譲れない女11
東京都内のとある路地裏を奥まで進んで行くと、一軒の喫茶店に行きつく。その店の看板には「喫茶コロンボ」と書かれてある。エリナは、未だこの店名の由来を知らないが、かと言って積極的に知ろうという気もなかった。大方、どこかの外国の地名か、珍しい生き物の名前か、そんなところだろうと思っていた。
店内は相変わらずガラガラで、カウンターでひたすらガラスのコップを拭いている、白髪の鬚をたくわえたマスターと、可愛い制服を着た若い女性店員、小林ミクが笑って立っている。そして一番奥のテーブル席に、唯一の客であるエリナと、その上司の妹が座っていた。
「山崎さん、遅いね…」
「…」
エリナの問いかけに、上司の妹は答えず、ひたすらスマホで何かを見ている。それでもエリナはめげずに話しかけた。
「そういえばカオルさん。今日はちゃんと学校に行ってたみたいね。勉強の方は大丈夫?」
「…」
「もしよかったら、私が勉強教えてあげてもいいのよ? これでも私、学生時代は全国模試で一位を取ったこともあるんだから」
「…」
「ねえ、カオルさん?」
「結構です。ちょっと静かにしてもらえません? 今ツイッター見てるんで」
エリナはもう少しで「このガキ…」と言いそうになったが、何とかそれを飲み込んだ。
と、そこへミクが笑顔でやって来た。
「すいませーん。カナブン妹さんと、貧乳ゴキブリメガネのお客様ー? そろそろ何か注文していただけますー? 何も注文する気が無いなら、さっさと自分の巣に帰って頂きたいですけども?」
「あ、すいません。今注文します」
確かに、エリナとカオルがこの店に入ってから、既に三十分が経っていた。その間、二人は大した会話をするでもなく、無為に過ごしていたのだ。しかしこれはそもそも、山崎が悪いのだ。あの男がエリナとカオルに連絡し、この喫茶店で待つように言って来たのだ。なのに、あの男はまだ現れない。あの男、今日は一日姿を見せなかったが、一体どこへ行っていたのだろうか。
そして、この小林ミクという女は、相変わらず山崎に近づく女を害虫呼ばわりする。エリナもカオルも、これにはもう慣れてしまったので、やれゴキブリだ、やれカナブンだと言われても、何も感じなくなっていた。
エリナはいつものようにカプチーノを注文し、カオルもスマホに目を向けたまま「オレンジジュース」とそっけなく注文した。この女、本当に兄がいるのといないのとでは、別人のように態度が違う。
「かしこまりましたー。あ、あとゴキブリのお客様」
「ええっと…。多分私かな?」
ゴキブリと呼ばれて自分のことだと分かってしまうことが、エリナは少し悔しかった。
「この女に勉強教えようたって無駄ですよ。だってこの女も、全国模試でずっと一位ですから」
「え!? そうなの!?」
エリナは驚いたが、カオルは別に大したことではないとでも言いたげに、すっとスマホを見ている。
「そ。あんまり言いたくないけど、このゴキブリ妹、勉強では全国一位。スポーツでは陸上の短距離で全国大会出場。おまけに外面はいいから、学校では生徒会長を務めてて、もはや漫画に出て来そうな完璧超人なのよ、こいつ。言いたくないけどね!」
「へえ」
「だから学校をしょっちゅう休んでも誰も文句言わない。無駄に人望だけはあるからね。何がムカつくって、それをこいつが無意識でやってることなのよね」
「へえ。ミクさん、よく知ってるんですね」
「当たり前よ。だって、私とこいつは、同じ高校に通ってるんだから」
「え!? そうだったんですか!?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「はい。ていうか、ミクさんって高校生だったんですね」
「は!? それどういう意味!?」
「だって、小さいから…」
ミクの身長は、一五〇センチに届かないぐらいだ。
「小さくないわ! あなたこそ、大人なのに貧乳じゃない!」
「な…貧乳は関係ないでしょ!?」
「関係あるわ!」
という口喧嘩をしているエリナとミクを、カオルが横目見て、ニヤニヤしていた。それに気づいたミクが、今度はカオルに突っかかった。
「ちょっとあんた。今鼻で笑ったでしょ!?」
「え? あ、ごめんなさいね。あんたたちからしたら、身長も高くて胸も大きい私は、嫉妬の対象よねえ。ごめんなさーい」
「はあ? 誰があんたなんかに―」
とミクが反論しかけたとき、店の入り口のドアが開き、カランカランと鈴の音が鳴った。
「すいません。遅れました」
入って来たのは山崎である。それを確認した瞬間、さっきまで自分の横にいたカオルとミクが、いつの間にか姿を期していることに、エリナは気付いた。
「ちょっとお兄ちゃーん! 遅いよー! カオル待ちくたびれちゃったー!」
「ああ、ごめんごめん」
「もう山崎さーん! 早く来てくれないと、私のシフトの時間過ぎちゃうじゃないですかー! あ、もしかして、私が帰りそうなタイミングを見計らって来てくれたんですか? いいですよ。私、山崎さんに体を捧げる準備はいつでもできてあすから!」
「馬鹿なこと言ってないで。お腹が空いたので、いつものオムレツお願いします」
「はーい! ご注文承りまーす!」
「あの二人の山崎さんに対する情熱というか、執着心には恐ろしいものがあるな…」と、エリナは内心思っていた。
注文を受け、ミクはカウンターの方へ戻り、山崎はカオルに腕を組まれながら、エリナのいる席へ歩いて来た。
「すいません、東堂さん。遅れてしまって」
「本当です。あの二人の相手を一人でするの、大変だったんですからね」
「今度何か埋め合わせしますから」
「別にいいですよ」
山崎とカオルはエリナの隣へ座った。数分後、ミクがトレイにカプチーノ、オレンジジュース、そしてケチャップで大きくハートマークが描かれたオムレツを持ってやってきた。エリナは美味しそうにオムレツを食べる山崎に、カプチーノを飲みながら話しかけた。
「ところで山崎さん。今日はどこへ行ってたんですか?」
「ちょっと軽井沢に」
「軽井沢!? 何でそんなとこまで?」
「まあ、いろいろと野暮用がありまして」
「野暮用って…」
「それより、今日の報告をお願いします」
「はい。山崎さんの指示通り調べてみましたが、どれも駄目でした。マンションのエレベーターの監視カメラには、ちゃんと行って帰って来る石田川さんが映ってましたし、橋本さんのスマホにも、ちゃんと石田川さんへの発信履歴が残ってました。」
「そうですか…」
「あと、九〇二号室の件ですけど、明日の朝でも大丈夫ですか?」
「はい。問題ありません」
「分かりました。じゃあ、内海さんにそう連絡しておきます」
「ありがとうございます。例の物は用意できてますか?」
「はい。でも、あんなの何に使うんですか?」
「それは明日になってのお楽しみです。明日は、東堂さんには重要な仕事を任せようと思ってますから」
「重要な仕事…ですか?」
「はい」
山崎は笑顔で答えたが、エリナは嫌な予感しかしなかった。