泳ぐ女9
OSCのプールサイドは、たくさんの警察官で溢れていた。そしてその中心に、神崎麻帆の遺体はあった。遺体は競泳水着を着ており、肌は血の気の無い、真っ白な色をしていた。唇は青紫色に変色していて、かなり不気味な印象を与えた。
人は溺死するとこうなるのかと、東堂エリナは少し恐ろしかった。
「溺死体って、ちょっと怖いですね」
「そう? これよりもっとえぐい死体なんていくらでも見て来たわよ。これなんてまだ全然マシな方よ」
「そうなんですか? やだなあ」
エリナの問いかけに答えたのは、小倉マイコだった。
「ところで、山崎さんは?」
「そういえばいませんね。もう来てるはずなんですけど」
「あの人、いっつも遅れて来るわね」
「そうですね。私はもう諦めました」
「そう。あ、噂をすれば、みたいよ」
「え?」
エリナがプールの入り口の方を見やると、いつもの黒いスーツに身を包んだ山崎と、隣に妹のカオルが見えた。
「いやあ、すいません。プールの場所が分からなくて。建物の中で迷子になってました」
「山崎さん。お願いですから、一回ぐらい時間通りに来て頂けません?」
「いや、来てはいたんですよ? ただ、建物の中で迷子になってただけで―」
「同じことです! それとあなた!」
エリナは山崎の隣にいるカオルを指差した。
「はい。何ですか?」
「何ですか、じゃないわよ! 何なの、その格好!?」
カオルは、いつもの可愛いヒラヒラした私服ではなく、真っ白なビキニを着ていた。腰と胸の部分にはフリルが付いており、カオルが動くたびにゆらゆらと揺れた。そして何より目に入るのが、その豊満なバストだった。
エリナは、カオルの胸が平均よりも大きいことは知っていたが、こうして水着姿を見てみると、これまで私服姿から目算していた大きさよりも一回りほど大きいことが分かった。今にも水着から溢れそうなその胸を見ていると、自分の貧相な胸が情けなく思えた。これでまだ若干十七歳なのだから、エリナは末恐ろしく感じた。
「何なのって、水着ですけど。変ですか?」
「変というか、おかしいでしょ!? ここをどこだと思ってるの!?」
「プールですけど」
「そう! ここはプール! プールに水着を着て来るなんて…いや、本来ならおかしくないけど、今日に限っては駄目でしょ! ここは遺体発見現場なのよ!」
「だってえ、お兄ちゃんがプールに行くって言うから付いて来ただけなんだもん。まさかこんなことになってるなんて思わなかったんだもん」
「じゃあ着替えて来たらいいでしょ」
「えー! せっかく新しい水着買ったのに、着ないともったいないじゃないですかー!」
「知らないわよ! また別の機会に着たらいいでしょ!」
「でも、新しい服とか水着とかを早く着たい気持ち、東堂さんも女の子なら分かるでしょう?」
「それは…まあ…分かる…けど、とにかく今は駄目! 早く着替えて来なさい!」
「えー!」
二人の会話に、マイコが入って来た。
「まあまあ東堂さん。仕事の邪魔してる訳じゃなし、いいじゃない。水着着るぐらい」
「マイコさん…」
「そうですよね! マイコさん! ところで、この水着似合ってますか?」
「うん。とっても可愛いよ。うちの男どもが目のやり場に困ってるけどね」
「そうなんですか? まあ私は気にしないからいいですよ! あ、そうだ! マイコさん、今度一緒にプール行きましょうよ!」
「うん。いいよ。みんなで行こう」
「やったー! 絶対ですからね! 楽しみだなあ」
喜ぶカオルを眺めながら、マイコはエリナに小声で言った。
「これでいいでしょ? 女の子は褒められるのが好きなんだから」
「それは、マイコさんだからですよ」
「そうかなあ」
「そうです」
マイコはカオルに負けず劣らずのスタイルをしている。それに、どこか「大人の女性」の雰囲気も醸し出している。こういうスマートな女性に褒められれば、誰でも嬉しいだろう。一方エリナは、顔は一級品ではあるものの、スタイルは見るからに貧相で、性格も幼児性が抜けきらない。素直に人を褒めることなどできなかった。
「じゃあ話がまとまったところで、そろそろ仕事しますか」
「そうですね」
そう言って、マイコと山崎は遺体の方へ向かった。
「あ、ちょっと待ってくださいよ!」
二人に続いて、エリナも遺体の方へ向かった。カオルは暇そうに、捜査の邪魔にならない程度にプールサイドを歩いていた。
「とりあえず、状況を教えてもらえますか」
麻帆の遺体を見ながら、山崎はエリナに言った。
「はい。亡くなったのは神崎麻帆さん。このOSCに所属してる競泳の選手です」
「競泳の選手が、溺死ですか?」
「おそらく、心臓発作か何かが起きたんじゃないかと思われます。誰かに無理矢理沈められた形跡もありませんし、もし縛られたり、重りをつけられたりしたんだったら、何らかの痕跡は残るはずです」
「別に、人を溺れさせるのに、縛ったり重りをつけたりする必要なんてありませんよ」
「え?」
「例えば―」
「相手を眠らせるとか」
山崎の台詞を、横からマイコが代弁した。
「そう。相手を眠らせる、もしくは眠っているところを狙えば、溺死させることなんて簡単です」
「そうか。じゃあ、彼女の胃の中を調べる必要がありそうですね。睡眠薬が残ってるかもしれない」
「お願いします。あと、彼女の体に火傷の痕が無いかも調べておいてください」
「火傷?」
「スタンガンよ。相手の意識を奪うだけなら、睡眠薬なんて時間がかかるものよりも、そっちの方が手っ取り早いもの」
「そうか。分かりました。解剖を急ぎます」
マイコとエリナが話している間、山崎はじっと麻帆の遺体を見ていた。
「どうかされました?」
「東堂さん」
「はい」
「この遺体なんですが、うつ伏せにして頂いてもいいですか?」
「いいと思いますけど…」
「あ、じゃあうちの男どもにやらせますよ。おーい! ちょっとこっち来て!」
マイコは近くで現場の写真を撮っていた部下の男を二人呼んで、仰向けだった麻帆の遺体をうつ伏せの状態にした。
「ありがとう。戻っていいよ」
マイコの指示に従い、二人の男は持ち場へ戻って行った。心なしか、マイコに指示をもらったのが嬉しそうだった。
「これでいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
山崎はマイコに礼を言い、再び麻帆の遺体に視線を落とした。
「あの、何か気になることでも?」
山崎はエリナの問いかけには答えず、じっと麻帆の遺体を見つめるだけだった。その目線の先を追って行くと、どうやら山崎は、麻帆の臀部を凝視しているらしいことが、見て取れた。
「あの…山崎さん。まさかお尻が見たくてうつ伏せにしたんじゃ…」
「ああ! お兄ちゃんって、お尻フェチだもんね!」
いつの間にか山崎たちの後ろに立っていたカオルが、大きな声でちょっとした暴露をした。
「おいカオル! それは言うなって―」
慌ててカオルを口止めしようとする山崎を、エリナは軽蔑の眼差しで見ていた。
「最低」
「いや、違うんです。東堂さん」
「別に好みは人それぞれだから何も言いません。でも、それを仕事場に持ち込むのはどうかと思います。ましてや遺体になんて…。もしかして、生きてる女性に相手されないからって遺体の女性にしか興味を持てなくなった訳じゃありませんよね?」
「違います! 女性のお尻が好きなのは本当ですけど、この方のお尻を見ていたのには理由があるんです!」
「はあ」
「目が全く信用してませんね。東堂さんもよく見てください。この方のお尻」
「はい」
エリナは言われた通り、麻帆の遺体の臀部を見た。
「見ましたけど、これが何か?」
「ほら、水着がお尻に食い込んでるでしょ?」
「最低」
「今のはさすがに私も引きました」
「小倉さんまで!? 違うんです! 私が言いたいのはそういうことではなくて!」
「じゃあ何ですか?」
「おかしいと思いませんか? この神崎さんという方は、何でお尻に水着が食い込んだまま泳いでいたのか」
「ああ」
「そして反対に、この肩の部分。ここは水着がちょっと余ってます。普通こんな状態で泳いでいたら、気になって集中できないはずでしょう?」
「ああ」
「確かに。ちょっと変ですね」
「やっと分かってくれましたか」
誤解が解け、山崎は少し安心した表情を見せた。その山崎に、エリナが問いかけた。
「えっと…つまり、どういうことなんですか?」
この質問には、マイコが代わりに答えた。
「この人は、自分で水着を着ていない可能性がある。誰かに着せられたのかもしれない」
マイコに続いて、山崎が言った。
「あと、後頭部も見てください」
遺体の後頭部は、所々髪の毛が抜け、頭皮が赤くなっていた。
「これは…誰かと争ったんでしょうか?」
「争ってこうはなりません。他に目立った外傷も見当たりませんし、髪の毛だけというのはおかしい」
「じゃあ、誰が…?」
「…いろいろ気になることが出て来ましたね。東堂さん。OSCの方々はもう?」
「はい。もう一つの小さい方のプールで練習してらっしゃいます。何でも、明日は大事な大会があるそうで」
「そうなんですか。では、そちらに向かいましょう。一人一人詳しい話を聞く必要がありそうです」
「はい! あ、ちょっと待ってください!」
プールを出ようとした山崎を、エリナが呼び止めた。
「どうしました?」
「私、ちょっと今日は荷物が多くて」
そう言って、エリナはプールの隅に置いていた大きなキャリーバッグを持って来た。
「さ、行きましょう!」
「いやその前に、何でそんな大きな荷物持ってるんですか?」
「何でって、私、昨日まで海外だったんですよ。それでついさっき空港に着いて、その足てここまで来たんです。何で一緒に仕事してるのに知らないんですか?」
「ああ、そういえば、一週間ぐらい見かけませんでしたね。そうですか。海外旅行に行ってたんですか」
「山崎さんって、全く私に興味ないんですね。山崎さん以外みんな知ってたのに。カオルさんでさえ知ってるんですよ?」
「え? そうなのか?」
「うん! 知ってるよ! ていうか、この前ご飯食べながらその話してたじゃん!」
「全く覚えてない…」
「そんなんだから、山崎さんにはいつまで経っても恋人ができないんですよ」
「嫌なこと言わないでくださいよ」
「大丈夫! お兄ちゃんにはカオルがいるから!」
「あ、そうか…。それなら…」
山崎は、何か思いついたような顔をした。
「どうしました?」
「東堂さん。後でそのキャリーバッグ、借りてもいいですか?」
「え? まあ、変なことに使わないなら」
「ありがとうございます」
エリナはもう何度も見て来たから分かる。この山崎の不気味な笑顔は、何かを閃いたときの顔なのだ。




