもらいまして。やっと見つかりました。あなたが犯人だという証拠が」

「…見せてもらえる?」

「はい。こちらです」

 そう言って、山崎は懐から透明なビニール地の袋を取り出した。中には、写真のようなものが入っている。

「それは?」

「おや? ご存知ありませんか? 亡くなった神崎さんの財布に入っていた写真です。映っているのは、神崎さんとその恋人です」

「…それが何か?」

「この写真、初めて見たときから変だなと思ってたんです。ほら、ここ見てください。ちょっと色が変わってませんか?」

 山崎は、写真の隅を指差しながら言った。言われてみれば、確かにそこだけ少し色が濃くなっているように見えなくもない。だが、それは僅かな差でしかない。目ざとい山崎でなければ見つけられない違いだっただろう。

「確かにちょっと色が違うようにも見えますね。それで?」

「ちょっと気になったので調べてもらったんです。そしたら面白いことが分かりまして」

「面白いこと?」

「はい。実はこれ、アルコールがかかって濡れたもののようなんですよ」

「アルコール…?」

「もっと正確に言えば、ビールでした。しかも乾き具合から見て、神崎さんが亡くなった日に濡れたものである可能性が高いそうです。あの日はずっとOSCにいたはずの神崎の写真に、どうしてビールがかかるんでしょうか?」

「…みんなに隠れて、どこかで飲んでたのかもね。ああ、それなら、練習中に発作を起こしたのも納得できるわね。酔った状態で泳ぐのはすごく危険だから」

「いいえ。神崎さんはお酒を飲みません。神崎さんのご友人や恋人もそう言ってました。神崎さんの家の冷蔵庫にもお酒は全く入ってませんでした」

「…」

「では、一体どこでこれがついたのか。そういえば野々宮さん。あなた、後輩の方と食事をされていたとき、女性店員にビールをかけられたそうですね?」

「なるほど。そのときについたって言うわけ?」

「あなたは、神崎さんの性格から考えて、普通に呼び出しただけでは、神崎さんが呼び出しに応じない可能性があると考えた。そこであなたは、神崎さんが大事にしているものを盗んだ」

「それがその写真ってわけ?」

「これを人質、いや、写真質と言えばいいでしょうか。とにかくこれがあれば、神崎さんは必ず現れるとあなたは踏んだんですね? そしてその目論見通り、あなたは神崎さんを呼び出すことに成功した。この写真がそのことを示してます。それ以外にこの写真にビールがつくことは有り得ません」

「…」

 少しの間、沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、千鶴の笑い声だった。

「ふふ。はははは!」

「…」

「山崎さん」

「はい」

「もしかして、それが証拠? それを自信満々に持って来たの? ごめんなさいね。あんまり馬鹿らしくて笑えて来ちゃって」

「…」

「いいわ。仮にあなたのその滅茶苦茶な論理が正しかったとしましょう。でも、それが何なの? それで証明できるのは、私が麻帆ちゃんの写真を盗んだってことであって、私が麻帆ちゃんを殺したってことは何一つ証明できてないじゃない。言っちゃ悪いけど、あなたには失望したわ。もうちょっとマシな話を持って来てくれるかと思ったけど」

「では写真を盗んだことはお認めになるんですか?」

「…ええ。認めてもいいわ」

「何故そんなことを?」

「…悔しかったんです。私は何十年も恋愛を犠牲にして水泳に人生を懸けて来たのに、あの子は彼氏に夢中で大して練習もしない。そんなことを考えてたら、だんだんあの子の方が幸せな人生を送ってるように思えて来て…。それで、嫌がらせしようと思ったんです。あの写真を捨ててやろうって。でも、途中で考え直したんです。そんな馬鹿みたいなことしても仕方ないって。それで、後で彼女の財布に写真を戻しておいたんです。ごめんなさいね、黙ってて。嫉妬深い女だって思われるのが嫌だったの。分かってもらえた?」

「…」

 山崎は少し苦い顔をした。

「さあ、帰ってもらえる? そしてもう二度と私の前に現れないで。私もいつまでもあなたの失礼な態度を笑って許すほど寛大じゃないの。早く出て行ってもらえるかしら」

 しかし、山崎はその場を動こうとはしなかった。

「何してるの? 早く―」

「まあまあ野々宮さん。そんなに焦らず。まだ私の話は終わってませんから」

「え…?」

「正直、この写真が何の証拠能力も持っていないことは分かっていました」

「じゃあ何で持って来たの?」

「もしかしたらこれで自白してくれるかと思ったんですが、やはり無理でしたね。あなたは手強い」

「…舐められたものね」

「申し訳ありません」

「で、もう一つの証拠って?」

「はい。今持って来させます。おーい!」

 山崎はプールの入り口の方を向いて誰かを呼んだ。すると、ドアを開けてどこかで見たような女が入って来た。

「あなたは…」

「どうも! カオルです! お兄ちゃんの妹です!」

「ああ。山崎さんの妹さんね。確か、私の車に山崎さんと一緒に乗ってたわね」

「はい。その通りです。良かったな。覚えてもらえてて」

「うん! カオル嬉しい!」

「で、カオル。頼んだ物は持って来てくれたか?」

「うん! はい! これでしょ!」

 そう言って、カオルは手に持っていた透明なビニール地の袋を山崎に渡した。山崎が持っていた、麻帆の写真が入っていた袋と同じものだ。ただし、中身は違うようだ。

「ありがとう。さて野々宮さん。これが何か分かりますか?」

 山崎は、袋を千鶴が見やすい位置に持ち上げた。

 山崎が持っているものが何なのか、千鶴に分からないはずはなかった。それは紺と黄色を基調とした、ビニール地の巾着袋。もう何十年も同じものを、千鶴も使っている。

「もちろん分かります。水着入れです。私たちが使ってる」

「その通りです。OSCに所属する選手は、皆さん同じものを使っているそうですね?」

「ええ」

「もちろん野々宮さんも」

「そうよ。それが何?」

「これは、神崎さんが使われていた水着入れなんですが、これに指紋が付着していたんですよ」

「指紋?」

「はい」

 千鶴はまたも噴き出した。

「何言ってるの? ずっと一緒に練習してるんだから、指紋ぐらい付いたっておかしくないでしょ? いつだったかは覚えてないけど、麻帆ちゃんの水着入れを触ったことぐらい何回もある―」

「何を言っているんですか?」

「え?」

 山崎は、不思議そうな顔で千鶴のことを見ていた。何故そんな顔で見られているのか、千鶴には皆目見当がつかなかった。何もおかしいことは言っていないはずだ。麻帆の水着入れに自分の指紋が付いていたところで、さっきの写真と同様、何の証拠能力もないはずだ。しかし、山崎は千鶴が考えもしなかったことを話し始めた。

「確かにこの水着入れには、あなたの指紋も付いていました。しかし、今あなたがおっしゃった通り、別にあなたの指紋が付いていたっておかしいことはない。私が問題にしているのは、そのことではありません。重要なのは、もう一つの指紋です」

「もう一つの指紋?」

「はい。ここには、神崎さん以外の指紋が、あなたと、あともう一人付いていたんです」

「…誰?」

 山崎は、少し笑って言った。

「こいつです」

 そう言って、山崎は自分の隣にいる女を手で指した。

「私です!」

「え…?」

「この水着入れには、カオルの指紋が付いていたんですよ」

「カオルさんの…? 何で…? …はっ!」

 千鶴は、その理由に思い至った。そしてその瞬間、山崎が言わんとしていることを全て理解することができた。

「思い出されましたか? そうです。私たちが初めてあなたと会ったとき。あの角でぶつかったときです。あなたが落とされた水着入れを、このカオルが拾いましたよね? 私はてっきり、あれはあなたのものだと思ってました。しかし実際は、神崎さんのものだったんですね。おそらく神崎さんを殺害した後、更衣室に彼女の荷物を戻そうとしたものの、鍵が閉まっていて入れなかったんですね? だからあなたは、次の日の朝の誰もいない時間を見計らって更衣室に忍び込み、神崎さんの荷物をロッカーに戻すつもりだった。その道中、運悪く私たちとぶつかってしまった」

「…」

「カオルはあのとき以外に、この水着入れには全く触ってないそうです。そうだな?」

「うん! あのときだけだよ!」

「だけだそうです。そしてあなたがあの日、まだ更衣室に足を踏み入れてなかったことは、OSCの方たちの証言から既に分かっています。つまり、あなたは神崎さんの遺体が発見された日の前日の夜から、ずっと彼女の水着入れを持っていたことになるんです。居酒屋で食事していたはずのあなたが、どうしてプールで練習していた神崎さんの水着入れを持っていたんですか?」

「…」

 千鶴は口を噤んだ。完敗だった。山崎の質問に合理的な答えを提示することが、千鶴にはできなかった。

「…まさか、その子に足元をすくわれるなんてね…」

「これに関しては私も予想外でした」

「カオル、役に立った!?」

「ああ。今回はお前のお手柄だよ」

「やったー! 褒めて褒めてー!」

 無邪気なカオルの笑顔に、緊張感のあった場が少し和んだ。

「後で褒めてやるから、お前は先に帰ってなさい」

「はーい!」

 山崎の指示に従い、カオルはプールを出て行った。

 空間は再び静寂に包まれた。今度は千鶴の方がその静寂を破った。

「…要するに、初めて山崎さんとカオルちゃんに会ったときから、もう私の負けは決まってたってことですね…」

「でも、今回は本当に偶然です。もしカオルがいなければ、今頃どうなってたか…」

「…」

 千鶴は、大きく溜息をついた。

「…私の人生っていつもこう。肝心なところで必ず失敗する。オリンピックに出たときも、もう少しで金メダルを取れたのに、ターンで失敗して銀メダル止まり。周りはそれでもすごいって言ってくれたけど、私はそんなお情けの言葉なんて全然嬉しくなかった。その後はずっとぱっとしない競技人生…。その挙句、後輩を殺してあっけなく逮捕。私の人生、何だったんだろうって思います」

「…」

「山崎さん」

「はい」

「あなた、一つだけ間違ってるわよ」

「…?」

「私が麻帆ちゃんを殺したのはね、別に選手権大会に出たかったからじゃないの。大会に出られようが出られまいが、正直私にとっては、どうでもよかったの」

「…では何故?」

「私ね、さっきも言ったけど、泳ぐのが大好きなの。泳げれば何だっていいのよ。ただ、周りが速く泳ぐ私を求めたから、それに応えてただけ。私はこれまで、自分の意志で速く泳ぎたいなんて一度も思ったことはなかった。私にとって泳ぐことは、生きる為のエネルギーというか、生き甲斐なんです」

「…」

「でもね、あの日―私が麻帆ちゃんを殺した日の前の日、麻帆ちゃんが私に言ったんです。あんたはいつまで泳いでるつもりだって。あんたのせいで、レーンが一つ犠牲になるんだって。

「…」

「今までいろんな罵倒や批判は受けて来たけど、あれはきつかった。これから伸び盛りの麻帆ちゃんに言われたのがまた堪えたのね。それから私、泳ぐのが怖くなっちゃって…。私が泳ぐことは、誰かにとって迷惑なんじゃないかって思うようになったの。だから本当は、今日の大会にも出るかどうか迷ってたの」

「…」

「あの子はね、私から、唯一の生き甲斐を奪ったの。私のたった一つの生きる意味を。泳ぐことができないなら、私は生きてる意味なんて無い。そんなあの子を、私はどうしても許せなかった。…だから、殺したのよ」

「…そうですか…」

「ちょうど、これからどうやって生きて行こうか悩んでたところなの。刑務所の中なら、私みたいな生きてても仕方のない人間にふさわしい場所だわ。ありがとう、山崎さん。私を逮捕してくれて…」

「…失礼ですが―」

「…?」

「今、おいくつですか?」

「…三十三です…」

「まだまだこれからじゃないですか。まだ人生半分も生きてない」

「…でも、私にはもう―」

「生き甲斐なんて、意外と簡単に見つかるものです。生きる意味なんて、道端に転がってます。あなたが水泳に出会ったのと同じように」

「…そうかもしれないわね」

 詭弁だ。千鶴はそう思った。山崎が自分を元気づけるために言った、どこにも根拠のない論理だ。だが、今の千鶴にとって、その言葉は何よりの救いだった。

 千鶴は、死のうと思っていた。水泳を奪われた自分に、生きている意味など無いと思っていた。そこまで思い詰めていた千鶴に、山崎は生きる希望を与えてくれた気がした。何か新しい生き甲斐を見つけた訳ではない。またいつ死にたくなるか分からない。だが今だけは、山崎の言葉を信じてみたくなった。地獄だと思っていたこの世界にも、まだ楽しいことはある。そんなふうに、今だけは希望を持ってもいいような気がした。

「…行きましょうか」

「…お連れします」

 山崎は、どこかの令嬢をエスコートする紳士のように、千鶴を外へと連れ出した。


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