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山崎警部と妹の日常  作者: AS
24/153

譲れない女9

 直子が仕事をできない状態になってからも、内海芳子は忙しかった。

 まずは「大正恋物語」を連載している漫画雑誌との休載するにあたっての謝罪と打ち合わせ。そして予定されていたサイン会などのイベントも全て中止になるので、これも謝罪しておく必要がある。その他各方面謝罪と打ち合わせの予定がびっしり入っていた。

 まだそれだけなら良かったのだが、直子が事故でなく自殺だったことから、各メディアから取材の申し込みが殺到していた。人の命に関わっていることであるにも関わらず、どこも「詳しい話を聞かせて欲しい」の一点張りで、臆面もなく毎日のように何社も取材陣が雑誌社に電話をかけて来たり直接乗り込んで来たり、中にはこのマンションにまで押しかけて来るものまであった。芳子は、それを帰すだけでも一苦労した。

 やっとそれらの仕事が一段落し、食事でも摂ろうかと思っていた頃、マンションのインターホンが鳴った。出てみると、モニターには見覚えのある男女が映っている。

「こんばんは。山崎と申します。昨日お伺いした」

 男の方がモニター越しに挨拶をしてくる。芳子は、「こんばんは」という挨拶に愕然とした。もうそんな時間なのか。仕事に追われているうちに、外はすっかり暗くなっていた。今日はそれほどまでに忙しかった。

「はい。今開けます」

 芳子は解錠のボタンを押し、マンションのドアを開けた。

 芳子は少し頭を抱えた。食事のタイミングをすっかり失ってしまった。今日は朝からずっと電話や取材対応に追われていたために、飲まず食わずで働いていたのだ。やっと何か食べられると思ったところで、今度は警察だ。まるで狙いすましたかのようなタイミングでやって来る。芳子は少し嫌気がさした。

 そんなことを考えていると、再びインターホンが鳴った。芳子は玄関に向かい、ドアを開けると、そこにはさっき見た男女の刑事が立っていた。女の方は何やら紙袋を持っている。

「こんばんは。山崎です」

「東堂です」

「こんばんは。どうぞ」

 芳子は二人を部屋の中へ招き入れた。

「今日は、あの妹さんはいらしてないんですね」

「ああ、カオルですか。あいつは今日は留守番です。いつも私の仕事について来るんで、学校の課題が溜まってたみたいで。叱って家でやらせてます」

「あら」

 芳子はいたずらっぽく笑った。

部屋に入った山崎とエリナは、昨日座ったソファの同じ場所に座り、エリナが持っていた紙袋をテーブルの上に置いた。芳子は、その紙袋の中身を聞かずにはいられなかった。なぜなら、さっきからずっとその紙袋の中からいい香りが漂っていたからだ。

「あの…」

「はい?」

 答えたのは山崎だ。

「その紙袋は何ですか? さっきからいい匂いがしますけど」

 芳子の質問に、エリナが紙袋の中に手を入れながら答えた。

「あ、これはお弁当です。もしかしたら、内海さん、今日は忙しくて何も食べていらっしゃらないんじゃないかと思って、ここに来る途中に買って来たんです」

「まあ!」

 エリナは紙袋の中から何種類もの弁当を取り出した。そこには、幕の内弁当やのり弁などの定番をはじめ、唐揚げ弁当や焼き肉弁当など、様々な弁当があった。そしてそのどれもがアツアツの状態だった。おそらく、このマンションの近くにある弁当屋で買って来たのだろう。極限まで空腹になっていた芳子は、口の中から唾液がこれでもかと流れ出てくるのを感じていた。

「すごいでしょう? これを買って来たのは、東堂さんのアイデアなんですよ」

「そうなんですか!? 私、今日は本当に何も食べてなかったんです! 本当にありがたいです! ありがとうございます!」

 芳子は喜びを隠さなかった。芳子には、この東堂エリナという若い女刑事が、女神のようにさえ思えた。

「喜んで頂けて良かったです」

「本当に嬉しいです。どれも選んでも?」

「もちろんです」

「あらあ。どうしようかしら…」

 芳子は散々迷った挙句、焼き肉弁当を選び取った。芳子はもうすぐ還暦になる年齢だが、焼き肉で胃もたれすることはほとんどなかった。芳子は焼き肉弁当の包装を解き、付属の割り箸を割って早速肉を一枚、自分の口へ運んだ。

「ああ美味しい」

 弁当の肉は柔らかく、口の中でとろけるようだった。もちろんそこまで高級な肉という訳ではないのだろうが、今の芳子にはどんな高級品よりも、この焼き肉弁当の肉が美味に感じられたのだ。空腹が何よりのスパイスとはよく言ったものだと思った。

「お二人はもうご飯は済まされたんですか?」

 答えたのはエリナだった。

「いえ。実はまだなんです」

「じゃあ、お二人も食べてください!」

「いいんですか?」

「もちろんです! それに、私一人だけ食べてるなんて申し訳ないじゃないですか。ほら、お二人も食べて」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 そう言って、エリナは唐揚げ弁当を手に取った。

「じゃあ、私も頂きましょうかね」

 山崎は幕の内弁当を選んだ。

 三人はしばらく言葉を交わさず、それぞれの弁当の味を楽しんだ。そして、ものの十分ほどで、三人は弁当を食べ終えてしまった。

「ああ。美味しかった、本当にありがとうございます」

「いえいえ。私たちまで頂いちゃってすいません」

「いいんですよ。食事は大人数でした方が楽しいんですから」

「そう言って頂けてありがたいです」

 エリナは芳子に感謝を示した。

「残りの弁当はどうしましょうか。もし良かったら差し上げますが…」

「いいんですか? 多分明日からもかなり忙しくなると思うので、そうして頂けるとすごくありがたいです」

「大変ですね。それなら、是非もらってください」

「ありがとうございます。では頂きます」

 芳子は残りの弁当を紙袋に戻し、部屋の奥にある台所にそれを置いた。

「では、お腹も膨れたところで、またいくつかお話をお伺いしたいのですが」

 芳子が紙袋を置いてソファに戻って来ると、山崎が話を切り出した。

「それは構いませんけど、私の分かることは昨日全部お話したと思いますけど」

「いえ。まだお聞きしていないことがあるんです」

「それって?」

「昨晩行われた、橋本さんと石田川さんの打ち合わせの内容です。ただの打ち合わせを、あんな遅い時間にするのはやはりおかしいと思うんです。それもわざわざご友人と会っている石田川さんを呼び出してまで。おそらく、何か重要なお話だったのではないかと思いまして。で、内海さんならその内容を知ってるんじゃないかと思いまして」

 芳子は、本当のことを言うべきか迷った。しかし、日本の警察は優秀だ。直子のことだから、あゆみに代わる新しいパートナーとは既に話をつけてあるだろう。この刑事たちは、すぐにその新しいパートナーの元へたどり着くに違いない。それなら、わざわざこの件を長引かせるのも不毛だと思った。

「一応知ってはいますけど、絶対に漏らさないと約束して頂けますか?」

「もちろんです」

「じゃあ、お弁当のこともありますし、お礼にお話します。実は、直子さん、あゆみさんとコンビを解消しようとされてたみたいです」

「そうなんですか」

 山崎とエリナは素直に驚いた表情を見せた。

「はい」

「それはまたどうして?」

「私も、そこまで詳しいことは分かりません。あゆみさんから聞いただけですから。ただ、私が聞いたのは、直子さんが自分の新たな可能性を試してみたくなったそうです。だからコンビ解消を…」

「そうですか…」

「正直、私は全然信じられないんですけど」

「話して頂けて感謝します。あと、もう一つお聞きしたいことがあるんですが」

「はい。何でしょう?」

「昨日の夜、何か気になったことはありませんでしたか?」

「気になったこと? そんなこと言われても…」

「もう一度よく思い出して頂きたいんです。昨日の夜、何かおかしいと思われたことはありませんでしたか?」

「…あの…」

「はい?」

「どうしてそんなことお聞きになるんです? 直子さんは自殺なんですよね? さっきから聞いてると、そうじゃないみたいに思えるんですけど…。もしかして、自殺じゃないんですか?」

「…」

 山崎は何も答えず、ただ芳子の顔をじっと見るだけだった。

「…分かりました。ちょっとお時間を頂けます?」

「もちろんです」

 芳子は覚悟を決めたような表情で、昨晩あったことを事細かく思い出した。その間、山崎とエリナは何も言わずに、芳子の返答を待った。

「あ、そういえば…」

 しばらくの沈黙の後、芳子が何かを思い出したように話し始めた。

「何かありましたか?」

「本当にちょっとだけ気になったことなんですけど…」

「何でも構いません」

「あゆみさん…一度ここから帰って、直子さんの電話を受けてからもう一度戻って来たとき、すごく汗をかいてらっしゃったんです。それも尋常じゃないぐらいに。あゆみさん、エレベーターと車しか使ってないはずなのに、変だなと思ったんです」

「そうですか…。汗を…」

 山崎は何かを考えているようだった。芳子は、山崎が直子の自殺未遂に、あゆみが何らかの形で関与していると考えているのではと思い、慌てて弁解した。

「も、もしかして、あゆみさんのことを疑ってらっしゃる訳じゃありませんよね!?」

「…」

 山崎はまたも何も答えない。

「ち、違いますよ!? あゆみさんに限ってそんなことは絶対にありません! 汗をかいてたのだって、直子さんの電話を受けて焦ってたからです! そんな…あゆみさんが…」

「内海さん。落ち着いて下さい。私たちはただ、詳しいお話を聞きたいだけなんです」

 狼狽している芳子を、エリナが落ち着かせようとした。

「じゃあ、あゆみさんを疑ってる訳ではないんですね?」

 この質問には山崎が答えた。

「正直、それはまだ何とも言えません。ですから、内海さんの証言が重要になって来るんです。石田川さんの疑いを晴らす為にも、できるだけ多くの情報を教えて頂きたいんです」

「そんな…あゆみさんが直子さんを殺そうとするなんて…私には考えられません」

「内海さん―」

「だって、私はお二人が初めてコンビを組んだときからずっとお二人のことを側で見て来たんです。そんなこと…有り得ません!」

 山崎は芳子を落ち着かせる為、一旦話題を変えることにした。

「橋本さんと石田川さんの出会いはどんなものだったんですか?」

「私は、元々は直子さんの秘書をやってたんです。正直、その頃の直子さんは、漫画家としては鳴かず飛ばずでした。お話は面白いんですが、絵があまり得意ではなかったんです。キャラが動いているように見えないとか、キャラの感情が分かりにくいとか、担当の編集者の方にも散々言われて…。直子さんも努力はされたんですが、やはり、他の漫画家さんに比べると、どうしても劣ってしまってました。そんなときです。ある漫画雑誌の新人コンクールで、当時大学生だったあゆみさんの作品が載ってたんです。それをたまたま直子さんがご覧になって、すぐに私にこう言ったんです。『この漫画の作者に連絡してください!』って。私は急いでその雑誌を出版してる会社に連絡して、あゆみさんのアポを取ったんです」

「行動の早いお方なんですね」

「ええ」

 芳子は話しているうちに落ち着いてきたのか、やっと少し笑顔を見せた。

「それからすぐあゆみさんを、当時仕事部屋兼住居として使ってたアパートにお呼びしたんです。そして、直子さんは開口一番、あゆみさんにこう言ったんです。『あなたの漫画を読ませてもらったけど、はっきり言って、一つも面白くなかったわ。設定は破綻してるし、キャラの人物設定も曖昧。だから誰一人共感できない』って。その後も、語彙が少ないとか、起承転結がなってないとか、もうボロクソに酷評したんです。私、思わず笑っちゃって」

 芳子は、そのときのことを思い出してくすくすと笑い始めた。山崎とエリナも、つられて微笑んでしまった。

「もちろん、あゆみさんは怒り出しました。わざわざ悪口を言う為に自分を呼び出したのかって。それで、帰ろうとしたあゆみさんに、直子さんが言ったんです。『でも、あなたの絵は誰よりも評価してる。だから、私と組んで欲しい。私の脚本と、あなたの絵が一緒になれば、誰にも負けない漫画ができる』って。それから二人は一緒に漫画を作るようになったんです。それが今から五年前。二人は本当に売れっ子の漫画家になりました。今ではこんな良いマンションの部屋を二つも借りられるぐらいになって―」

「ちょっと待ってください」

「はい?」

 芳子は、急に話の腰を折られたことを少し不愉快に思ったが、山崎の真剣な表情を見て、自分が何かおかしなことを口走ったのではと、少し不安になった。

「何か?」

「今、部屋を二つ借りているとおっしゃいましたか?」

「ええ」

「この部屋の他にもう一つ借りている部屋があるんですか?」

「はい。そうですけど」

「どの部屋ですか?」

「この隣です。九〇二号室」

「そうですか…」

 山崎は、笑いを堪え切れないというような表情を見せた。エリナが「山崎さん?」と呼びかけたのにも答えなかった。

「内海さん。お願いがあるんですが」

「はい。何でしょう?」

「その部屋、見せて頂くことはできますか?」

「それは構いませんけど。今からですか?」

「そうですねえ。今からでもいいんですが、二度手間になるので、後日でも構いませんか? ちょっと用意したい物もあるので」

「用意したいもの? はあ…分かりました」

「ありがとうございます。では、また伺います。そのときはこちらから連絡しますので」

「分かりました」

「では、我々は今日はこの辺で」

 そう言って、山崎とエリナはソファから立ち上がった。

「あ、お弁当、ありがとうございました」

「それなら東堂さんに」

「東堂さん。どうもありがとう」

「いえ、いいんです。早めに召し上がってください。賞味期限はあまり長くないみたいなんで」

「では、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 挨拶を交わし、山崎とエリナは玄関から出て行った。

 再び一人になった芳子の胸には、一抹の不安が残された。



 芳子との話を終え、エレベーターに乗って一階へ降りていると、エリナが山崎に問いかけた。

「山崎さん」

「はい?」

「何か分かったんですか? 後日また来るって。しかも用意があるって何のことなんですか?」

「それはそのときのお楽しみです」

 山崎は、まるで遠足を明日に控えた小学生のように、わくわくしているような顔で笑っていた。

「時に東堂さん。東堂さんは、学生時代は何か部活等やってましたか?」

「私ですか? …正直、恥ずかしいのであまり言いたくないんですが…」

 しかし、山崎の表情は、「答えない」という選択肢は許さないと言わんばかりのものだった。

「…私は、ずっと文芸部でした。私、学生時代はあまり目立つような生徒じゃなかったんです。友達とみんなで遊ぶよりは、一人、教室の隅っこで本を読んでるほうが楽しいって感じの子でしたから。だから、あんまり友達もいなくて…」

「そうですか」

「あの、このこと、カオルさんには絶対に言わないでくださいね! もしこんなことを知られたら、どんなに馬鹿にされるか…。お願いしますよ!」

「分かりました。その代わりと言ってはなんですが、そんな文化系の東堂さんにお願いしたいことがあるんです?」

「は?」

 山崎は更にニヤニヤし始めた。エリナは、その顔が少し気持ち悪かった。

 エレベーターは、気付くと一階に着いていた。


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