泳ぐ女14
観客席はまばらだった。来ているのは、出場選手の関係者か、よっぽどの競泳ファンぐらいだ。
その中にいて、山崎の存在は異質だった。選手の関係者でもなければ、競泳ファンでもない。だが、山崎は特に気にすることもなく、できるだけ周りに人の少ない席を選んで腰を下ろした。
目下で行われるレースを上の空で眺めていると、隣に女がやって来た。
「山崎さん」
「お疲れ様です」
山崎は目線を変えないまま言った。女は山崎の隣に座った。
「お疲れ様です。野々宮さんに会って来たんですか?」
「はい」
「どうでした?」
「駄目でした。まあ、想定の範囲内です。東堂さんの方は?」
「はい。調べて来ましたよ」
「どうでしたか?」
「山崎さんの読み、当たってましたよ。これ、見て下さい」
エリナは山崎に、書類を何枚か手渡した。山崎はそれを黙ってじっと眺めていた。
「…」
「…山崎さん」
山崎は、エリナの呼びかけには答えず、書類をエリナに返した。
そのとき、会場にアナウンスが流れた。
「続いて、百メートル自由形を行います。出場する選手の方は準備をお願いいたします」
「あ、野々宮さんが出ますね」
エリナが言った。山崎は相変わらず何も答えなかった。
しばらくすると、会場に次々と選手が入場してきた。千鶴は最後に入って来た。遠くからだったのでよく見えなかったが、どうやら少し緊張しているように見えた。
「野々宮さん、大丈夫でしょうか?」
「…分かりません」
選手たちが一人ずつスタート台に上がって行った。千鶴は一番端のレーンにいた。
競泳において、レーンは端になればなるほど他の選手が起こす波の影響を受け、不利になると聞いたことがある。そのため、真ん中のレーンはタイムが良い選手の方から優先的に取られて行く。遅い選手は、実力が劣るだけでなく、速い選手よりも厳しい条件下で競わされるのである。
やがて選手たちがスタートの構えを取った。一瞬の静寂の後、スタート合図のブザーが鳴り、選手が一斉に水の中に飛び込んだ。
緊張はしていたが、体が硬くなっている訳ではなかった。程よい緊張感。今日はこれまでにないほど調子が良かった。スタートもスムーズだった。これなら勝てる。レーンこそ一番端まで追いやられてしまったが、大した問題ではない。それぐらいの逆境、今の自分なら簡単に覆せる。千鶴は、事故ベスト更新を確信していた。
大木に言われたように、前半はとにかく飛ばしていた。この逃げ切りの形でしか、自分が勝つ術はない。千鶴は、他の選手たちを遠く後方に残して、自分一人だけが先を泳いでいる情景を想像していた。気持ちが良い。どこまででも泳いで行ける。そんな気がした。
千鶴はあっという間に半分の五十メートルに達し、壁を蹴ってターンした。そのとき、一瞬だけ隣を見た。選手の姿は見えない。どうやら自分がかなりリードしているらしい。このまま突き放してやる。後半が苦手なんて関係ない。前半の勢いのまま、最後まで泳ぎ切ってやる。そうすれば、とんでもない記録が出るに違いない。千鶴は、由利や洋子らOSCの後輩たち、大木らコーチたち、そして日本中の人間、あの山崎さえも、自分を讃えている光景を想像した。ああ、やはり泳ぐのは気持ちが良い。この感覚を一度知ってしまえば、もうやめることなどできない。引退など馬鹿らしい。私は、死ぬまで泳いでいたい。
そのとき、千鶴の脳裏にある言葉がよぎった。
「あんた目障りなんですよ。さっさと泳ぐのやめてくださいよ。レーンが一つもったいないじゃないですか」
そのとき、突然千鶴の動きが鈍くなった。さっきまであんなに軽かった腕と脚が、今は鉛のように重い。と同時に、今度は心臓がまるで誰かに掴まれているかのように痛くなった。思うように息ができない。泳いでいるのに溺れているようだった。
ゴールはまだなのか? さっきまではすぐ近くに感じていたゴールが、今は遥か彼方に感じられた。早くあそこにたどり着きたい。早くたどり着かなければ、このまま溺れて死んでしまいそうだ。まるで麻帆のように。
そのとき、千鶴ははっとした。そうか。これは因果応報なのだ。麻帆を殺した自分は、麻帆によって殺されるのだ。そういえばさっき脳裏によぎった言葉は、自分が麻帆に言われた言葉だ。私は、麻帆に呪われているのだ。仕方のないことだ。自分はそれだけのことをしたのだから。私はもう、自由に泳ぐことはできない。
「千鶴! お疲れ! よくやったぞ!」
大木の声が聞こえた。何をそんな大きな声を出しているのだろう。ここはどこだっけ。確か今日は朝起きて、ニュースを見ながら朝ごはんを食べて、山崎とかいう刑事と話をして。そうだ。今日は選手権大会だった。そして、今ゴールしたんだった。そんなことを忘れるなんて、よっぽど必死に泳いでいたようだ。結果はどうだったのだろう。隣を見る余裕はまだなかった。息が苦しい。まずは呼吸が整うのを待とう。それにしても、大木は何故今にも泣きそうな顔をしているのだろう。そんな顔を見ていたら、こっちまで涙が出そうになる。
観客席で観戦していた山崎とエリナは、お互い何も話さずにいた。二人の耳には、いろんな方向からの黄色い声援が入って来た。今のレースで勝った選手の応援に来た人たちだろう。OSCの人たちは沈黙しているようだった。
「…残念でしたね、野々宮さん」
やっとの思いで、エリナが声を発した。
「…はい」
「頑張って欲しかったんですけど…」
「そうですね…」
「…」
「東堂さん」
「はい?」
「お願いした物は持って来て頂けてますか?」
「はい。ここに」
エリナは自分の鞄を開いて、中身を山崎に見せた。
「ありがとうございます。後で貰います」
「山崎さん。やっぱり…」
「安心してください。嫌な役目は私が請け負いますから」
「でも…」
「これも私の仕事です。お疲れ様でした」
「…お疲れ様です」
エリナは鞄の中から二つの袋を取り出し、さっきまで自分が座っていた席に置いた。そしてそのまま会場を後にした。
山崎はエリナが置いて行った袋を改めて見つめた。プールの方を見ると、まだ千鶴はプールから出ていなかった。というより、その場から動けないでいるようだった。あんな満身創痍の人間に、これから止めを刺しに行くようなことをしなければならない自分の運命を、山崎は少し呪った。