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山崎警部と妹の日常  作者: AS
35/153

泳ぐ女6

 翌日、OSCはいつも通り練習を始めていた。ただ、選手権大会が二日後に迫っているとあって、選手たちの練習は軽めの調整に終始した。それは、選手に選ばれていない千鶴たちも同様だった。この場で本腰を入れて泳ぐのは、さすがに周りから浮くことになる。本来千鶴はそういうことを気にしない性格だが、今日はこの後、もしかするとオリンピックよりも体力を使うかもしれない作業が待っている。あまり本気で泳ぐのは、計画の失敗を招く可能性がある。千鶴は他の選手たちと同様、今日の練習を軽めに流すことにした。

ただ、練習中にもすべきことはあった。

練習が中盤に差し掛かった午後二時頃。千鶴はトイレに行くと言って、一度プールを離れた。しかし、千鶴はトイレには向かわず、そのまま更衣室へと歩いて行った。

更衣室に入ると、千鶴は麻帆のロッカーを開け、鞄の中を漁った。こういうとき、OSCの選手たちの不用心さは役に立った。千鶴は麻帆の鞄の中から財布を取り出し、ぱっと見ただけでは分からない、一番奥にあるポケットから一枚の写真を抜き出した。その写真には、麻帆とその隣に爽やかな男性が映っている。麻帆が財布の中に恋人とのツーショット写真を入れていることは、由利から聞いて知っていた。何でも、事あるごとにその写真を眺めては、うきうきした笑顔を見せていたそうだ。この写真が、千鶴の計画を成功に導く大事なファクターの一つだった。

写真を自分の鞄の中に入れた後、千鶴は速やかに更衣室を後にし、プールへと戻った。その後はさっきまで通り、午後五時が来るまで練習に参加した。

そして午後五時になり、今日の練習は終了となった。大会が二日後に迫っていることもあり、前の日同様、残って練習する者はおらず、プールにはあっという間に誰も人がいなくなった。

千鶴たちは更衣室に戻り、服を着替えながら談笑していた。その談笑の相手は由利と洋子というお決まりのメンバーだったが、千鶴は終始麻帆の方を気にしていた。財布から写真が無くなっていることに気付きはしないかと気が気でなかったが、どうやら気付かなかったようだった。麻帆は写真をあまり人に見せたくなかったのか、いつも財布の奥のポケットに入れていたため、わざわざ確認したりはしないようだった。

麻帆が更衣室を出たのを確認してから、千鶴は由利と洋子に切り出した。

「じゃあ、そろそろ行きましょうか」

「そうですね。行きましょう! 私昨日から楽しみにしてたんです!」

「あら、そうなの?」

「はい! だって、千鶴さんとご飯行くの久しぶりじゃないですか!」

「そうだったかしら?」

「そうですよ! 最近は練習が遅くまであったから」

 無口な洋子も、由利と同じ気持ちであると、表情で千鶴に語りかけていた。

「じゃあ、今日はいっぱい食べて、いっぱい話しましょうか。みんなそれぞれ言いたいことが溜まってるでしょ?」

「もう溜まりまくってますよ! ねえ、洋子?」

「うん。そうだね」

 そんな話をしながら、三人はOSCから徒歩で十分ほどの場所にある居酒屋「たらふく」へと向かった。由利と洋子は徒歩だったが、千鶴はいつもの通り車で来ていたので、OSCから「たらふく」の駐車場まで運転して行った。OSCの距離から考えて、車よりも徒歩の方が早く到着するため、千鶴と、由利、洋子の二人は一旦別れ、別々に「たらふく」へと向かった。もちろんこうなることも千鶴の計画通りだった。

 千鶴は「たらふく」へ向かう車の中で、運転しながら電話をかけた。電話のコール音が二回鳴った後、ガチャッと相手が電話に出る音がした。

「もしもし」

「もしもし。今、大丈夫」

「大丈夫じゃないです」

「そう言わずに、ちょっとだけだから」

 電話の向こうから溜息が聞こえた。

「…何ですか?」

「ちょっと、二人で話さない?」

「私は千鶴さんと話すことなんてありません」

「私はあるのよ。これもいい機会だし。ね? ちょっとだけだから」

「…すいません。私、この後用事があるので」

「いいのかしら。あなたと大木コーチの関係、みんなに言ってもいいのよ?」

 電話の相手が少し動揺しているのが分かった。

「どういうつもりですか?」

「あなたと話がしたいのよ。それだけ」

「…何を企んでるの?」

「人聞きが悪いわね。何も企んでなんかいないわよ」

「…怪しい。もう切りますね。話なら別に今日じゃなくても、後日でいいですよね? もしくはメールでお願いします」

「お願い。今日、直接話したいのよ」

「お疲れ様です」

「待って!」

 警戒心の強い女だ。だが、麻帆が自分の要求に応じないだろうことを、千鶴は既に予想済みだった。その為に、さっき重要なピースを手に入れたのだ。

 千鶴は、麻帆が電話を切ってしまう前に慌てて言葉を続けた。

「麻帆ちゃん」

「何ですか?」

「麻帆ちゃん、財布の中身はちゃんと確認してる?」

「は?」

「財布の奥のポケットに入れてる大事な写真。誰かに盗まれたりしてない?」

 電話口から相手の声が聞こえなくなり、その代わりにがさがさと何かを探っているような音が聞こえた。やがて、相手が再び、今度は怒気を含んだ声で話し出す。

「最低! どういうつもり?」

「こうでもしないと、あなた来てくれないでしょ?」

「頭おかしいんじゃない!? 早く返して!」

「私たちがよく行く居酒屋、分かるわよね? そこの駐車場に来て」

「はあ? さっきも言ったけど、私この後予定があるんです! あんたが渡しに来るべきでしょ!?」

 相手は少しずつ千鶴に対して敬語を使うのを忘れているようだった。ただ、千鶴にとってそれは好都合だった。相手が冷静でないほど、計画は遂行しやすくなる。

「取りに来るか来ないかはあなた次第よ。着いたら電話ちょうだい。間違っても店に入って暴れたりしないでね」

「ちょっと待っ―」

 そこまで聞いて、千鶴は電話を切った。ああは言ったが、麻帆は必ず写真を取りに来ると確信していた。麻帆は、写真ももちろん大事だが、自分を虚仮にした相手に直接文句を言ってやらないと気が済まない性格であることを、千鶴はよく知っていたのだ。

 麻帆と電話している間に、千鶴の車は既に「たらふく」の駐車場に着いていた。駐車場と言ってもそんなに立派なものではなく、たまたま空いていた空き地のようなスペースを無理矢理駐車場にしたような場所で、明かりも、頼りない、小さな照明が一つ付いているだけで、人目もつかない薄暗い空間だった。

 千鶴は車を降りて、「たらふく」の正面入口へと向かった。

 この「たらふく」は個人経営の居酒屋で、OSCのすぐ近くにあることもあり、選手やコーチたちの御用達になっている店だった。特に千鶴、由利、洋子の三人はこの店のヘビーユーザーで、店主やアルバイトの店員たちから顔と名前を覚えられているほどだった。

 千鶴は店内に入ると、いつも利用している奥の席へ向かった。由利と洋子は既に席についていて、メニューを見ながら何を食べるか検討していたようだった。

 由利は千鶴が来たのを確認すると、千鶴に向かって大きな声で話しかけた。

「ちょっと千鶴さーん! 遅いですよー!」

「ごめんごめん。車の中でスマホ見てたら遅くなっちゃった」

「もう! 先に何個か頼んじゃいましたよ!」

「ああ、ありがとう。洋子ちゃんも頼んだの?」

「はい。サラダとかだけですけど」

「そう。じゃあ私も頼もうかな」

「ていうか千鶴さん! 何で今日車で来てるんですか!? アルコール飲めないじゃないですか!?」

「ああ、ごめんなさい。ついうっかりしてて…」

「もう!」

 今日の計画に車は絶対に必要なのだ、とはさすがに言えない。

 それからしばらくは、由利の一人劇場と化した。話す内容のほとんどは麻帆や、麻帆を選手に選んだ大木への悪口だった。もちろん麻帆と大木の関係のことは知らないので、その悪口の内容は具体性の無い、由利の独りよがりだと言われても仕方のないものに終始した。

 由利の話のトーンがどんどん上がり始めた頃、千鶴が頼んだ生ビールを女性店員が持って来た。「お待たせいたしました!」という声と共に、女性店員がジョッキをテーブルに置いた瞬間、店員が手を滑らせてビールを零してしまった。

「申し訳ありません!」

 アルバイトの女子大生らしき店員が大きな声で謝罪している間に、テーブルに零れたビールはどんどん広がって行き、やがて千鶴の服を濡らした。

「申し訳ありません!」

 もう一度謝罪した店員に、千鶴は優しく笑いかけた。

「いいのよ。布巾ある?」

「はい! すぐにお持ちします!」

 そう言って、女性店員は店の奥へと走って行った。店員が戻って来るまでの間、由利と洋子が感心するような顔で千鶴を見ていた。

「千鶴さんって、本当に優しいですよね」

「え? 何が?」

「だって、普通怒りますよ。服にビールかけられたら。私なら絶対めちゃめちゃ怒ると思います」

「そんなに怒ったって仕方ないじゃない。向こうもわざとやった訳じゃないんだし」

「そうやって割り切れる所が優しいんですよ。ね? 洋子」

「うん。千鶴さんは、もうちょっと怒ってもいいと思います」

「あら。私だって怒ることぐらいあるわよ?」

「本当ですか? じゃあ、最近いつ怒りました?」

 昨日だ、とは答えなかった。

「そうねえ…。いつだったかしら…。忘れちゃった」

「ほらやっぱり。千鶴さん、怒ったことないんじゃないですか?」

「それはさすがに無いわよ」

「あ、でも…」

 洋子が少し遠慮しながら口を開いた。

「普段怒らない人が本気で怒ったら恐ろしいって、よく言いますよね」

「ああ確かに! 千鶴さん、今まで本気で怒ってヤバくなっちゃったことってあるんですか?」

 まさに今がそうよ、と答えたくなったが、千鶴はにやにや笑って「さあどうかしら」とはぐらかした。

 千鶴が店に入ってから三十分ほど経った頃、千鶴のスマホが鳴った。スマホの画面には、「神崎麻帆」と名前が出ていた。

「ごめん。ちょっとトイレ行って来るね」

「あ、はい…」

 由利の話の途中で突然千鶴がトイレに立ったので、由利と洋子は少し不審に思ったようだった。

 二人を残して、千鶴は少し早足でトイレに入り、電話に出た。

「もしもし」

「着いた。早く出て来て」

 麻帆はぶっきらぼうな言い方で言った。

「すぐ行くから、そこで待ってて」

 そう言って、千鶴は電話を切った。そして、トイレのドアを少しだけ開け、その隙間から店内の様子を窺った。由利と洋子は会話に夢中のようだった。他にもまばらではあるが客は入っている。だが、誰もこちらを気にしている者はいなかった。

 千鶴は素早くトイレから出て、由利や洋子だけでなく、他の客や店員にも見つからないように体を屈めて店から外へ出た。

 店を出ると裏の駐車場に回り、停めてある自分の車の周辺に近寄ると、Tシャツにスキニージーンズを履いた麻帆が立っていた。千鶴は麻帆の姿を見つけると、緊張を悟られないよう冷静を装って、麻帆に声をかけた。

「ごめんね。呼び出しちゃって」

 スマホの画面を見ていた麻帆は、千鶴の声に気付き、同時に千鶴を睨み付けた。

「とりあえず写真を返してください。話はそれからです」

 千鶴はジャケットの内ポケットから写真を一枚取り出し、麻帆の方に差し出した。麻帆は写真を乱暴に奪い取り、その写真をまじまじと眺めて、それが自分のものであることを確認した。

「どういうつもりなんですか?」

 確認が終わり、写真を財布に戻すと少し落ち着いたのか、麻帆は千鶴に問いかけた。

「だから電話でも言ったじゃない。あなたと一度ちゃんと話したかったのよ」

「だったらこんな時間にこんな場所で話さなくてもいいはずでしょ? 何か企んでるに決まってる」

「何を企むって言うのよ。ここを選んだのは、確実に二人きりで話したかったから。他の誰にも聞かれたくなかったからよ」

「どうだか。人の物を盗る人間の言うことなんて信用できませんね」

「そのことは謝るわ。こうでもしないと来てくれないと思ったから」

「もういいです。で? そこまでして私に話したいことって何ですか? 電話でも言いましたけど、私この後予定があるんです。千鶴さんのせいで遅刻ですよ」

「ごめんなさいね」

「もう謝罪はいいですから、早く本題に入ってください」

「そうね。じゃあ、単刀直入に言うわね。麻帆ちゃん。明後日の大会、出場辞退してくれない?」

「は?」

「出場を辞退して、私に権利を譲って欲しいの」

「そんなの、私が了承する訳ないじゃないですか」

「あなたの言うことも分かるわ。大会に出る為に、不正とはいえ、あなたも犠牲を払ったものね。でも、あなたも分かってると思うけど、明後日の大会は私にとって、競泳選手としてのラストチャンスなのよ。それに対して、あなたはまだ若い。これからいくらでもチャンスはある。最後くらい、私に花を持たせてくれても罰は当たらないんじゃないかしら。あなたなら、いつか正当な方法で選手権大会、いいえ、オリンピックにだって出られるはずよ。だから―」

「話になりませんね。そんなくだらないことを言う為にわざわざ呼び出したんですか?」

「…」

「時間の無駄でした。帰ります」

「…決意は変わらないのね」

「当たり前です」

「残念だわ。あなたにはもっと―」

 そこまで言って、千鶴が突然話すのをやめた。麻帆はそれを少し訝しんだ。

「何ですか?」

「いや、あれ、何かなと思って…」

 そう言って、千鶴は麻帆の背後を指差した。麻帆は千鶴の指先を追うようにして、自分の背後を振り返った。

 その瞬間、千鶴は麻帆に近づきながら、懐から黒く、四角い物体を取り出した。その物体の側面に付いているスイッチを押すと、黒い物体はビリリリリとけたたましい音を立て、その先端から青白い閃光を放った。

 千鶴はその光を、後ろを向いている麻帆の右の脇腹に思い切り押し当てた。その瞬間に、麻帆は驚きと激痛から大声を上げようとしたが、千鶴に後ろから手で口を塞がれ、声を上げることができなかった。

 二、三秒ほど黒い物体を押し当てていると、やがて麻帆は声を上げなくなり、目を閉じて千鶴に体を預けるようになった。千鶴は、麻帆が完全に気を失っているのを確認し、すぐ側に停めてある自分の車のトランクを開け、その中に麻帆を寝かせた。そして、トランクを閉じた後、千鶴は急いで「たらふく」の店内へと戻った。

 店の入り口付近に誰も人がいないことを確認し、千鶴は出たときと同じように、誰にも姿を見られないようにトイレへ戻って行った。

 トイレの中で、千鶴は鏡で自分の顔を見た。酷く汗をかいている。このままでは由利と洋子に不審がられる。千鶴はポケットからハンカチを出して汗を綺麗に拭き取った。

 ここまで来てしまったら、もう後戻りはできない。自分に残された選択肢は、この後の計画を完璧に遂行するだけだ。失敗は許されない。千鶴はこの後の行動を頭の中でシミュレーションし、それが固まったところでトイレを出た。

「あ、遅いですよー、千鶴さーん! 何してたんですかー!?」

「ごめんね。ちょっと化粧に時間がかかっちゃって」

 テーブルに戻って来た千鶴に、もうすっかり顔が赤くなっている由利が絡んで来た。千鶴が席を外していたのはほんの十分ほどだったが、由利はその間に出来上がってしまったようだった。洋子が申し訳なさそうな顔で千鶴を見ている。

「由利ちゃん、結構飲んだみたいね」

「すいません。止めた方がよかったですよね」

「洋子ちゃんが謝ることじゃないわよ。それに、今日はとことん飲むつもりで来たんでしょ? いいじゃない、飲ませてあげれば」

「はい。そうですね」

 それから、千鶴たち三人は二時間ほど食事をし、由利の呂律が回らなくなってきたのを合図に店を出た。

「ごめんね。送ってあげられなくて」

「いえ。ご飯代を出してもらってるんですから、そこまでわがまま言えないです」

 店を出た所で、千鶴と、由利を肩に抱えた洋子が話していた。

「タクシー代出そうか?」

「そんな、大丈夫です。駅も近いですし、由利も自分で帰れると思いますから」

「そう? じゃあ任せてもいい?」

「はい。今日はありがとうございました」

「こちらこそ。また三人でご飯行きましょう」

「はい。じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 そう言って、洋子は由利を抱えたまま駅の方へ歩いて行った。千鶴は洋子たちの姿が見えなくなったのを確認してから駐車場に向かった。

 自分の車の元へ戻って来た千鶴は、トランクの方に一瞥をくれた後、運転席に乗り込み、アクセルを踏んだ。


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