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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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泳ぐ女4

 翌日、千鶴はいつも通りにOSCのプールで泳いでいた。周りには由利や洋子、そして麻帆らOSCの選手たち。プールサイドには大木。いつもと変わらぬ風景だったが、そこにある空気はぴんと張り詰めていた。それもそのはずで、今日の練習が終われば、三日後に迫った選手権大会の出場者が発表される。既に出場が間違いないと思われる選手たちは時折笑顔も見せるなど余裕のある表情をしているが、千鶴たちは気が気でない様子が簡単に見て取れた。いつもより動きが硬い。タイムも伸びていない。特に気の弱い洋子などは、さっきからほとんどプールにすら入っていなかった。それほどまでに、本番を控えた選手たちの精神状態はナーバスになる。

 その中で、麻帆だけは他とは違っていた。彼女も千鶴たちと同じく大会への出場は微妙なタイムなのだが、そんなことは気にも留めていないような素振りでプールを往復していた。元々気負うような性格ではないが、そうは言っても少し変だった。まるで自分は必ず選出されると確信しているかのようだと、OSCの選手やコーチたちはひそひそと話していた。ただ一人、大木を除いて。

 そうこうしているうちに、あっという間に午後五時になり、練習は切り上げられた。練習が終わると、選手たちは一人残らずプールから速やかに退散し、更衣室で着替えを済ませ、全員がミーティング室に集められた。

 部屋には長机が六つほど並べられており、二十人ほどのOSCの選手たちがぺちゃくちゃとお喋りをしながら大木たちがやって来るのを待っていた。

 千鶴は覚悟を決めたような表情で真っ直ぐ前を見据え、由利と洋子はさっきからそわそわと落ち着かない様子で、意味も無く鞄を漁ってみたり、用も無いのにスマホをいじってみたりしていた。そして麻帆はというと、我関せずといったような雰囲気で、ずっと自分の前髪を気にしていた。

 それぞれがそれぞれの待ち時間を過ごしていると、ミーティング室のドアをコンコンとノックする音がした。そして次の瞬間、大木をはじめOSCのコーチたちが入って来た。大木の手にはノートが握られている。あの中に選手権大会の出場メンバーが記載されているであろうことは、この場にいる誰もが察することができた。

「はいはい、静かに。ミーティング始めるぞ。全員いるな?」

 大木が学校の先生のような口調で話し始める。

「みんな分かってると思うが、これから三日後の選手権大会に出場するメンバーを発表する。名前を呼ばれた者は、順番に返事をしていってくれ。それじゃ発表する」

 大木はノートを開き、種目と名前を順に読み上げて行った。名前を呼ばれた者は「はい」と部屋全体に響くような通る声で返事をしていく。

 返事をした者の表情は様々だった。当然だと言わんばかりの表情を浮かべる者。自分の名前が呼ばれたことに驚き、喜ぶ者。名前は呼ばれたものの、自分の出たかった種目ではなかったために肩を落とす者。また、選抜に漏れたことが確定し、顔を伏せる者。千鶴にとってこれらは、何度も見て来た光景だった。

 そして、悲喜こもごもの中、遂に千鶴の出場する種目の選手が発表される順番となった。千鶴が出場を目指しているのは百メートル自由形。千鶴は自由型以外の泳ぎはあまり得意ではなく、現役選手の中では老齢な彼女にとって、自分のベストの泳ぎができるのは百メートルが限界だった。ここで名前を呼ばれなければ、この後も呼ばれることはないだろう。そのことは、千鶴のみならず、この場にいる誰もが暗黙のうちに理解していることだった。

「では次。百メートル、フリー」

 大木のよく通る声が種目を述べる。その瞬間、千鶴だけでなく、他の選手たちまでもが息を飲んでいた。

「百メートル、フリー。神崎麻帆」

「はい」

 麻帆は特に感情のない、無機質な声で返事をした。選手に選ばれたことが、何ら特別なことではなく、さも当然であると言いたげな返事だった。

 対して千鶴は、周りの予想とは反して、真っ直ぐと正面を向いて、伸びた背筋を崩さず座っていた。

 周りの選手たちは、声にこそ出さないものの、千鶴が選抜から漏れたことに少なからず動揺しているようだった。部屋の空気が張り詰めていた。しかし、その空気を感じているのかいないのか、千鶴は相変わらず前を見据えているだけだった。



「名前を呼ばれた者は、三日後の大会に備えてしっかり準備をしておくように。選ばれなかった者は、次の大会では名前を呼ばれるように努力するとともに、選ばれた選手たちのサポートを頼む。では、解散」

 大木の言葉で、ミーティングは解散となった。静かだったミーティング室は、一瞬にして話し声で満たされた。

 千鶴が座ったままでいると、後ろから由利と洋子が声をかけて来た。

「千鶴さん」

 由利は、話しかけるのをためらうような声で千鶴を呼んだ。

「ああ、由利ちゃん。それに洋子ちゃんも。二人とも残念だったわね」

 由利と洋子もまた、選抜から漏れていた。

「私たちのことなんかいいんです。それより千鶴さんは―」

「私の方こそいいのよ。むしろ、これで諦めがついたから良かったと思ってるぐらい。だから、そんなに気を遣わないで」

「千鶴さん…」

 由利は情けない声を出した。その後ろでは洋子が泣きそうな顔をしているものだから、千鶴は「何で洋子ちゃんがそんな顔をするのよ」と言って笑った。

 強がっている訳ではない。千鶴の言葉は本心だった。今の競泳界に、もう自分の泳ぐレーンは残されていないのだと、千鶴は痛感したのだ。これ以上ここにいる意味も無い。引退しよう。千鶴は、そう心の中で決めていた。

「さ、帰りましょ」

 そう言って千鶴は立ち上がり、由利と洋子を連れてミーティング室を出た。知らないうちに、部屋に残っていたのは千鶴たち三人だけだった。他の選手やコーチたちはとっくに帰ってしまったようだった。かの神崎麻帆も、いつの間にかいなくなっていた。

 廊下に出た三人は、出入り口に向かって並んで歩いていた。

「でも、私たちはともかく、千鶴さんが選ばれないのはやっぱり納得いきません!」

 由利が文句を言い始めた。

「由利ちゃん。もういいのよ」

「千鶴さんはよくても、私はよくありません! だって、千鶴さんとあの子は、そんなにタイムに差がある訳じゃないじゃないですか!」

「同じくらいの力量なら、若い方の選手を使いたいっていうコーチの方針なのよ」

「だからって、今回のはやっぱりおかしいですよ! 確かに最近あの子は調子が多少良かったみたいだけど、あの子はいつも本番じゃ結果を出せてないじゃないですか! それに比べて、千鶴はさんは本番にすごく強い! 本気でOSCからオリンピック選手を出すなら千鶴さんを選ぶべきですよ! それに、あの子にはこれからまだまだチャンスがある! でも千鶴さんは―」

 そこまで言って、由利は黙った。勢い余って、言わなくてもいいことまで言ってしまいそうになったからだった。

「ごめんなさい」

 由利は申し訳なさそうに千鶴に謝った。しかし、千鶴は不機嫌そうな顔は一切見せず、由利に笑いかけた。

「別にいいのよ。むしろ、由利ちゃんがそこまで怒ってくれて嬉しいわ。ありがとう」

「そんな―」

 千鶴の言葉に嘘は無かった。大会出場選手に自分ではなく麻帆が選ばれたことにも納得していた。

 ただ、由利の言うことにも一理あると千鶴は思っていた。千鶴にとって、再びオリンピックの舞台に上がるのに、三日後の選手権大会が最後のチャンスになるだろうことは、大木も充分に分かっていたはずだ。実力が全ての世界とはいえ、長年OSCに貢献した選手に対してラストチャンスを与えないほど慈悲のない人間ではないことは、長い付き合いである千鶴はよく知っていた。そこだけが引っかかっていたが、千鶴はそれ以上は考えないことにした。考えても仕方のないことだ。どっちにしろ競泳はもう引退だろうと思っていた。それが数日早まっただけの話だ。気にすることはない。

 そう千鶴が自分の感情に折り合いをつけていると、あることを思い出した。

「あ、ごめんなさい。ミーティング室に忘れ物して来ちゃった」

「忘れ物?」

「うん。眼鏡入れを机に置いて来ちゃった。取りに行って来るから、先に帰ってて」

「分かりました」

 そう言って、千鶴は由利、洋子と別れ、今来た道を戻って行った。

 時刻は既に午後六時半を回っており、外は夕方から夜の時間帯へと移行しつつあった。

 ものの数分でミーティング室の前に戻って来ると、千鶴は少し違和感があった。誰かの気配を感じる。部屋の中に誰かいるのだろうか。さっきのミーティングが終わった後、選手もコーチも各々帰って行ったはずだ。考えられるとしたら、誰かが使い終わった部屋の掃除でもしているのだろうか。あるいは不審者か?

 千鶴は少し怖かったが、眼鏡が無くては帰宅した後に困るし、何より違和感の正体を突き止めたいという好奇心に駆られ、目の前のドアを思い切って開けた。

「うわっ!」

 その瞬間、男の野太い声が上がった。部屋の中には、千鶴が予想だにしなかった光景があった。

 さっきまでOSCの選手やコーチたちが集っていたミーティング室の真ん中で、大木と麻帆が抱き合っていたのだ。

「ち、違うんだ…。これは…」

 突然千鶴が現れたことに、大木は心底慌てているようだ。麻帆の方はというと、特に動揺した様子も見せず、千鶴の方を睨んでいた。

「何をそんなに焦ってるんですか? 別に私は人の恋愛にあれこれ言ったりしませんよ? まあびっくりはしましたけど。そうか。麻帆ちゃんが昨日言ってた彼氏って、大木コーチのことだったのね」

 千鶴は特に慌てた様子も見せず、部屋に入って、さっきまで自分が座っていた席から眼鏡ケースを手に取った。

 だが、大木の方は相変わらずそわそわした様子を見せていた。何をそんなに動揺する必要があるのだろう。別に選手とコーチが恋愛関係になるなど珍しいことではい。共に上を目指すパートナーとして相手を思う気持ちが愛情に変わることもあると、千鶴は理解していたし、実際結婚までした選手とコーチを何組か知っていた。だから、大木の落ち着きのない挙動は、明らかに変だった。

 そんな大木を見かねたのか、麻帆が大木に向かって口を開いた。

「ちょっと、まさかこのまま何も言わないつもりですか?」

「いや、だってお前…」

「もう見られたんだから言い逃れはできませんよ。皆にばれるのも時間の問題です。それなら、ここで正直に話しておいた方が得策ですよ」

「しかしだな…」

 一体何の話をしているのだろう。千鶴が不審に思っていると、今度は千鶴に向かって麻帆が話しかけた。

「千鶴さん。勘違いしないでください。私が付き合ってるのは大木コーチなんかじゃありません。私がこんなおじさんと付き合う訳がないでしょ? 私の彼氏は一流企業に勤めてるイケメンサラリーマンです」

「え? じゃあ…」

「あと、浮気とかでもないですから。どうせ浮気するなら彼氏よりも良い男と浮気します。誰が好き好んでこんなおじさんと―」

 麻帆に散々言われても、大木は怒る様子も見せず、麻帆の後ろで複雑な表情を浮かべるだけだった。

「じゃあ、二人の関係は一体何なの?」

 千鶴の質問に、麻帆は少し呆れたような表情を見せた。

「まだ分かんないんですか? おかしいと思いませんでした? 今日のミーティング」

 千鶴は、麻帆が何を言っているのかよく分からなかった。

「何で千鶴さんじゃなくて私が選手に選ばれたのかってことですよ。みんな言ってますよ? 大会に出るべきなのは千鶴さんだって。私でさえ、客観的に見れば千鶴さんが出た方がいいと思ってるのに」

「え?」

「でもね、千鶴さんも知ってると思いますけど、私、見栄を張りたいんですよ。OSCに入ってもう三年。そろそろ大きな大会の一つでも出とかないと、周りに示しがつかないじゃないですか? なのに、今年の大会は千鶴さんが出るのが濃厚って雰囲気だった。私、そういうの我慢ならないんです。だからね、ちょっと大木コーチにお願いしたんですよ」

 ここまで説明されて、やっと千鶴は事の真相に気が付いた。

「大木コーチが私を好きなときに抱いてもいい代わりに、次の大会では千鶴さんじゃなく私を出して欲しいって。大木コーチは、千鶴さんに有終の美を飾らせるより、私の体を選んだんです」

「そんな…」

「申し訳ない!」

 大木はその場に跪き、千鶴に向かって土下座をした。しかし、千鶴にはその姿が目に入らなかった。麻帆は、土下座をする大木を軽蔑するように見下ろしている。

「そういう訳なんで、今回の大会は諦めてください。あ、変な気を起こさないでくださいよ? もし告発なんてしたら、OSCはただじゃすまない。もしかしたら無くなっちゃうかも。そしたら、ここに所属してる選手やコーチたちは路頭に迷うことになります。優しい千鶴さんは、そんなことしませんよね?」

 麻帆はにやにやしながら千鶴に言った。そして、まだ額を床に付けたままの大木を放ったままにして、麻帆はミーティング室を出た。その際、千鶴とすれ違いざまに、冷たい、低い声で、千鶴の耳元に言葉を残して行った。

「あんた目障りなんですよ。さっさと泳ぐのやめてくださいよ。レーンが一つもったいないじゃないですか」

 気付けば、麻帆は姿が見えなくなっていた。

 すっかり暗くなったミーティング室には、土下座をしたまま動かない大木と、呆然と立ち尽くす千鶴だけが残されていた。


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