泳ぐ女12
「ちょっとあんた! その焼き鳥、あたしが頼んだやつでしょ!?」
「あーごめんごめん。背が小さいから分かんなかったわー」
「背が小さいのは関係ないでしょ!」
「ちょっと二人とも! 他のお客さんに迷惑でしょ!?」
「私まで誘ってもらってよかったの?」
「もちろん。構いませんよ」
「そうですよ。それに、マイコさんがいたら場が華やぎますから」
「そんなことはないと思うけど…。まあ、お言葉に甘えておくわ」
そう言って、マイコはジョッキの中のビールを口に運んだ。
山崎とカオルは、千鶴の車を降りて別れた後、駅には向かわず、来た道を歩いて戻っていた。そしてやって来たのが居酒屋「たらふく」である。ここの店員に話を聞くついでに、夕飯をここで済ましてしまおうと、山崎は考えていた。カオルは山崎と二人で店に入りたがったが、妹とはいえ未成年と二人で居酒屋に入るのは気が引けたし、警察官という立場上、いらぬ誤解を受けるのは良くないと判断し、山崎は別で調査に当たっていたエリナを呼び出した。
するとエリナが、大人数で食べた方が美味しいと言い出し、マイコと、山崎たち行きつけの喫茶店「コロンボ」でバイトをし、カオルの学校の同級生でもある小林ミクを呼び出したのだ。
ちなみに、エリナは喫茶コロンボの店名の由来を未だに知らなかった。もう何度も利用している店なのだが。といっても、わざわざ誰かに聞いてみようとも思わなかった。
「そういえばミクさん。今日はお店の方は大丈夫なんですか? 誘った私が言うのもなんですけど」
「え? ああ、別にいいのよ。どうせ客なんて全然来ないし。仮に来たとしても、マスター一人で切り盛りできるからね。あの店での私の役割は、単なる綺麗どころなんだから」
自分で言ってしまうのもどうかとエリナは思ったが、ミクの容姿を考えれば、それもあながち間違いではないのだろう。ミクは、見た目こそ小学生に間違えられそうなほど幼く見えるが、フランス人形のように可愛らしい容姿をしていた。喫茶店で働いているときの、メイド服のような制服姿は、それこそフランス人形そのものだった。
しかしエリナは、今店であのマスターがたった一人で、寂しくいつものようにコップを拭いている姿を想像すると、不憫で仕方がなかった。
「そんなことより、あの女誰なのよ?」
ミクは、小声で囁くようにエリナに尋ねた。
「あの女って?」
「ほら、あの黒髪を後ろで縛ってる…その…胸が大きい…」
「ああ、マイコさんね」
「マイコ?」
「あの人は、鑑識の小倉マイコさん。私たちとよく現場が一緒になるのよ。すごい美人で、スタイルもいいでしょ?」
「…」
「何?」
「いや、何でこうも山崎さんの周りには女がいっぱい寄って来るわけ? 妹のこいつは仕方ないにしても、あんたやそのマイコって女とか。山崎さんが逮捕した犯人も、みんな美人ばっかりだったって言うし」
「まあ、それは確かにそうかもね。でも、別にそこから恋愛関係になったりとかは―」
「そんなの分かんないじゃない。山崎さんは、ああ見えて彼女の一人もいたことないのよ? つまり、どんな女がタイプなのかも分からないってことよ。もしかしたら、あのマイコって女みたいな、いかにも大人の女って感じのが好きなのかもしれないし、あんたみたいな、貧乳メガネ女が好きかもしれない」
「言いたいことは分かるけど、少なくとも、私のことは全然タイプじゃないと思うよ。あの人、基本的に女の人には紳士的に振る舞うけど、私のことはゴミみたいに雑に扱うし―」
「何それ? 自慢?」
「何でそうなるの!?」
「だってそうじゃない。それは裏を返せば、自分だけは山崎さんから特別に思われてるってことでしょ?」
「そのプラス思考、ちょっと分けて欲しいわ」
「とにかく、ライバルは多いわ。変な女に騙される前に、私が山崎さんをモノにしないと。山崎さんに似合う女の子は私だけなんだから」
その「変な女」に、あなたも含まれているのよ、とエリナは言ってやりたかったが、これ以上この話に興味はなかったので、受け流して話を切り上げることにした。
「ところで東堂さん」
そのとき、山崎がエリナに話しかけた。
「あれから何か新しく分かったことはありますか?」
「あ、それなら、一つ気になることを聞きました」
「気になること?」
「はい。確証はないらしいんですが―」
「構いません」
「OSCの選手の方の何人かから聞いたんですが、亡くなった神崎さんと、大木っていうコーチ、付き合っていたんじゃないかって噂があるんです」
「大木コーチというと、確かOSCのトップの方でしたね」
「はい。創業者の息子さんです」
「そうですか。でも、別にそれぐらいならよくあることじゃ―」
「違いますよ、山崎さん」
隣で話を聞いていたマイコが話に入って来た。
「東堂さんが言いたいことは、そういうことじゃないんですよ」
「というと?」
「明日行われるっていう選手権大会、亡くなった神崎さんは選手に選ばれてたんでしょ?」
「はい」
「で、聞いた話だと、今日山崎さんが車に乗せてもらった野々宮さんの方が、実力的には上だったって言うじゃないですか」
「それは私には分かり兼ねますが」
「でもそれほど差があった訳じゃないんでしょ? それに野々宮さんは年齢的にも明日の大会が引退前最後の大会になるかもしれない訳じゃないですか。もし私がコーチなら、野々宮さんに花を持たせてあげようと思いますけどね。でも、実際に選ばれたのは神崎さんの方だった訳でしょ?」
「そうか…」
マイコが言わんとしていることに、山崎も気付いたようだった。
「ええ。神崎さんが選ばれたのは、正攻法じゃない可能性がある」
「なるほど」
「あの、山崎さん」
今度はエリナが山崎に話しかけた。
「もう一つ、山崎さんの耳に入れたい話があるんです」
「何でしょう」
「ちょっとこれを見てください」
そう言って、エリナは自分の鞄から透明なビニール地の袋を取り出した。袋の中には、革製の高そうな財布が入っている。
「それは?」
「神崎さんの財布です。さっきまでずっと神崎さんの持ち物を調べてたんですが、この財布の中からこんな物が出て来たんです」
エリナは鞄からもう一つビニール地の袋を取り出した。その中には、一枚の写真が入っていた。エリナは袋をテーブルの上に置き、山崎とマイコが見えやすいようにした。
その写真には、満面の笑みをたたえた麻帆と、その隣に若い男が映っていた。
「この方は?」
「神崎さんの交際相手のようです。神崎さんと割と仲の良かった選手の方が教えてくれました」
わざわざ「割と」と言ったところを見ると、どうやらOSCには麻帆と本当に仲の良かった選手はいなかったらしい。
「なるほど。付き合ってる男がいるのに、大会に出る為にコーチと関係を持ったってことか…。すごい執念だね」
マイコの言葉に、エリナが反応した。
「そう思います」
山崎は、写真の入った袋を手に取り、目の前に近づけてじっと見つめていた。
「そんなに近づけて見なくても…」
あまりに山崎が熱心に写真を見ているので、エリナが思わず言った。
「あ、いや、違うんです。何かこの写真―」
と、ちょうどそのとき、女性店員が山崎たちのいるテーブルにやって来た。
「お待たせしました! 焼き鳥と刺身盛り合わせです!」
「あんた、どんだけ焼き鳥食べるの?」
「あんたがさっき私の食べたからでしょ!?」
ミクとカオルがまた言い合いをしている。
「あ、刺身こっちです」
マイコは女性店員に向かって手を挙げて知らせた。
ミクの前に焼き鳥、マイコの前に刺身の乗った皿をそれぞれ置くと、女性店員はその場を去ろうとした。
「ちょっとすいません!」
そのとき、山崎が女性店員を呼び止めた。立ち止まり、振り返った女性店員は、追加の注文だと思ったのか、伝票とボールペンを取り出してメモを取ろうとしたが、山崎は何も注文せず、その女性店員に尋ねた。
「あなた、ここのアルバイトの方ですか?」
「はい。そうですけど?」
「昨日もこちらに?」
「はい。いました。えっと…」
「あ、すいません。私、こういう者です。ええっと…」
そう言って山崎は自分の懐を探ったが、目的の物を見つけられなかったのか、手を止めてエリナの方を見た。
「すいません、東堂さん。警察手帳持ってないですか?」
「持ってますけど、忘れたんですか?」
「いえ。この前無くしました」
「無くした!? 警察が警察手帳を無くしたんですか!? ていうか、無くしたのに何で一回探したんですか」
文句を言いながら、エリナは自分の鞄の奥から警察手帳を取り出し、女性店員に見せた。それに続くように、山崎が言った。
「改めて、我々はこういう者なんです」
「警察の方?」
「はい。あ、心配しないでください。今はプライベートですから。ただ、ちょっとあなたにお聞きしたいことがあるんです」
「何ですか?」
女性店員は、山崎たちに怯えるような目を向けた。急に警察の人間に聞きたいことがあると言われれば、何も悪いことをしていなくても警戒するのは当然だ。警察の人間である山崎やエリナ、マイコは、もうこの視線には慣れっこだった。
「そんなに怖がらないでください。本当に世間話みたいなものですから」
「はあ…」
女性店員は、まだ山崎たちのことを信用し切っていないようだった。
「この店に、野々宮千鶴さんという方はよくいらっしゃいますか?」
「ああ、野々宮さんならよく来ます。ここの近くのスイミングクラブでいつも練習してるらしいので。何か、昔はオリンピックにも出たことがあるすごい選手だったらしいですけど」
この店員は大学生のアルバイトだろうか。あまりスポーツには興味がないらしい。
「昨日も野々宮さんはこの店にいらしてたらしいですが、あなたはお会いにありましたか?」
「はい。後輩の方と来てました。何度か接客したので覚えてます」
「そのとき、何か気になることとかありませんでしたか?」
山崎のその言葉を聞くと、女性店員の目は一瞬にして警戒から好奇へと変わった。
「え? 何ですか? 事件ですか? あの人たちの誰かが犯人なんですか!?」
「いえ、そういう訳では―」
「あ! そういえば、昨日あそこの水泳選手の人が事故で亡くなったってニュースでやってましたよね!? あれですか!?」
「すいません。捜査の内容はお話しする訳には…」
「そんな。人に情報を求めといて、そっちからは何も教えてくれないんですか?」
「おっしゃる通りなんですが、そういう決まりでして…」
明らかな年下の女性店員にも常に敬語を使う山崎に、エリナは少し苛立っていた。いくら情報が欲しいからといって、これは男としてあまりに情けないのではないか。相手を脅してまで情報を聞き出せとは言わないが、ここは男らしく、もっと堂々とした態度で接して欲しかった。
しかし、山崎の態度は変わることなく、それでも女性店員は何とか昨日のことを思い出してくれた。
「あ、そういえば…」
「何か思い出しましたか?」
「私、昨日ミスしちゃって。その野々宮さんって人に、ビールかけちゃったんですよ。そのとき私青ざめちゃって、どうしていいか分かんなくなっちゃったんですけど、あの人すっごく優しくて、全然怒らず、笑いながら拭くものを持って来てって私に言うだけで―」
女性店員の話に、エリナが思わず割り込んだ。
「あの、それってあなた自身のことですよね? 野々宮さんたちに何か気になることがなかったかを聞いてるんですけど…」
「うーん。特にないですね。いつも通りでしたよ」
「ああ、そうですか…」
エリナは少し呆れたような表情を見せた。
山崎はというと、相変わらずの低姿勢で女性店員に礼を言っていた。
「話して頂いてありがとうございます。とても参考になりました」
「ねえ、教えてくださいよ。あの人が犯人なんですか?」
「すいません。さっきも言いましたけど―」
「捜査に関わることは言えないんですよね。分かりました。私も、警察の人にこうやって話すの初めてで、ちょっと面白かったし、もう深入りしません。ドリンクのおかわりはよろしいですか?」
「はい。大丈夫です」
「では、ごゆっくりどうぞ」
そう言って、女性店員は笑顔で店の奥へと戻って行った。
「どうかしましたか、東堂さん?」
エリナは山崎に向かってふくれっ面を向けていた。
「いえ。ただ、山崎さんは、あんな年下の女の子に偉そうなこと言われて、何も感じないのかなと思いまして」
エリナは皮肉のこもった言い方をした。
「別に何も思いませんよ。それに、年下だからといって上から目線になるのはよくありません。現に、さっきだってちゃんと知ってることを話してくれたじゃないですか。もし私が高圧的な態度を取っていたら、あの方は何も話してくれなかったかもしれませんよ?」
「別に高圧的になれとは言いません。プライドの問題です。山崎さんにはプライドは無いんですか?」
「私にプライドがあるとするなら、どんな事件も必ず解決したいというプライドだけですよ。その為なら、他のどんなプライドも捨てていいと思ってます」
山崎の顔は穏やかに笑っていたが、その言葉には信念が込められていた。
「でも、結局大した情報は得られませんでしたね」
「いえ、そんなことはありませんよ?」
「え? でも、だって…」
「東堂さん。あした、朝一で調べて欲しいことがあるんですが―」
「はい?」
山崎はさっきの穏やかな笑顔から、少し不気味なにやにや笑いに変わった。エリナは既に知っている。この顔は、山崎が何かに気付いたときの顔であることを。