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山崎警部と妹の日常  作者: AS
32/153

泳ぐ女3

 公式大会で使用するものと同じ五十メートルプール。その五番コースのスタート台の上で、千鶴は大木コーチの笛の音を待っていた。

 周りにはたくさんのOSCの選手が泳いでいる。二つ隣の三番コースでは由利が背泳ぎをしている。その奥の二番コースでは洋子がバタフライをしている。麻帆はプールサイドを歩いている。

 いつの間に、自分はこんなに周りが見えるようになったのだろう。若い頃は自分の泳ぎのことで精いっぱいだった。これも歳を取った証拠だろうか。

 そんなことを考えていると、横の大木が声を上げた。

「行くぞ! よーい…」

 少し間を空けて、大木は口に咥えた笛を吹いた。その瞬間、プール中に「ピッ!」という甲高い音が響き渡り、次の瞬間、千鶴はプールに飛び込んでいた。

 千鶴は自由型の選手である。自由型というと大抵は一番速いとされるクロールを泳ぐのが一般的だが、稀にバタフライを泳ぐ選手もいる。千鶴はというと、その大多数の例に漏れず、クロールを泳ぐ選手だった。

 千鶴は、泳ぐことが心底好きだった。水中では、地上に比べて動きが制限される。その制約の中であるからこそ、自分の美しさ、強さ、速さを最大限に表現できる競技。それが千鶴にとっての競泳だった。

 五十メートルで壁を蹴ってターンし、折り返しに入る。ここからペースを上げていく。しかし、昔ほどそのペースが上がらないのを、千鶴は自ら実感していた。どんなに腕を回しても、どんなに脚を上下させても、自分が頭の中でイメージしている泳ぎにならないのだ。

 百メートルを泳ぎ、スタート地点に戻って壁をタッチすると、千鶴は息を切らしながらプールサイドの大木に問いかけた。

「タイムは?」

「一分〇一秒四三。まずまずってところだな」

「全然まずまずじゃないです」

 千鶴はプールサイドに上がりながら答えた

「もっとタイムを上げないとオリンピックどころか、予選にさえ出られませんよ。お世辞はいいですから、正直に言ってください」

「あ、ああ。悪い…」

 大木はこのOSCのコーチを務めており、OSCの創始者、大木道則の息子である。

かつては大木も競泳の選手だったが、大した結果は出ず、今はコーチとして未来のオリンピック選手を育成している。現在OSCに所属している選手は、全員大木の教え子なのである。

「正直に言えば、後半の伸びが物足りない。あれじゃ、他の選手に前半でどんなに差をつけたとしても、後半で簡単に抜かれるだろう」

「…」

 千鶴は、自分が思っていたことと全く同じことを言われたので、別段ショックは受けなかった。

「やっぱり問題はスタミナだろうな。百メートルを全力以上の力で泳ぎ切るだけのスタミナが必要だろう。例えば若い奴らなら―」

 大木はそこまで言ってやめた。千鶴に年齢の話はタブーだと思っているらしい。千鶴にしてみれば、そうやって変に気を遣われる方が却って不快だった。オリンピックで銀メダルまで取らせてくれた大木には感謝しているが、こういう人の気持ちを察することができない性格を、千鶴はどうしても好きになれないでいた。

「そうですね。あと四日でどうにかなることでもないですけど、いろいろやってみます」

「お、おう。そうだな」

 そしてこの腫れ物にでも触るような態度。教え子は自分の方なのに、まるで立場が逆転したようだと、千鶴は思っていた。

 千鶴が言葉にならない不満を抱いていると、さっきまで自分が泳いでいたレーンで、今度は麻帆が泳ぎ始めていた。麻帆は千鶴と同じ自由形の選手である。

「麻帆の方はなかなか調子が良さそうだな」

「そうですね」

 千鶴は大木の言葉に答えた。千鶴はこの際、大木の本音を聞いてみようと思った。

「コーチ」

「何だ?」

「正直に言って欲しいんですけど、私は今度の選手権大会には出られますか?」

「…」

 大木は答えるのを渋っているようだったが、千鶴は逃げることは許さないと言わんばかりに、大木の目を真っ直ぐに見つめた。その視線に観念したのか、大木は渋々口を開いた。

「…はっきり言うと迷ってる。出すならお前か麻帆だろう。ただ、タイムこそそれほど差は無いが、麻帆はまだ若い。あいつの未来の為にも、今はできるだけたくさん試合経験を積ませたいというのが本音だ。もちろん、お前がそれを覆すほどの泳ぎを見せてくれれば、俺は迷わずお前を選ぶ。お前には、若い選手にはない経験というアドバンテージがあるからな」

「…そうですか」

 そうは言ったものの、千鶴はまだ何か言いたげな顔をしていた。大木はそれを少し不審に思ったが、特に追及することはなかった。

 気付くと、千鶴と同じように百メートルを泳ぎ切った麻帆がプールサイドに上がり、千鶴と大木のもとへ歩いて来た。

「どうでしたか、コーチ?」

「おう。調子良さそうじゃないか。いい感じだぞ。そのままキープしていけ」

「はい」

 千鶴たちと話すときとは違い、麻帆は大木に対しては従順だった。さっきまで先輩たちに偉そうな物言いをしていたとはとても思えない。大木は、この女の本性を知っているのだろうか。

 千鶴はそれ以上麻帆のことは考えないことにした。考えている場合ではないのだ。今は四日後に迫った選手権大会の出場に向け、とにかく練習するしかない。大会に出るメンバーは明日発表される。選ばれようと選ばれまいと、途中で手を抜きたくはなかった。引退が間近に迫った千鶴にとって、これが最後のチャンスなのだ。悔いが残るようなことは絶対にしたくなかった。



 OSCの練習は毎日午後五時に終わる。その後練習を続けるかどうかは選手たちに委ねられるが、大会を四日後に控えた今は、体調を万全にしておくことを第一に考えるため、居残って練習する者はほとんどいない。千鶴もその例外ではない。

 由利や洋子たちに遅れて更衣室に戻って来た千鶴は、そそくさと着替えを始めていた。それから少しすると、更衣室のドアが開いた。入って来たのは、競泳水着を着た麻帆だった。

「あら、遅かったのね。居残りでやってたの?」

「え…はい。まあ…」

 千鶴の問いかけに、麻帆は曖昧に答えた。

「最近調子いいみたいね。これなら今度の選手権大会の出場も行けるんじゃないかって、大木コーチが言ってたわよ」

「…そうですか…」

「どうしたの? 何か元気ない?」

「いえ、別に大丈夫です。それより、千鶴さんはご自分の心配をされた方がいいんじゃないですか? 私が大会に出るってことは、千鶴さんは出られないってことですよ?」

「まあ、そうね。でも、それはそれでしょがないかなって思ってるの。今までの実績なんて関係ない。今の実力が全て。スポーツって、そういう世界でしょ?」

「…私は、分かりません」

「え?」

「私は、何が何でも大会に出たい。誰よりも目立つ場所に立って、たくさんの人からちやほやされたい。そのためなら何だってします。千鶴さんみたいな、年齢と共に向上心も無くしたような人と、私は一緒にされたくありません」

 ここに由利ちゃんがいれば怒鳴っていただろうなと、千鶴は思った。しかし、千鶴は何も怒りを感じなかった。麻帆の言うことも、半分は合っていたからだ。

千鶴は、年齢と共に向上心を無くしたのではなかった。元々向上心など持ち合わせていないのだ。千鶴は、ただ泳ぎたいから泳いでいただけだった。タイムのことなどどうでもいいのだ。ただ周りが速く泳げと言うから速く泳いでいるだけだ。だから、麻帆に何を言われようと、千鶴は怒りを覚えることはなかった。泳ぐことへの価値観の違いだと理解していた。

「そう。別に麻帆ちゃんの考えを否定する気はない。けど、今度の大会、出るのは私よ」

 そう言うと、千鶴は麻帆の横をすり抜け、更衣室を出て行った。麻帆がどんな顔をしているのか見てみたかったが、我慢した。

 夕日の差すOSCの廊下を、千鶴は一人ですたすたと歩いていた。千鶴に差す日の光のように、珍しく千鶴の心はふつふつと燃えていた。


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