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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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泳ぐ女13

 午前六時ちょうど。千鶴は自分のベッドで目を覚ました。枕元には目覚まし時計が鳴っている。

 千鶴は目覚ましを止め、ベッドの上で大きく伸びをした。いつもならすぐにベッドから降りて家を出る支度をするところなのだが、今日は違った。何故なら、今日は練習が無いからである。

 今日は選手権大会の日だった。千鶴たちOSCの選手は、朝九時に会場に現地集合ということになっていた。千鶴の家から会場まで、電車で三十分ほどなので、本当はもっと寝ていてもよかったのだが、いつもの習慣で、自然に目が覚めてしまった。

 千鶴はベッドから降りてテレビを点け、いつもよりゆっくりと朝食の準備をした。いつもはトーストとコーヒーだけだが、今日は簡単なサラダも一緒に作ることにした。

 千鶴が台所でレタスを切っていると、テレビのニュースが聞こえて来た。どうやら、麻帆の事件(世間では事故ということになっているが)について伝えているようだった。

「亡くなった神崎麻帆さんは、この大木スイミングクラブの選手で、将来有望な選手だったそうです。死因は、夜中に一人で自主練をしていたときに突然心臓発作が起こり、そのまま溺死したということです。大変不幸な事故ですよね。こういうことって、よくあることなんでしょうか?」

 アナウンサーがニュースの概要を伝え終わった後、専門家のコメンテーターに意見を求めた。専門家は、水中で起こる事故の危険性について、フリップを使いながら分かりやすく説明している。

 朝食を作り終えた千鶴は、居間に戻り、トーストとコーヒー、そしてサラダをテーブルに置き、テレビのチャンネルを変えた。本当なら、今回の事故を、警察がどう見ているのか、ニュースや新聞などで知っておいた方がいいのだろうが、千鶴はどうしてもそんな気にはなれなかった。あのニュースを目にするたびに、麻帆の体にスタンガンを当てたときの感触や、プールの底に沈んでいく麻帆の姿が脳裏に浮かび、とてもまともな神経ではいられなかった。

 変えたチャンネルでは、スポーツニュースを伝えていた。その時間の大半は、昨日のプロ野球の結果に充てられていた。今日の大会のことはさすがに触れられなかったが、自分が好成績を残せば、少しは話題にもなるだろうかと、千鶴は考えた。

 そんなふうに、久しぶりにゆっくりとした朝の時間を過ごし、朝の支度を終えると、時刻はもうすぐ八時になろうかという頃になっていた。少し早かったが、千鶴はもう家を出ることにした。千鶴は、何事も早めに行動しないと気が済まない性格だった。

 普段は自分の車で移動するので、電車に乗るのは久しぶりだった。千鶴の家の最寄駅から会場前の駅までは、快速電車で一本だった。久々の満員電車には参った。何故この人たちは毎日同じ時間に同じ電車に乗っているというのにこんなにも統率が取れないのかと、千鶴は少し苛立った。

 約三十分電車に揺られていると、目的の駅に着いた。千鶴は人混みをかき分けて電車を降り、会場に向かって歩いた。やがて会場が見えてくると、既に大木が到着していた。千鶴の姿を見つけた大木は、千鶴に声をかけた。

「おう。早いな」

「コーチこそ」

「俺は、いろいろと準備があるからな」

 この前の土下座のことはすっかり無かったことのように振る舞っている。まさか忘れた訳ではあるまい。意図的に平常通り振る舞おうとしているようだった。千鶴はその大木のプライドの高さに、心の中で苦笑した。千鶴は、今まで自分を育てて来てくれた恩師のことが滑稽で仕方なかった。

 そうこうしているうちに、続々とOSCの選手たちが集まって来た。全員が揃うと、会場に入り、諸々の手続きを済ませ、応援席に向かった。

 千鶴が出場する百メートル自由形は、午後二時頃に行われる予定だった。それまではアップなどの最終調整と、他の選手の応援をすることになる。

 千鶴は、午前中はずっと他の選手の応援に徹していた。そして正午を回り、軽めの昼食を終えた後、選手控室に向かい、少しずつ体を温め始めた。

 千鶴の出番まであと三十分ほどになった頃、千鶴と大木は選手控室で、会場の様子を映したモニターを見ながら、出番までの時間を過ごしていた。

「調子はどうだ?」

「いつも通りって感じです」

「つまり、良いってことだな」

 大木は、もう二十年近く千鶴を見ているだけあって、千鶴の言葉が何を意味するかは手に取るように分かるようだった。

「いいか? お前の弱点は後半だ。それはどうしたって変えられない。だから、お前の得意な前半で、他の選手が追いつけないほどリードしてしまえ。お前が勝つにはそれしかない。分かったか?」

「…はい」

「…俺を笑うか?」

「え?」

「ついこの間、あんな無様な姿を見せて、お前を傷付けて、どの面下げて偉そうにアドバイスしてるんだって、そう思ってるだろ?」

「…まあ…はい…。…すいません…」

「いや、いいんだ。俺がお前の立場でも同じことを思っただろう。絶対に許されないことをしたのは分かってる。ただ、今の俺にできる最善の仕事が、お前を勝たせることなんだ。これで罪を償おうなんて思っちゃいない。俺は、俺にできることをやってるだけだ。ダサい言い訳に聞こえるかもしれんが、何とか理解してくれ」

「…はい」

 千鶴は、大木を少し見直した。後悔や反省などしない男だと思っていた。しかし、少なくとも、大木には自分の選手を勝たせたいという信念を無くした訳ではなさそうだった。

 千鶴がそんなことを考えていると、控室のドアをノックする音が聞こえた。

「はい!」

 大木がそのノックに返事をし、「おかしいな。まだ出番には時間があるはずだけど…」と漏らしながら、控室のドアを開けた。

 するとそこには、見覚えのある黒いスーツの男が立っていた。

「どうも」

「あんたは、確か昨日の―」

「山崎です。昨日はお世話になりました」

「刑事さんが、何しにここへ?」

「実は、野々宮さんにお話したいことがありまして」

「千鶴に話って…。あんた、今がどういう時間で、ここがどこなのか分かって言ってるのか!? 千鶴はこれから、人生で最後になるかもしれない大会に挑むんだぞ!?」

「あ、それはもちろん分かってたんですが…。やっぱり出直した方が良さそうですね」

「そうしてくれ」

「どうも申し訳ありませんでした。では野々宮さん。頑張ってください」

 そう言って、山崎は控室の前から立ち去ろうとした。

「待って」

 しかし次の瞬間、千鶴は山崎を呼び止めた。

「はい?」

「山崎さん。その話、聞かせてもらえる?」

「おい千鶴!」

「ただし、私の出番まであと約二十分。それまでに終わらせられる?」

「それだけあれば十分です」

「じゃあお願い」

「失礼します」

 山崎は千鶴に促され、控室に入った。大木は不満そうな顔で、千鶴に言った。

「おいお前―」

「大丈夫ですよ、コーチ」

 千鶴は、大木の言葉を遮るように言った。

「こうやって人と話してた方がリラックスできて落ち着きます。それに、このままレースに入ったら、話の内容が何なのか気になって、そっちの方が集中できません」

「それは詭弁だ。お前―」

「お願いします、コーチ。私の、最初で最後のわがままです」

「…」

 大木はしばらく考えた末に、千鶴に言った。

「分かったよ。ただし、千鶴の集中を乱すようなことはやめてくれよ?」

「もちろんです。あ、あの…」

「何だ?」

「大木コーチには、席を外して頂けないかと…」

「俺がいちゃできない話なのか?」

「そういう訳でもないんですが、一応…」

 大木が千鶴の方を見ると、その目が何を訴えかけているか、大木にはすぐに読み取れた。大木は一つ溜息をつき、山崎に言った。

「分かった。出番が近くなったら呼びに来る」

「ありがとうございます」

 山崎が礼を言うと、大木は控室を出て行った。

 二人だけになった部屋の中で、山崎と千鶴は、お互いの顔を見つめ合った。それはほんの一瞬の間のことだったが、千鶴には何十分にも感じられる時間だった。

「どうぞ? 座ったら?」

「いえ、このままで」

「…そう。で、話って何? さっきも言ったけど、もうあまり時間がないの。急ぎでお願いできる? もしかしたら返事が適当になっちゃうかもしれないけど、そのときはごめんなさいね」

「いえ。無理を言ってるのはこちらですから。では、できるだけ手短にお話します。実はですね、昨日いろいろと調べているうちに、新たに分かったことがありまして」

「何ですか?」

「亡くなった神崎さんなんですが、付き合っている男性がいらっしゃったんですよ。ご存知でしたか?」

「ええ。彼女が亡くなる少し前に、本人から聞きました」

 千鶴は事実を語った。

「そうですか。それでですね、実はここに来る前、その男性に会って来たんですが、そこで気になることを聞いたんです」

「気になる事?」

「はい。実は、神崎さんが亡くなったあの日、お二人はデートの約束をしていたそうなんですよ」

「…へえ」

「おかしいとは思いませんか?」

「え?」

「だって、神崎さんは恋人とのデートの約束があるにも関わらず、一人で居残って練習をしていたんですよ? しかも、デートの約束を取り付けたのは神崎さんの方だったそうですよ」

「まあ言いたいことは分かるけど、それがそんなにおかしなことかしら」

「と言いますと?」

「だって、麻帆ちゃんは今日の選手権大会に出ることになってたのよ? そのために今の自分は力不足だと感じて、居残りで一人で練習していた。何もおかしいことなんてないと思うけど」

「確かに、他の選手なら私もこんなに引っかかったことはなかったと思います。しかし神崎さんは、前にもお話ししたように、どちらかというと練習熱心な選手という訳ではありませんでした。それに、恋人の男性によると、今まで神崎さんがデートに遅れたことはなかったそうなんです。いつも彼女の方が先に待ち合わせ場所に来ていて、時には途中で練習を切り上げて彼に会いに行っていたこともあったそうですよ。そんな方が、連絡も無しにデートをすっぽかしたりするでしょうか?」

「…山崎さんは、まだ私たちアスリートのことをよく分かってないみたいね」

「…」

「私たちアスリートはね、本番が近くなるほど、常人では考えられないぐらいナーバスになる生き物なの。周りの声が耳に入らなくなるほどにね。きっとそのときの麻帆ちゃんは、選手権大会で良いタイムを出すことで頭がいっぱいだったのね。恋人とのデートをすっぽかすほどに。それぐらいのこと、スポーツ界ではよくあることよ。麻帆ちゃんも、不真面目に見えて、根っこではしっかりアスリートだったのね」

「そうですか…」

「何だか不満そうね」

「いえ。そんなことはありません。やはり実際にアスリートの方にお話を聞けてよかった。我々では出て来ない発想でしたから」

「そう。お話はこれで終わり?」

「いえ。実はもう一つ。どちらかといえば、こちらの方が大事なお話なんです」

「早くしてね」

「ありがとうございます。実は昨日、神崎さんの体を調べてもらったんですが、神崎の体に火傷の痕があったんです」

「火傷…ですか」

「はい。それも二か所です。右の脇腹とお腹に。解剖医の話だと、おそらくスタンガンでやられたものに間違いないということです」

「スタンガン…」

「これがどういうことか、お分かりですか?」

「さあ…。麻帆ちゃんが誰かにスタンガンを当てられたってことぐらいしか…」

「私はこう考えてます。神崎さんは事故ではなく、誰かに殺されたんだと」

「…」

「おそらく神崎さんは、誰かにスタンガンで気絶させられたんです。そしてその状態のままプールに沈められ、事故死に見せかけられたんです」

「なるほど。面白いですね…」

「面白いのはここからなんです。先程、神崎さんの体にはスタンガンの後が二か所あったと言いましたよね。もしかしたら一発では気絶させられなかったために二回当てたのかもしれませんが、私はもう一つの可能性を推してるんです」

「もう一つの可能性?」

「はい。もしかしたら神崎さんを殺害した犯人は、一回目で神崎さんを気絶させ、その間に自分のアリバイを作っていたんじゃないでしょうか。そしてそれが完了した後、神崎さんをプールまで運び、そこでもう一度神崎さんを気絶させてプールに沈めたんです」

「ふふふ」

 千鶴は思わず苦笑した。

「何か?」

「いやだって、それって全部山崎さんの憶測でしょ? 何一つそれが事実だって証拠は無いじゃない」

「…実は…」

「…あるの? 証拠?」

「…それが無いんです。なので、今頭を抱えてまして」

「…じゃあ山崎さんは、わざわざ自分の憶測を話す為に、私のこの大事な時間を割いたってわけ?」

「まあ結果的にそうなってしまうんですが、私のこの憶測が事実だと仮定したとき、あることに気付いたんです」

「…それって?」

「いいですか? 犯人は神崎さんを気絶させてアリバイを作りました。その間、神崎さんは身動きできない状態にしておくことがあります。途中で目を覚まされて、逃げられては大変ですから。加えて、犯人はアリバイを作り終えた後、神崎さんをOSCまで運ぶ必要があります。そこで考えたんです。人一人の拘束と移動を速やかに行うのに一番良い方法は何か。何だと思いますか?」

「…さあ」

「簡単ですよ。車です。車なら、人一人ぐらいなら閉じ込めることができるし、そのままOSCまで移動することができます。トランクにでも入れておけばちょうどいいでしょう」

「…」

「つまりですね、神崎さんを殺害した犯人は、車を所有し、かつ完璧なアリバイを持っている人間である可能性が高いんです」

「...」

「ところで、つかぬ事をお聞きしますが、野々宮さんはスタンガンをお持ちですか?」

千鶴は一瞬答えに迷ったが、ここは正直に話すことにした。

「ええ、持ってますよ。前に海外遠征に行ったときに、護身用でね。向こうは物騒だから」

「そうですか...」

そのまま黙ってしまった山崎に、千鶴は臆することなく言った。

「山崎さんの言いたいことは分かりました。…私がやったって言いたいんですね?」

山崎はその問いかけには直接は答えず、話を続けた。

「あなた、私と初めて会ったとき、顔に絆創膏を貼ってましたね? あなたは転んだっておっしゃってましたが、本当は目を覚ました神崎さんに抵抗されたんじゃないんですか?」

「…山崎さん…」

「はい」

「さっきも言いましたけど、それは全て山崎さんの憶測でしかない。何一つ証拠は無いわけよね? それで私を逮捕しようとしてるわけ? それって警察官としてやっていいことなの?」

「…」

 山崎は苦い表情を見せた。

「…申し訳ありませんでした」

「いえ、別にいいわよ。いい暇つぶしになったし」

 その時、控室のドアをノックする音がした。次の瞬間、大木がドアを開けて入って来た。

「おい、千鶴。そろそろ―」

「はい。今行きます」

 千鶴は立ち上がり、控室を出て行った。ドアから出た所で、山崎の方を向いて言った。

「じゃあね、山崎さん。あなたの話、面白かったわ。証拠まであればもっとね」

 山崎は何も言い返すことができなかった。

千鶴はその後山崎の方は一瞥もくれず、プールの方へと歩いて行った。


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