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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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泳ぐ女8

 午前五時五十三分。千鶴は自宅のベッドで目を覚ました。まだかなり眠い。体もだるい。昨日は結局ほとんど眠れなかったから当然だろう。

ベッドで寝たまま起き上がれないでいると、やがて枕元の目覚まし時計が六時を知らせた。千鶴は目覚ましを止めると、何とか体に力を入れて、ベッドから立ち上がった。

正直、今日だけは練習を休もうかと思った。肉体的にも精神的にも、疲労が半端ではなかったからだ。選手権大会に出られないことが決まったから休みたいと言えば、誰も咎める者はいないだろう。しかし、千鶴にとっては、今日だけは練習を休むことは許されなかった。麻帆がプールで死んでいることが発覚すれば、最も疑われるのは自分だ。その張本人が珍しく練習を休んだとなれば、ますます怪しくなる。千鶴は自分に疑いの目が向くのを避ける為にも、今日は絶対に練習を休むことはできなかった。

ベッドから出た千鶴は、いつものようにテレビを見ながら食パンとコーヒーを食し、食べ終われば洗顔と歯磨きを済ませ、軽めの化粧をし、服を着替え、荷物を用意し、そして車でOSCへと向かった。

全ていつも通りの行動を取った千鶴だったが、一つだけイレギュラーがあった。化粧をする際、鏡で自分の顔を見ていると、口の下のあたりが切れて、血が出ているのを発見したのだ。千鶴は記憶を辿り、その傷が付いた原因を探った。そして思い出した。昨日、麻帆に殴られたときだ。車のトランクで寝ている麻帆を抱えようとしたとき、あの女が気絶している振りをして殴りかかって来たのだ。自分の髪の毛を抜いていたことにしても、転んでもただでは起きない、麻帆の執念深い性格が、今もなお現れていた。

傷は化粧で隠そうとも思ったが、どうせ練習に入ってしまえば化粧は落ちてしまうと思ったので、少々目立ってはしまうが、絆創膏で隠すことにした。もしその傷は何かと聞かれたら、うっかり転んだのだとでも言っておけばいい。千鶴は絆創膏を口の下に貼り、家を出た。

OSCの駐車場には既に何台かパトカーが停まっていた。おそらくOSCに最初に来た人間、大方OSCの従業員の誰かが呼んだのだろう。彼らは毎日選手たちが来る前にプールを掃除している。そのときに麻帆の死体を見つけるはずだ。

千鶴は、自分の計画が完璧に遂行されたことを確信し、思わず顔がにやけた。いけない。こんな顔を誰かに見られては怪しまれる。千鶴は真顔に戻り、いつものように裏口からOSCに入り、少し早足で更衣室へと向かった。その道中、千鶴は、今後自分がなすべきことを考えていた。自分の書いたシナリオ通りに周りが動いてくれればいいが…。いや、そうではない。自分が動かすのだ。周りに期待ばかりしていては、自分の目的は達せられない。自らが行動しなければ、目標は達成できないのだ。それは、競泳で痛いほど学んできたことだ。絶対にこの計画を完遂してみせる。そして、再び夢の舞台へと上がるのだ。

そんなことを考えながらOSCの廊下を歩いていると、角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。

「いったー!」

早足で歩いていた千鶴は突き飛ばされるような形になり、その場に倒れてしまった。

「すいません。大丈夫ですか?」

 ぶつかった瞬間、顔は見えなかったが、声を聞くに、ぶつかった相手はどうやら男性らしい。聞いたことのない声だ。OSCの関係者ではなさそうだ。ということは、警察の人間だろうか。男は、千鶴の方に手を差し出していた。

 千鶴はその手を取り、その男に立ち上がる補助をしてもらった。

「お怪我はありませんか?」

「大丈夫です」

「すいません。私の不注意で」

「いえ、私が悪いんです。ちょっと考え事をしてたから―」

「もう! お兄ちゃんはドジなんだから!」

 その男は全身に黒いスーツを身に纏っていたが、それがおしゃれに感じられるほど、スマートに着こなしていた。スーツ越しでは分かりにくいが、おそらく相当スタイルが良いのだろう。筋肉質ではないから、あまり鍛えている訳ではなさそうだ。年齢は二十代後半といったところだろうか。しかし、二十代前半と言われても信じてしまいそうなほど若々しくも見える。

 そして、その男の隣には、男とそれほど身長が変わらない、しかし顔は子猫のように愛らしい女が立っていた。女はその小さな顔に、ビー玉のような丸くて大きな目が二つ、高く伸びた鼻、小さくてまとまった口、そして左目の下の泣きぼくろと、まるで世の女性から理想の顔のアンケートを取り、その特徴を全て盛り込んだような、完璧な顔立ちをしていた。更に驚くべきは、その女、顔だけでなく、スタイルまで完璧だった。豊満な胸に、くびれのあるウエスト、そしてキュッと上がったお尻。脚はすらっと長く伸びていた。

物心ついた頃から競泳一筋で、自分の見た目など気にもかけなかった千鶴にとって、その女は少女漫画から出て来たような、誰もが憧れる「女の子」だった。

男のことを「お兄ちゃん」と呼んでいたことから察するに、この男と女は兄妹だろうか。だとしたら、こんなに美男美女の兄妹がいるのかと、千鶴は自分の目を疑いたくなった。

「はい、どうぞ」

 千鶴が兄妹に見惚れていると、千鶴がぶつかった拍子に落とした鞄や水着入れの袋を、妹が拾ってくれていた。

「ああ、ありがとう」

「どういたしまして!」

「じゃあ、私はこれで―」

「ちょっと待ってください!」

 千鶴がその場を離れようとした瞬間、兄の方が千鶴を呼び止めた。千鶴は思わずその場に固まった。

「な、何か…?」

「あなた…」

 何か変なことを言っただろうか? 自分が怪しい人間だと疑われるようなことを。いや、何も言っていないはずだ。仮にこの男が刑事だったとして、この時点で自分に疑いをかけるようなことはさすがに不可能だ。大丈夫。動揺するな。動揺してはボロが出る。

 しかし、男はじっと千鶴の顔を見つめるだけで、何も言おうとしなかった。千鶴にとっては、それが気味悪かった。

「あの…何かしら?」

 千鶴はもう一度聞いてみた。やがて、男が口を開いた。

「やっぱりだ…」

「え…?」

「あなた…野々宮千鶴さんですよね!?」

「は、はい…。そうですけど」

「やっぱりだ! どこかで見た顔だと思ったんです! オリンピックでの活躍、覚えてます! あれは何年前だったかなあ」

 何だ、ただの昔のファンか。心配して損した。千鶴はほっと胸を撫で下ろした。

「九年前です」

「もうそんなに経ちますか。時間が経つのは早いですねえ。いやしかし、まさかこんな所で野々宮さんに会えるなんて…。後でサイン頂いてもいいですか?」

「ええ、もちろん」

「ありがとうございます!」

「ねえ、お兄ちゃん」

 千鶴と兄が話している横で、妹はさっきから退屈そうにしていた。

「その人誰? 私知らないんだけど」

「こら。野々宮さんに失礼だろ」

 全くだ。この妹、見た目こそ完璧だが、中身は凡人以下らしい。

「この人はな、野々宮千鶴さんって言って、有名な水泳選手なんだよ。オリンピックで金メダルも取ったことあるんだからな!」

「へえ、そんなすごい人なんだ」

「銀です」

「え?」

「私が取ったのは、金じゃなくて、銀メダルです」

「あ…これはどうも…すいません」

 兄はばつが悪そうな顔をした。妹は意地の悪い笑みを浮かべて、自分の兄を見ている。

「いいえ、別にいいんです。もう昔の話ですから。世間では、私のことを覚えてる人の方が少ないんですから。名前を覚えて頂いてるだけでも嬉しいです」

「そう言って頂けるとありがたいです。ところで、一つお聞きしたいのですが」

「何ですか?」

「あの、プールってどっちに行けばいいんでしょうか? ちょっと迷ってしまって」

「ああ、プールならこの先を真っ直ぐ行けばすぐです」

 千鶴は自分の背後を指差した。

「あ、そうですか。ありがとうございます。助かります」

「良かったね、お兄ちゃん! 場所が分かって!」

「では、我々はこれで。また後でサインを貰いに伺います。あ、あと…」

「何ですか?」

「ここ、お怪我されたんですか?」

 山崎は自分の口のあたりを指で押さえながら尋ねた。

「あ、ああ。はい。ちょっと転んじゃって」

「そうですか…。不思議ですね」

「不思議?」

「ええ。人間、前に転んだときは、顔を守ろうとして無意識に先に手が出るものだと思うんです。野々宮さんのようなアスリートの方なら、その反応速度はさらに速いと思うんですが…」

「それは…スマホを見てたからです。歩きスマホって言うのかしら。本当はいけないんだけど…。だから、それで手が塞がっちゃって…」

「そうですか。気をつけてくださいね。歩きスマホも危険なので」

「はい。…あの…」

「何か?」

 千鶴は、さっきからずっと気になっていたことを尋ねた。

「今さらなんだけど、あなたがたはどちら様?」

「あ、これは申し遅れました。私、山崎と言います。警察の者です」

「それで、私はお兄ちゃんの妹のカオルです! よろしくね! 千鶴さん!」

 千鶴は、その兄妹の顔をしっかりと見据えた。


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