譲れない女10
都内にあるあゆみと直子のマンションから車で約三時間弱。あゆみは長野の軽井沢にある別荘に来ていた。今はバルコニーに出て、眼前に広がる森林の絵を描いている。時折そよそよと吹く風が心地いい。都会の喧騒から離れ、無音の空間で一人で絵を描いている時間が、あゆみは好きだった。
「大正恋物語」がヒットしたことで、直子と共有ではあるが、こんな立派な別荘まで手に入れてしまった。直子とコンビを組んでからというもの、何もかもが上手く行っている。直子がいなければ、自分はこんな別荘を手に入れることはおろか、人並みの生活さえ送れなかったかもしれない。あゆみは、自分は絵以外のことはからっきしであることを自覚していた。それが今はどうだ。今や売れっ子漫画家となったあゆみは、漫画ファンの間でその名前を知らない者はないほどの人物になった。その美貌も相まって、男性ファンはもちろん、女性のファンも多く獲得している。ファンレターには、「石田川先生のようになりたい」とか、「石田川先生に憧れて絵を描き始めました」とか、この人たちは本気で言っているのかと疑いたくなるようなことが書かれている。それらを見るたびあゆみは、この上ない喜びを感じるとともに、直子には感謝してもしきれないと思ったものだった。
いや、待てよ。もしかしたら、直子も自分に対して同じように思っていたのではないだろうか。直子だって、一人では今の地位を築くことはできなかったはずだ。自分とコンビを組んだからこそ、「大正恋物語」のヒット、延いては人気漫画家としての名声を得られたはずだ。直子は、自分のことを一体どんなふうに思っていたのだろう…。
そんなことを考えながら筆を進めていると、向こうの方に見覚えのある黒いスーツの男が現れた。あゆみは、一瞬自分の目を疑った。まさか、あの男がこんな所にまで来るはずは…。いや、大学の友人たちとのプライベートな空間にまで入り込んで来た男だ。考えられないこともない。しかし、こんな山奥に…?
そうこうしているうちに、黒スーツの男はあゆみの元までやって来た。やはりあの男だ。
「ああ。良かった。何とか迷わずにたどり着けました」
「まさかこんな所まで来るとは思いませんでした」
「いや、すいません。内海さんからここだと聞いたもので」
「だからって、東京から車で三時間かけて来たんですか?」
「はい」
「山崎さんって、意外と暇なんですね」
「今日はたまたまです」
「ここ、一応私と直子さんのプライベート別荘なんですよ?」
「ああ。それは失礼しました。もしお邪魔でしたら、今すぐ帰りますから」
「わざわざこんな所まで来た人を、すぐに帰せる訳ないじゃないですか。こっちにどうぞ」
あゆみは自分の隣にある、パレットを置いていた椅子を空け、そこへ山崎に座るよう促した」
「これはどうも。ありがとうございます」
山崎はあゆみに促されるままに、あゆみの隣へ座った。
「あんなこと言って、本当は帰る気なんか無かったくせに」
「え? 今何かおっしゃいました?」
「いえ。何でもありませんよ」
「そうですか。しかし、見事な絵ですねえ」
山崎は、あゆみが描いていた風景画を横から覗き込んだ。
「勝手に見ないでくださいます?」
「あ、すいません。すぐ近くにあったもので」
「冗談です。そんなに狼狽えないでください」
「そうですか。しかし本当にすごいですね。私なんか、こういう美的センスが全く無くて、学生時代は美術はずっと一か二だったんですよ。なので、絵が上手い人というのはそれだけで尊敬します」
「これぐらい、練習すればだれでも描けます」
「本当ですか? とてもそうは思えませんけど」
実際、あゆみの風景画は見事と言う他なかった。そのあまりの美しさに、山崎は、自分とあゆみの眼前に広がる景色が、そのままキャンバスの中に閉じ込められたような感覚になった。これほどの絵を練習しただけで描けるようになるなど土台無理であることは、素人の山崎でさえ容易に想像できた。
「そうだ。山崎さん。今度は山崎さんをデッサンしてあげますよ」
「え? そんな…。石田川さんみたいなすごい漫画家の方に私を描いて頂くなんて申し訳ないというか、恐れ多いというか…」
「描いて欲しいの? 欲しくないの? どっち?」
「お願いします」
「じゃあさっさと椅子を持って、そこに座ってください」
「はい」
山崎は自分が座っていた椅子を持って、あゆみの目の前に座った。あゆみから見ると、山崎の後ろにどこまでも森林が続いてくように見えた。
「ちょっとポーズが硬いですね。もっとリラックスしてください」
確かに、山崎はまるで入社試験の面接を受ける大学生のようにきちっと座っていた。
「そんなこと言われましても…。絵のモデルなんて初めてなので…」
「そんなに意識しなくていいですから。そうだな…。じゃあ、椅子ごと横に向いて座ってもらえます?」
「はい」
山崎はあゆみの指示に従い、椅子ごとあゆみから見て左側に向き直った後、再び椅子に座った。
「それで、脚を組んで、その上に肘を置いてください」
「こうですか?」
「そうそう。それで、その手を顎に。そう、『考える人』みたいな感じで」
「ええっと…。こんな感じですか?」
「完璧です」
山崎はあゆみに言われた通りのポーズを取った。ただ、「考える人」と違うのは、山崎は下ではなく、前方を向いていた。
「そのまま動かないでくださいね」
「分かりました。しかし、この体勢、意外と疲れますね」
「絵のモデルって結構大変でしょう? こういう経験もしといた方がいいですよ」
「そうですかねえ。でも、石田川さんに描いて頂けるんですから、頑張って我慢してみることにします。こんな機会は滅多にあるものじゃありませんから」
あゆみは返答の代わりに、山崎に向かって笑みを返した。
しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。あゆみは真剣な表情でキャンバスに向かって筆をあちらこちらへと動かしている。山崎はできるだけ動かないよう努めているのが、その辛そうな表情からも窺える。
二人に聴こえてくるのは、遠くからの鳥のさえずりだけだった。その沈黙に耐えきれなくなったのか、山崎が口を開いた。
「あの―」
「動かない」
「あ、すいません。しかし、ずっとこの体勢のまま動かないというのはちょっと…」
「…じゃあ、描きながら世間話でもしますか?」
「ああ、それはありがたいです」
「もちろん話題は山崎さんから提供してくれるんですよね?」
あゆみの申し出に山崎は少し悩んだ末、「ここにはよく来られるんですか?」と、本当に他愛もない世間話を始めた。
「たまにです。ちょっと気分転換したいときとか、スランプになっちゃったときとかに、ここへ来て仕事とは何の関係も無い、ただただ自分が描きたい絵を描きに来るんです。そうすると、何だか心がさっぱりして、また頑張ろうって気になれるんです」
「そうなんですか。何だか、クリエイターって感じでカッコいいですね」
「そんなことないです。山崎さんだって、仕事やプライベートでストレスが溜まったとき、例えばお酒を飲んだり、好きなもの食べたり、買い物したり、趣味に没頭したり、何かしらで発散することがあるでしょう? それと一緒ですよ」
「なるほど。確かにそうかもしれませんね」
「ちなみに、山崎さんのストレス発散法は何なんですか?」
「私のストレス発散法ですか? そうですねえ…。食べることは好きですが、ストレス発散というよりは、生活の中の一工程に過ぎないって感じですし…。あえて言うなら―」
そこで山崎の言葉が詰まった。
「あえて言うなら?」
あゆみは思わず山崎の最後の言葉を疑問形で繰り返していた。
「いや…これはちょっと…」
「何ですか? 教えてくださいよ」
「いや、これは恥ずかしいんで…」
「誰にも言いませんから。そんな言い方されると気になるじゃないですか」
山崎は少し考えた後、「本当に誰にも言いませんか?」とあゆみに確認を取った。
「約束します」
「じゃあ、お教えします…。私のストレス発散法は…妹と一緒にいる時間…ですかね」
あゆみは思わずさっきまで軽快に動かしていた鉛筆を持つ手を止めた。そして、何を言っていいのか分からないという表情で山崎を見つめた。
「だ、だから言いたくなかったんです!」
山崎はさっきまでのポーズを崩し、あゆみの方を向いて必死に弁解しようとしている。だが、「時すでに遅し」である。
「初めて会ったときから思ってましたけど、やっぱり山崎さんって、相当のシスコンですよね?」
「そんなことはないです!」
「いやだって、仕事現場に妹を連れて来るって異常ですよ。あのときはスルーしてましたけど」
「ですからあれは、カオルが勝手に付いて来ただけで…」
「はいはい。分かりました。山崎さんのとこの兄妹がいかに仲が良いのか、よく分かりました。なので、早く元のポーズに戻ってください」
「…」
山崎は納得いかない表情だったが、これ以上は弁解のしようがないと判断したのか、素直に元の「考える人」風のポーズに戻った。あゆみもまた、動きを止めていた鉛筆を再びキャンバスの上に走らせ始めた。
少しの沈黙の後、山崎が再び口を開いた。
「あ、そうだ。橋本さんの自殺未遂について、また気になることがあったんですよ」
「またですか…。今度は何ですか?」
「内海さんと石田川さんの話だと、橋本さんは、あなたの方に電話をかけて来たんでしたよね?」
「ええ」
「何と言っていたんでしたっけ?」
「私もよく覚えてませんけど、確か『仕事に疲れた』とか、『今までありがとう。さようなら』とか、そんな感じだったと思います」
「そうですか…」
山崎は黙って何かを考えているようだった。ちょうど今は「考える人」のポーズをしているので、考え事をしているのが板についているようだと、あゆみは思った。
「直子さんの電話が何か?」
「いやですね、どうしてあなたの方に最期の言葉を残そうとしたのかなと思いまして?」
「どういう意味? 私じゃ役不足だと?」
「いえ、そうではないんです。あのとき、橋本さんがいた部屋の隣には、内海さんがいらっしゃったんですよね? どうして彼女には何も言わなかったんでしょうか。ドアを開けて一言ぐらい何か言っても良かったように思うんですが」
「…」
「確か橋本さんは、あなたとはここ四年ほどの付き合いですが、内海さんとはもっと前から一緒に仕事をしているそうじゃないですか。そんな方に何も言葉を残さずに自殺しようとするでしょうか。内海さんによれば、橋本さんはクールな方ではありますが、感謝の気持ちを忘れるような人ではないそうじゃないですか」
「それは簡単ですよ。もし内海さんに自殺をしようとしていることがばれたら、邪魔されちゃうかもしれないじゃないですか。内海さんは部屋の鍵を持ってます。無理矢理部屋に入って、自殺を阻止することだってできるんですから」
「確かにそうです。ただ、失敗を恐れる割には睡眠薬自殺をする前にスタミナドリンクを飲んでるんです。それに、そもそも確実に自殺したいなら、わざわざ睡眠薬自殺なんて選ぶでしょうか。橋本さんの性格上、そういうことは事前に調べておくような気がするんですが」
「だからそれは、前にも言いましたけど、直子さんが急に自殺を思い立ったかもしれないじゃないですか。でも、近くに自殺できるものが睡眠薬しかなかった。だから仕方なくそれを使ったんでしょう?」
「私も最初はそう思ったんですが、あの部屋には簡単なキッチンがありますよね?」
「はい」
山崎の言う通り、あの作業部屋には、本格的なものではないが、軽い料理ぐらいならできる、キッチンのようなスペースがある。あゆみがいつも使っていて、あの日も直子の為にコーヒーを淹れる為に使ったコーヒーメーカーも、そこに置いてある。
「あそこに包丁も置いてあったんですよ。あれを使えば、少なくとも睡眠薬よりは確実に死ぬことができるはずなんです。橋本さんがそれに気づかなかったとは考えづらいんですが…」
「あまり痛いのは嫌だったんじゃないかしら。もし私が自殺しようと思ったとして、包丁で首を刺すか、睡眠薬を大量に飲むかを選べって言われたら、私は睡眠薬を選ぶと思います。確かに確実性は落ちるかもしれませんけど、血をまき散らして叫びながら死ぬよりは、一人で静かに、眠るように死ぬ方が絶対にいいと考えると思います」
「なるほど…。確かにそうかもしれません」
「でしょう?」
あゆみは、思わず声が上ずった。
「ありがとうございます。大変参考になりました」
「いえ」
「あ、あと…これはちょっとお聞きしにくいんですが…」
「何ですか? 物のついでです。答えられないこと以外なら、何でも答えますよ」
「ではお聞きしますが…」
「はい」
「橋本さんなんですが、自殺を図ったあの日、あなたとのコンビを解消したいと言っていたと聞いたんですが、本当ですか?」
あゆみの手が一瞬止まり、顔が強張った。
「随分耳が早いんですね。誰から聞いたのかしら。まあ、一人しか考えられませんけど」
「今、石田川さんが想像している方からお聞きしました」
「もう…。お喋りなんだから。内海さん」
「内海さんを責めないであげてください。私がどうしてもと頼んだんです。もちろん、誰にも言いませんから」
「…まあいいです。どうせ、遅かれ早かれ分かることでしょうから」
「しかし、どうして橋本さんはコンビを解消しようとしたんでしょうか。内海さんの話では、あなたのことを随分買っていたようでしたが」
「さあ。私には分かりません」
「内海さんの話では、自分の可能性を試したいとか何とかおっしゃっていたそうですね」
「ええ」
「私はただの一介の刑事に過ぎないので分かり兼ねるんですが、そういうお気持ちは、同じクリエイターとして理解できたりするんですか?」
「そうですねえ…。分からないでもないです。私たちクリエイターが一番恐れるべきなのは、現状に満足して、作品に妥協してしまうことです。私も直子さんも、『大正恋物語』がヒットしたことで、ちょっと気が緩んでたのかもしれません。このままじゃ二人とも駄目になるって、直子さんはいち早く気付いていたのかも。…私には分かりませんけど」
あゆみは言いながら、自分の言葉に驚いた。そうか、直子はそんなことを考えていたのかと、自分で自分の言葉に納得した。
あゆみはこれまで、直子が何を考えているのかなど、ほとんど考えたことはなかった。ただ直子に付き従うのみだった。だが、今こうして直子から離れ、直子が仕事に対して、漫画に対して、自分たちの作品に対して、そしてあゆみに対して何を考えていたのかを想像してみると、こんなにも新たな発見があった。そして、改めて直子を尊敬した。自分なら、ここまでいろいろなことに考えを巡らせることはできないだろう。直子には感謝してもし足りないことを、あゆみは今更ながら改めて知った。
「山崎さん。私ね、橋本直子の仕事のパートナーである前に、橋本直子のファンなんです。直子さんが描いた漫画を初めて読ませてもらったとき、正直笑いました。絵があまりにも下手だったんです。よくこれで漫画家を目指そうと思ったなって思えるぐらい。でも、ストーリーは素晴らしかった。笑えて、泣けて、登場人物みんなに魅力があって…。私にはこんな話、一生かかっても書けないと思いました。だから、直子さんがどんなきつい指示を出して来たり、何回も描き直しをさせられても、しんどかったですけど、嫌じゃなかった。自分が尊敬する相手と一緒に、自分たちが作りたいものを作れるんですから。私は、この人に一生付いて行こうって決めてたんです。…でも、直子さんはそうじゃなかったみたい」
山崎はあゆみの話を黙って聞いている。あゆみは、さっきよりも鉛筆を持つ手の動きが激しくなっていた。
「だから、直子さんがコンビを解消したいって言って来たとき、正直ショックでした。悔しかったんです。私は何の為に今まで血反吐を吐いて来たんだって…」
「…橋本さんも、苦渋の決断だったと思います」
「…どうかしら。あの人は、絵が私じゃなくてもやっていけるもの。…でも、私はそうじゃない…」
二人の間に沈黙が流れた。あゆみがキャンバスの上に鉛筆を動かす音だけが聞こえていた。
沈黙に耐えきれなくなり、あゆみが笑顔で山崎に言った。
「すいません。何か暗い話になっちゃって。もう少しでできますから、そのままの姿勢で我慢しててくださいね」
それから約十分ほどの時間が流れたが、二人とも一言も言葉を発さなかった。山崎は例のポーズのまま遠くを眺め、あゆみは少し険しい表情でキャンバスの上に鉛筆を走らせた。
そして約十分後、「ふう」と息を吐いた後、ようやくあゆみが口を開いた。
「できました。もう動いてもいいですよ」
「本当ですか。よかった、いつまでこのままなのかと思いましたよ。もう腰が痛くて…」
そう言いながら、山崎は椅子から立ち上がり、大きく伸びをして、あゆみの方へ歩いて来た。
「上手くできましたか?」
「誰に言ってるんですか? どうぞ見て下さい」
そう言って、あゆみはキャンバスを見るよう山崎に促した。山崎はあゆみの後ろに回り、キャンバスを覗いた。
そこに描かれていたのは、黒い線だけで描かれた、左を向いて足を組んで座っている山崎と、その奥に広がる雄大な自然だった。とても鉛筆一本で、ほんの数十分で描き上げたとは思えないほどの見事な出来栄えだった。あまりの見事さに、山崎は一瞬、開いた口が塞がらなかった。
「これは…すごいですね…。想像以上です」
「私、これでもプロなんですよ? それもトップレベルの」
あゆみのこの言葉は、この絵の前では嫌味にもならなかった。
「まあ、これは鉛筆だけで描きましたけど、もう少し時間を貰えるなら、色もお付けしますよ?」
「いえいえ。これで充分です。いや、むしろこのままの方がいいです」
「そうですか。じゃあこれ、差し上げます」
「え!? いいんですか!?」
「当然でしょう? 私が持ってても仕方ないじゃないですか。大事にしてくださいね」
「もちろんです!」
山崎は欲しかったおもちゃを買ってもらった子供ように喜んだ。
「ネットオークションに出品しちゃ駄目ですよ?」
「そんなことする訳ないじゃないですか! うちの家宝にします」
「そんなに喜んでもらえたら、こっちも描き甲斐があります」
山崎は、キャンバスを手に取り、惚れ惚れした顔で絵を眺めていた。
「ところで山崎さん。今日はこのまま東京に帰るんですか?」
「その予定です」
山崎は絵を眺めたまま答える。
「今からまた車で帰るのは大変でしょう? よかったら、今日はここに泊まって行きません? 話し相手がいないと退屈なんですよ」
「え!? いや、さすがにそれは…」
山崎は思わず絵から目を逸らし、あゆみの方を見た。
「どうして? 私と一緒の部屋で寝るのは嫌ですか? それなら仕方ないけど…」
「いえ、そういう訳ではなくてですね…。さすがに交際している訳でもない、それも知り合ってまだ数日の男女が、一緒の部屋に寝泊まりするというのは…」
「私は気にしません」
「私は気にします!」
「そうですか…。時に山崎さん。好きな食べ物は何ですか?」
「好きな食べ物ですか? そうですねえ…。オムレツなんかは大好物ですね」
「じゃあ、今日は私が手作りオムレツをご馳走しますよ。これでも私、料理には結構自信があるんですよ? 昔、小料理屋さんでアルバイトしてましたから」
「本当ですか!? それは是非頂きたいですが…」
山崎は少し考えた後、あゆみの目を見て言った。
「ありがたいお話ですが、やはり今日は帰ります。カオルも待ってるので」
「…そうですか。妹さんによろしく伝えておいてください」
「はい。オムレツはまたの機会に」
「ええ」
二人はお互いに笑顔を交わした。
「これ、ありがとうございます。部屋に飾らせてもらいます」
「ええ」
山崎はキャンバスを持って、静かに別荘を後にした。
あゆみは、その背中が見えなくなるまで、別荘のバルコニーからじっと見つめていた。