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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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譲れない女12

 翌日の朝十時、山崎、エリナ、カオルの三人に、芳子を加えた計四人は、マンションの九〇二号室の前に集まっていた。

「では、内海さん、お願いします」

「はい」

 山崎に言われ、芳子は九〇二号室の鍵を開け、ドアを開けた。

「どうぞ」

 芳子がそう言うと、山崎は礼を言って部屋に入った。それに続くように、エリナとカオルも中に入って行った。

「長い間掃除してませんから、あちこち汚いと思いますけど、我慢してくださいね」

 最後に部屋に入った芳子が、山崎たちに向かって言った。確かに、あちこち埃だらけで、少し潔癖症なところがある山崎は、今すぐにでも掃除したい気になったが、今はそんなことをしている時間は無かった。

 部屋の中は、足の踏み場もないほど、たくさんの紙の束が床を占領していた。それらには描きかけの絵があったり、何かの脚本が書かれていたり、写真と文章が一緒になっているものがあったりした。

「ここにあるのは?」

「今まで直子さんとあゆみさんが書かれてきた漫画の下書きやシナリオ。あと、漫画の為の資料とかです」

「今までのを全て取ってあるんですか?」

「はい。直子さんの方針で。この部屋はそれ専用で借りてるんです」

「そうですか…」

 そう言いながら山崎は部屋の奥まで進んで行き、ベランダに出る窓の前までやって来た。窓の前にも、たくさんの紙の束が置いてある。山崎は、それをじっと見つめていた。

「内海さん」

「はい?」

「さっき、この部屋はかなりの期間掃除していないとおっしゃってましたが、最後に掃除したのはいつだったか覚えてらしゃいますか?」

「いつだったかしら…。随分前だったと思います。半年か…もしかしたらそれ以上かもしれません」

「その間に、この部屋には誰か入りましたか?」

「どうだったかしら…。あ、そういえば、直子さんが、一度何かの資料を取りに、ちょっとだけ入ってたような記憶があります」

「そうですか…」

 山崎は再び紙の束を見つめた。

「山崎さん?」

 エリナのこの問いかけには、「何か気になることでも?」という意味が含まれていた。それを感じ取ったのか、山崎は紙の束が置いてある床を指差し、エリナに見るよう促した。

「ここ、見てください」

「…あ、これ…」

 エリナが見ると、その紙の束の下の床の部分だけが、他と比べて綺麗な白色をしていた。それも長方形の形に。

「山崎さん。これって…」

 山崎は、「東堂さんも気付きましたか」という意味合いで、頷いて見せた。

「この束だけ、明らかに誰かが動かしてます。もし動かしたのが、内海さんがこの部屋を掃除した半年前なら、とっくに白い部分は無くなってるはずです。内海さんのあの口ぶりからして、橋本さんがこの部屋に入ったのもかなり前でしょう」

「てことはつまり、誰かが最近この部屋に入って、この束を動かしたってことですね。しかもそれを内海さんは知らない」

 山崎は再び頷く。エリナは更に続けた。

「そして、この部屋の鍵を持ってるのは、内海さんと橋本さんと石田川さんの三人。これを動かしたのが内海さんじゃないとすると、残りは橋本さんか石田川さんってことになります」

 そこまで言って、エリナはある疑問に至った。

「あれ? ていうか、そもそも何でこれを動かしたんでしょう? それもこれだけ」

「簡単ですよ。ベランダに出る為、です。東堂さん。例の物は持って来ましたか?」

「はい。ここに」

 山崎に指示され、エリナはさっきからずっと持っていた紙袋からロープを取り出した。それは細いがしっかりした作りで、例えば人一人ぐらいなら容易に支えられるほどだろうと思われた。

「これ、何に使うんですか?」

「何って、命綱ですよ」

「はい?」

「さあ、東堂さん。ベランダに出て」

「え? ちょっと…」

 山崎は、最近誰かが動かしたであろう紙の束をとかし、ベランダに出る窓を開け、問答無用でエリナをベランダに出した。

「ちょっと山崎さん! 何をするのか、ちゃんと説明してくださいよ!」

「そんなに難しいことはお願いしません。ただ、この部屋のベランダから、隣の九〇一号室へ移って欲しいんです。ベランダを伝って」

「は!? 何考えてるんですか!? ここ九階ですよ!? 落ちたら死んじゃうじゃないですか!?」

「だから命綱をするんじゃないですか」

 そう言う山崎の顔は、少し緩んでいた。エリナは、その顔を見たとき、ある一つの確信を持った。「この人、普段は優しそうに振る舞ってるけど、中身はとんでもないドSだ! しかも、そのサディズムを発揮する対象として、完全に私をロックオンしている!」

 気付けば、既にエリナの体にはロープがしっかりと巻かれ、もう一方はベランダの柵に縛り付けられていた。

「いつの間に!?」

 エリナが驚いていると、カオルの「頑張れー」という皮肉たっぷりの声が聞こえて来た。

「ていうか、何で私なんですか! 山崎さんがやればいいじゃないですか!」

「僕は嫌ですよ。怖いですから」

「私だって怖いです! じゃあカオルさんにやってもらいましょうよ!」

「カオルにそんな危ないことはさせられません」

「…山崎さんって、基本的にどんな女性に対しても紳士ですけど、こと私に関しては奴隷のように扱いますよね」

「そんな人聞きの悪い。これは、東堂さんだからお願いしたんです。東堂さんにしかできない仕事なんですよ」

「何でですか!? この前も言いましたけど、私、運動とか全然できないんですよ! 教室の隅でいつも本ばっかり読んでるような学生時代だったって前も言ったじゃないですか!」

 エリナは若干涙目になっていた。

「だからですよ。これは、運動神経の悪い人がやるから意味があるんです。誰にでもできるということを証明したいんですから。カオルのような、陸上で全国大会にまで行ってるような人間がやっても意味ないんですよ」

「そんな…」

「あと東堂さん。さっき、カオルには黙ってて欲しいって言ってた話、自分で言っちゃいましたけど、いいんですか?」

「は!」

 エリナは絶句した。恐怖と怒りのあまり、思わず自分がイケてない学生時代を送っていたことを、あろうことか最も知られたくない相手の前で、自ら暴露してしまった。カオルの方を見やると、カオルはこちらを向いてこれ以上にないくらいニヤニヤしている。「あれは完全に『後で思う存分いじり倒してやるからな!』という顔だ!」と、エリナは悟り、絶望した。

「分かりました。やります…」

「ありがとうございます!」

 もういい…。どうせどっちにしたって笑われるのなら、山崎の役に立って笑われた方がいい。エリナは覚悟を決め、この部屋と九〇一号室とを隔てる板に掴まりながら、ゆっくりと柵に上った。予想はしていたが、その予想以上に九階は高かった。少しでも足元を見ると、目眩がして落ちてしまいそうだ。さっきまでは心底楽しそうにしていた山崎も、今は少し心配そうにエリナを見つめている。

「気を付けて下さいね! 命綱があるとはいえ、落ちたら死にますよ!」

「そんなこと言わないでください! 余計怖くなるじゃないですか!」

 と、その時、強い風が吹き、エリナの体を揺らした。

「きゃー! いやー! やっぱりやめるー! 私もうおうち帰るー!」

「頑張ってください! 東堂さんならやれます!」

「無理ですー! 死んじゃいますー! 死んだら地面に『山崎に殺された』ってダイイングメッセージ残しますからねー! そして、私が死んだら棺桶にはいっぱい綺麗なお花入れてくださいー!」

「東堂さん」

「最後にもう一回お母さんに会いたかったよー! 昔好きだった人にも告白できなかったし、結婚して子供も欲しかったのにー!」

「東堂さん」

「お母さん、私が死んでも悲しまないで…。嫌だー! やっぱりまだ死にたくないー!」

「東堂さん!」

「…はい?」

「もう着いてますよ」

「え?」

 山崎の呼びかけにようやく正気に戻ったエリナが周りを冷静に眺めると、そこはもう九〇一号室のベランダだった。

「あれ? 私、いつの間に?」

「覚えてないんですか? するするっと移って行きましたけど」

 山崎は、隣の九〇二号室のベランダからエリナと話している。

「そうなんですか!? よかったー!」

「よかったですね。まだ結婚も子供もできますよ」

「いや…さっきのは忘れてください!」

「さあ…生きてても結婚はできないんじゃない? だってあんなに貧乳だし」

「貧乳は関係ない! カオルさんは黙ってて!」

「しかし、これで分かりました。東堂さんのような運動が苦手な方でも、ベランダを移ることは簡単にできそうですね」

「はい。そうみたいです」

「では、そこで待っていてください。すぐそっちに戻りますから」

「はい」

 エリナが返事をすると、山崎とカオルが窓から部屋に戻って行く音が聞こえた。エリナは叫び過ぎて疲れてしまったのか、汚れることも気にせず、ベランダにそのままへたり込んでしまった。

 今までこんな捜査をしたことは無い。あの山崎という上司は、どこまでも規格外だ。しかし、あのときの山崎の嬉々とした表情は忘れられない。あの男は笑って人を弄ぶ、筋金入りのドSに違いない。あんなに紳士的に人をいたぶる人間を、エリナは初めて見た気がした。

 そんなことを考えていると、作業部屋のドアが開いた。山崎たちが来たのだと思い、エリナが立ちあがってベランダから出ると、そこに立っていたのはあゆみだった。

「あ…石田川さん…」

「随分人の家で遊んでくれてたみたいね」

 あゆみの顔は明らかに怒りを含んでいた。それと同時に緊張のようなものも見て取れた。

「あ、遊びなんかじゃありません! これはれっきとした捜査です!」

「捜査? これが?」

「はい!」

 エリナが自信を持って答えたのと同時に、あゆみの後ろから山崎が部屋に入って来た。

「山崎さん!」

「東堂さん、お疲れ様です。そして石田川さんも。今日はお仕事ですか?」

「ええ。そろそろ始めないといけませんから。それより山崎さん。これは一体何ですか?」

「『これ』とは?」

「見れば分かるでしょう? この人は一体何をしてるんですか!?」

「だから、橋本さんの件の捜査です! そうですよね? 山崎さん!」

「いえ。これはただ遊んでただけです」

「え!? そんな…」

 あゆみは一つ溜息をついた。

「…帰って頂けます? これからここで仕事なので」

「分かりました。ただ、帰る前に一つ聞いてもいいでしょうか?」

「何ですか?」

 あゆみの声は更に苛立っていた。

「橋本さんが自殺を図ったとき、石田川さんはどこにおられたんですか? 私の想像では車の中ではないと踏んでるんですが…」

「…お帰りを」

「…失礼しました。…また来ます…」

 張り詰めた空気の中、山崎とエリナは部屋を後にした。



「すいません。帰りに何か奢りますから」

「そんなんじゃ私の機嫌は直りません! 本当に怖かったんですから!」

 マンションでのミッションインポッシブルの後、山崎はエリナの運転する車で自宅に送ってもらうところだった。いつものように、後部座席にはカオルも座っている。

「本当にごめんなさい。何とか機嫌直してくれませんか?」

「無理です。これはしばらく直りません」

「でも東堂さん、カッコよかったよ! 何か女スパイみたいで!」

 カオルが後ろから話に入って来た。

「そんなこと言われても全然嬉しくないから」

「どうやったら許してくれます?」

「何をやっても許しません」

「そう言わず…」

「そうだよ、東堂さん。お兄ちゃんが東堂さんの言うこと何でも聞いてくれるって言ってるんだから。こんなこと滅多にないよ?」

「…そうですか?」

「はい」

「本当に何でも聞いてくれます?」

「もちろんです」

「あ、でもお兄ちゃんと付き合いたいとかは無しだからね」

「当たり前でしょ! ていうか、さっきあんなことされといて付き合いたいと思う訳ないじゃない!」

「本当かなー? 東堂さん、正直お兄ちゃんのこと、ちょっと良いなとか思ってるでしょう?」

「全く思ってません! 私は、あなたやミクさんとは違いますから!」

「本当に? まあ、もし東堂さんがお兄ちゃんのことを好きでも、私がいる限り絶対にお兄ちゃんとは付き合えないからね!」

「ご心配なく。そんなの、絶対に有り得ないから」

「そこまで否定されると、それはそれでこっちも多少傷つくんですが…」

「知りません。これは山崎さんの自己責任です。で、山崎さんへのお願いなんですけど…」

「はい。何でも言ってください」

「私、お肉が食べたいです!」

「え…?」



「何でも言ってください」などと軽々しく行ってしまったことを、山崎は今更ながら後悔していた。エリナは運転していた車でそのまま繁華街へと突入し、半ば強制的に山崎とカオルを、全国でも有名な高級焼き肉店に連れて行った。

エリナは席に着くや否や、怒涛のように様々な部位の肉を注文し、それを片っ端から焼いては食べ、焼いては食べしていた。

「うーん美味しい! ここの焼き肉、一度でいいから食べてみたかったんですよ! ほら、カオルさんも食べて!」

「うん! いただきまーす! うーん美味しい! とろけるー!」

 カオルもエリナも恍惚の表情で次々と高級肉を平らげているが、ただ一人、浮かない顔をしている人物がいた。

「どうしたんですか、山崎さん! 早く食べないと焦げちゃいますよ!?」

「そうだよお兄ちゃん! 何なら、カオルが口移しで食べさせてあげようか?」

「やだーカオルちゃん! 大胆ー!」

 エリナは若干、いや、かなりアルコールも入っていた。

「あのー二人とも。そろそろお腹いっぱいなんじゃないかな?」

「全然足りませんよ! 私、こう見えて結構大食いなんですから!」

「そうだよ! カオルなんて成長期なんだから! いっぱい食べて、いっぱい大きくならないと! 特に胸が!」

「カオルちゃんったら、それ以上大きくなってどうするつもりー?」

「東堂さんこそ、そんなにお肉食べてるのに、何でそんなに胸が貧相なんですかー? 変なのー」

「いや、あの…あんまり食べ過ぎは良くないと思いますよ? ほら、太っちゃったら困るし…」

「またダイエットするからいいんです! あ、そうだ。山崎さん! 例の事件。正直もう犯人は石田川さんで決まりなんでしょ!? さっさと逮捕しちゃいましょうよ!」

「東堂さん。声が大きいですよ」

「あ、すいません」

 エリナは、まだ最低限のモラルを守れるぐらいには正気を保っているらしい。

「そのことなんですけどね、確かに犯人はもう分かっているも同然なんですが、どうも決め手に欠けるんですよ」

「決め手…ですか?」

「はい。状況証拠ばかりで、彼女が犯人だという決定的な証拠が見つからないんです」

「そうなんですか…」

「自分から自白してくれたらいいのにね!」

 そう言ったのは、分厚い肉を自らの胃に放り込んだばかりのカオルだった。

「まあ、そりゃ自白してくれたらありがたいけど、そんな簡単には―」

「いえ、できるかもしれません」

「え?」

「そうか…。その手があった…」

「できるんですか? 石田川さんに自白させるなんて」

「上手くいけば、ですが」

「よーし! じゃあ明日、石田川さんのマンションに行きましょう!」

「はい」

「じゃあ、明日に向けて、今日はいっぱい食べないと! ね、カオルさん!」

「うん!」

 そう言って、エリナとカオルは再び次々と肉を頬張って行った。

「この二人を結託させてはいけない…。絶対に…」

 そんな確信を持った山崎だった。


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