譲れない女8
直子が自殺を図った翌日、あゆみは昨日いたのと同じテニスコートに来ていた。さすがに二日連続ということもあって、昨日よりも集まった人数はかなり少なかった。
昨日と違い、あゆみは健司たちがテニスをしているのをベンチから眺めているのがほとんどだった。最初は何度か自分もプレイしようとしたのだが、どうしても今はテニスを楽しむ気にはなれず、こうして友人たちを見ている方を選んだのだった。
あゆみが健司たちをぼうっと眺めていると、どこからか「先生ー!」と誰かを呼ぶ声が聞こえた。あゆみは、声は聞こえたものの、自分には関係のないものだと思って無視をしていた。
しかし、そんなあゆみの耳に、さっきと全く同じ声が聞こえて来た。しかもさっきよりも声が近くなっている。さすがに気になったあゆみが声の方を向くと、そこには昨日の黒服の刑事とその妹が並んで立っていた。
刑事は、あゆみの方に向かって大きな声で呼んでいるようだった。
「先生ー! 私です! 昨日お会いした! 覚えてらっしゃいますか!?」
「私のことも覚えてますかー!?」
隣の妹も一緒に大きな声でこっちを呼んでいる。
「あなたたちは…。入口は向こうです!」
そう言って、あゆみはテニスコートの入り口の方を指差して刑事に教えた。
黒服の刑事は、「ありがとうございます!」とお礼を言って、妹と一緒に入口の方へ回って行った。
少しして、黒服の刑事とその妹は、あゆみが座っているベンチの横へやって来て、あゆみに朝の挨拶をした。
「おはようございます、先生」
「おはようございまーす!」
あゆみは二人に向かって挨拶を返した。
「おはようございます。えっと、山崎さん、でしたよね? で、あなたは妹のカオルさん」
あゆみは、今度はしっかり『やまさき』と発音した。
「先生に名前を覚えていただけてありがたいです。なあ? カオル」
「うん! 私、『大正恋物語』全巻持ってるよ! 先生、後でサインもらってもいいですかー?」
「いくらでも。あと、『先生』はやめてもらえません? あまりその呼ばれ方は好きじゃないの」
「そうなんですかあ? じゃあ何て呼べばいいですか?」
「普通に名前でいいわよ」
「じゃあ、『あゆみさん』で!」
あゆみはカオルににっこりと笑顔を見せた後、カオルの後ろに立っている山崎に話しかけた。
「どうして私がここにいると?」
「内海さんに聞きました」
「そうですか」
「あの…我々も座っても?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
そう言って、山崎とカオルは、あゆみを挟むようにして両脇に座った。
「いやあすいません。ここに来るまでに汗をかいてしまって」
「そんな黒いスーツ着てるからじゃないですか? 妹さんみたいにもっと薄着になったら?」
カオルはホットパンツにタンクトップという、少し目のやり場に困る服装をしていた。タンクトップの胸元から、カオルの豊満な胸がこぼれそうになっていた。
「いえ。私はこれが一番落ち着きますので」
「お兄ちゃん、変なんだよ? 家でもスーツ着てるんだから。だからクローゼットの中もスーツばっかりなの! スーツ以外の服を着てるのは寝てるときぐらい!」
「へえ。それは随分変わってるわね」
「うん! 変わってる! 変わってる!」
「変わってますかねえ」
「変わってると思いますよ」
「そうだよ! お兄ちゃんは変わってる! でもそんなところがカオルは好き!」
「ああ、ありがとう」
「…」
少し変な空気になってしまった。それを感じていないのはカオルだけのようだ。
沈黙を嫌い、山崎が口を開いた。
「しかし石田川さん。確か昨日もテニスをされてたっておっしゃいましたよね? 二日連続ですか?」
「いけません?」
「いえ。そういう訳では…」
「…ここにいるのは、私の大学時代の友人たちなんです。昨日言いましたっけ?」
「ええ。聞きました」
「同じテニスサークルに入ってて、今でもこうしてたまに会って、一緒にテニスしたり、ご飯を食べたりしてるんです」
「そうなんですか」
「それで、今日の朝に直子さんのことをニュースで知ったみたいで、私を元気づけようって言って集まってくれたんです」
「良いお仲間ですね」
「ええ。本当に」
「友達が一人もいないお兄ちゃんとは大違いだね!」
「カオル。ちょっと黙っててね」
「え? 山崎さん。友達が一人もいないんですか?」
「石田川さん、食いつかなくていいですから」
「だって気になるじゃないですか。ねえ?」
あゆみはカオルに方へ問いかけた。
「聞いてよ、あゆみさん。お兄ちゃん、スマホにカオルと仕事関係の人以外の連絡先入ってないんだよ! 学生の頃も、家に友達を連れて来たことなんて一回も無いし、修学旅行の班では、他の班員が全員他のグループのとこに行っちゃって、お兄ちゃん三泊四日の間、ずっと一人で北海道の街の中を散策してたんだよ!」
「カオル。お願いだからもうやめて。散策ですることないから海鮮丼を食べ歩いてたら、食べ過ぎてホテルに帰った後、部屋で吐いちゃった話はやめて」
「そんなことがあったんですねえ」
「『何であいつ一人で回ってたのに吐いてんだよ』って、同じ部屋の人たちからすごく気持ち悪がられましたよ。カオル、その話は二度としないでね。お兄ちゃん、心が泣いちゃうから」
「はーい。分かりましたー」
あゆみは、思わず笑みをこぼしていた。それを見て、山崎があゆみに言った。
「良かったです」
「え?」
「いえ。あんなことがあって、気を落とされているんじゃないかと思いまして。笑える元気があって良かったです」
「…ありがとうございます」
「いえいえ」
「…じゃあ、山崎さんとカオルちゃんは、今日は私を元気づけるために来てくれたんですか?」
この問いに、山崎は複雑な表情を見せた。
「…そうだったら良かったんですが、実は違うんです」
「まあ、そうでしょうね。警察だって、そんなに暇じゃないでしょう?」
「そうなんです。実は、橋本さんの件について、ちょっと気になることがあったので、石田川さんのご意見を伺いたいと思いまして」
「気になること? 何ですか?」
「実は、指紋のことなんです」
「指紋?」
「はい。実は―」
そこまで言って、山崎は黙ってしまった。
「山崎さん?」
山崎は答えず、目の前のテニスコートを見ていた。そこには、健司の他、あゆみの友人たちが楽しそうにテニスをしている。
あゆみはもう一度呼びかけてみた。
「山崎さん? どうかしました?」
あゆみの二回目の問いかけに、山崎がやっと反応した。
「あの…石田川さん」
「はい?」
「私もやってもいいでしょうか?」
「はい?」
あゆみは、山崎が何を言ってるのか分からなかった。
「やるって、何をですか?」
「テニスです。実は私、中・高とテニス部だったんですよ。こうして見てたら久しぶりに私もやりたくなっちゃって」
「はあ…別にいいですけど…」
あゆみは若干呆れてしまった。この男は、本当に刑事なのだろうか。少なくとも、あゆみが持っていた『刑事像』とはかけ離れていた。
刑事とはもっと、厳格で、品があって、端的に言えば、カッコいい職業だと思っていた。まあ、そのイメージの大半は刑事ドラマを観ている間に培われたものであるが。ただ、それを差し引いても、この刑事は変だ。自殺を図った人間の仕事仲間のプライベートに割り込んで来て、あろうことか一緒にテニスを楽しもうとしている。しかも妹同伴でだ。
普通なら怒り出してもおかしくないのだろうが、あゆみは、不思議と嫌な気分にはならなかった。山崎もカオルも、人間として親しみやすい雰囲気を持っていた。こういう出会い方でなければ、この人たちとはきっと仲良くなれただろうと、あゆみは自分の運命を少し呪った。
「健司ー! ちょっとこっち来てー!」
あゆみがテニス中の健司を呼ぶと、健司はゲームを一旦中断し、あゆみたちの元へ歩いて来た。
「どうしたの? ていうか、この人たちは?」
「こちらは、刑事の山崎さん。昨日の直子さんの件についていろいろ調べてくれてるの」
「どうも、山崎です」
山崎は健司に向かって会釈をした。
「初めまして。あゆみの大学時代の友人の、山中健司と言います」
健司も山崎に倣うようにして会釈をした。健司は一見軽そうな男に見えるが、礼儀や基本的なマナーはしっかりとした人間だ。大手広告会社に内定したのも頷ける。
「それで、こっちは妹のカオルちゃん。この兄妹、いつも一緒にいるぐらい仲がいいんですって」
「いえ、それほどでは―」
「そうなんです! 私たち、とっても仲が良いんです! どれくらい仲が良いかってと言うと、もう兄妹の線を何度も超えてしまってるほどに―」
「カオル、誤解を招くような発言はそれぐらいにしときなさい」
「はーい」
「何だ。冗談だったんですね。私はてっきり本当のことかと」
「やめてください。いくら何でも、妹に手を出したりしませんよ」
「あら、分かりませんよ? そういう事例も、現実に無くはないんですから」
「私は違います」
「カオルは違わないよ!」
「話がややこしくなるから、カオルはちょっと黙っててね」
あゆみが山崎とカオルのやり取りに微笑んでいると、健司があゆみに尋ねた。
「ところで、あゆみ。何で俺に山崎さんを紹介したわけ?」
「あ、それがね、山崎さん、ちょっとテニスがしたいらしいの」
「そうなんですか?」
「はい」
「こう見えて、中・高はテニス部だったらしいわよ」
「へえ。俺は大学からで、しかも遊びでやってただけだから、山崎さんには敵わないかもなあ」
「いえいえ。まあでも、一応レギュラーでした」
どうやら山崎は自慢したがりな性格らしい。あゆみは少し面白かった。
「じゃあ山崎さん。是非その実力を見せてくださいよ」
「分かりました。ただ、久しぶりなので、上手く体が動くかどうか自信ありませんが」
「駄目ですよ。そんな保険かけるのは」
あゆみのからかいに、山崎は照れ笑いのような顔を見せ、近くに置いてあったラケットを持ってコートへ向かった。
「では、行って来ます」
「お兄ちゃーん! 頑張れー!」
山崎がコートに向かうのと同時に、健司もコートの反対側へと歩いて行った。
「健司ー! 本気でやっていいからねー!」
「おう!」
あゆみの声に健司が右腕を挙げて答える。
「ちょっとやめてくださいよー」
山崎が困ったような顔で言う。何だか可愛いなと、あゆみは思った。
「カオル! 石田川さん! 見ててくださいねー!」
山崎がこちらを振り向いて言う。意外と人に見られるのが好きな性格らしい。ただ、テニスをするのにスーツのジャケットを着たままなのはいかがなものかと思った。いくら着心地が良くても、さすがにそれでは肩の辺りが動きづらいだろうに。
そう思ったが、少し面白そうなので、あゆみは敢えて何も言わないことにした。
「じゃあ、行きますよー!」
そう言って、健司が山崎に向かってサーブを打った。大学から始めた割には、綺麗なフォームをしていた。健司は非常に飲み込みが早く、何でもすぐにマスターしてしまう。大学から始めたテニスも、経験者の先輩に教えてもらうと、あっという間に平均並みにまで上手くなってしまった。
あゆみは、そんな健司の性質を羨んだものだった。あゆみは健司とは正反対で、昔から何に関しても上達が遅かった。勉強もスポーツも、人並み以上に努力しなければ、平均点すら取れなかった。
そんなあゆみに唯一与えられた才能が、絵だったのだ。物心ついた頃から絵を描くことが好きだったあゆみは、そのあまりの上手さに、学校では「神童」の名を欲しいままにしていた。大学も本当は芸術大学に行きたかったが、あゆみの実家の経済状況では、とても授業代を払うことはできなかった。あゆみの実家は、あまり裕福とは言えなかったのだ。それでもあゆみの両親はあゆみを芸大に進ませようとしたのだが、あゆみがそれを拒否した。あゆみは自分の家の経済事情を、これ以上逼迫したものにする訳にはいかないと、自ら身を引いたのだ。あゆみはそれを全く後悔していなかった。絵の勉強ならどこででもできると思っていたし、何より一生の友人と言える人たちに出会えた。あゆみは、健司や直子、それに山崎やカオルなど、信頼できる、自分が好きになれる人間に出会える運の良さだけは、他の人には負けない自信があった。
そんなことにあゆみが思いを巡らせていると、健司が打ったテニスボールが山崎のコートへ突入し、地面にバウンドした後、山崎の方へと向かって飛んで行っていた。山崎はこれまでに見せたことのない鋭い眼光でボールを睨み、両手で握ったラケットをボールに向かって力いっぱい振り抜いた。
テニスボールは、あゆみの足元に転がっていた。あゆみはそのボールを拾い上げ、向こう側のコートに立っている健司に投げて返した。山崎のラケットがこれでもかという勢いで空を切ったことは、敢えて触れないことにした。
「あれ? おかしいな。まだちょっと感覚が戻ってないみたいだな」
山崎がぶつぶつと自分に対して言い訳しているのを尻目に、あゆみは健司に向かって呼びかけた。
「健司ー! 山崎さん、久しぶりでまだ感覚が戻ってないらしいから、もうちょっと優しく打ってあげて!」
「おう! 分かった!」
山崎は少し不満そうな顔を見せたが、特に抗議する訳でもなく、まだぶつぶつと何か言っているようだった。
「山崎さん! 行きますよ!」
「はい! お願いします!」
健司は再びサーブを打った、今度はさっきのようにラケットを振り抜かず、明らかに打ち返しやすいように優しく打ってくれていた。山崎は自分に向かってゆっくりと飛んでくるボールを、今度はさっきよりも一層鋭い眼光で睨み、さっきと同じようにラケットを振り抜いた。そして、さっきと同じように空振りした。
「あれ? 変だな。何でかな」
山崎は、またぶつぶつと何か言っている。そんな山崎に、健司がコートの向こう側から声をかけた。
「山崎さん! 今度は山崎さんからサーブを打ちますか!?」
このままではテニスが始まらないと思ったのか、健司が助け船を出してくれた。しかし、山崎はその申し出に「いえ、大丈夫です!」と、毅然として答えた。
「いや、そうした方がいいでしょ!」
あゆみはベンチから思わず声を上げてしまった。
「山崎さん! 一回山崎さんのサーブを見せてくださいよ! そっちの方が見てみたいです!」
「カオルも! お兄ちゃんのツイストサーブ見せてー!」
おそらくツイストサーブは打てないだろうが、テニスをもう少し盛り上げる為にも、カオルがこの提案に乗ってくれたのはありがたかった。そして、こちらの思惑通り、山崎は「そうですか? じゃあ私のサーブからでお願いします」と言って、健司にボールを要求した。どうやら山崎は、持ち上げられるとすぐにいい気になってしまう性格らしい。もしかしたらカオルもそのことを理解してこの提案に乗って来たのかもしれない。そう考えると、あゆみは山崎のことがますます可愛く思えて来た。自分より年上の男性に対して「可愛い」というのは失礼にあたる可能性があるので、あゆみはこのことは本人には伝えないことにした。
健司が山崎に向かってテニスボールを下投げで優しく投げると、山崎はそれを見事に取り損ね、「あーあー」と言いながら転がって行くボールを小走りで追いかけていた。
「では、行きますよー!」
やっとのことでボールを手に取った山崎は、コートのエンドラインに沿って立ち、健司に向かって大きな声で言った。
「いつでもどうぞー!」
山崎の呼びかけに答える健司に向かって、山崎はボールを上空に高く投げ上げ、ボールが最高到達点に達した瞬間、右腕に握ったラケットを上向きに思い切り振り向いた。そしてラケットは思い切り空を切った。
「あれ? おかしいな。サーブは得意だったんだけどな。何でだろう」
これで三回目だ。三回も同じような光景を見せられている。あゆみは笑いを堪えるのに必死だった。
「すいません! もう一回お願いします!」
「どうぞ!」
どうやらもう一度サーブに挑戦するらしい。そろそろラケットにボールが当たる所を見てみたい。そんなあゆみの願いは、ついに届くことになる。
山崎がさっきと同じようにボールを投げ上げ、ラケットを振り抜くと、ラケットのガットとボールがぶつかったときの、乾いた気持ちのいい音が、コート中に鳴り響いた。そして、思い切り弾き飛ばされたテニスボールは、青い空に向かって真っすぐ飛んでいき、健司の頭上をあっという間に通り過ぎ、コートを囲むフェンスを軽々と越えて、どこかへ消えて行ってしまった。
「あー、すいません。どうやら今日は調子が出ないみたいです。カオル! 次はカオルがやっていいよ!」
「本当に!? やったー!」
カオルは立ち上がって喜び、山崎から奪い取るようにしてラケットを手に取った。手ぶらになってしまった山崎は、とぼとぼとあゆみが座っているベンチの方へ歩いていく。
「びっくりしました。まさかこんなに下手だとは」
あゆみは、自分の隣に座った山崎に言った。
「言わないでください。今日は体がなまってたんです」
「なまってたってレベルじゃなかったように思えますけど」
「だからそれ以上言わないでください」
あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆う山崎に、あゆみは思わず笑みがこぼれた。こうして少し意地悪すると、反応がますます可愛い。
山崎の代わりにカオルの入ったコートでは、健司とカオルが白熱した試合を繰り広げていた。さっきまでまともにボールすら打てなかった人の妹とは思えない。
「カオルちゃんって、テニスしてたんですか? 相当上手いですけど」
「いえ。遊びでぐらいならあるかもしれませんが、本格的にやったことはないはずです」
「本当ですか? 素人にできる動きじゃないと思いますけど」
「カオルは昔から何でもすぐできるようになるんです。勉強もスポーツも。いつもはああやって適当なことばっかり言ってますが、本当は結構すごい奴なんです」
「へえ。何て言うか、意外ですね」
「皆さんそうおっしゃいます」
「私とは正反対」
「…」
山崎は何も答えなかった。というより、何と答えていいのか分からなかったのだろう。
「ところで山崎さん」
「はい?」
「今日は私に話があったんじゃ?」
「あれ? そうでしたっけ?」
「そうですよ。直子さんのことで気になることがあるとか、指紋がどうとか言ってたじゃないですか」
「ああ、そうでした。テニスに夢中ですっかり忘れてました」
「しっかりしてください」
「すいません。では改めて、石田川さんにお聞きしたいのですが、まず昨日、石田川さんが橋本さんの部屋に入ったのは、テニスから帰って来たときと、一度帰ってから橋本さんに電話をもらって戻って来たときとで二回ということで間違いはないですか?」
ここで返答を間違える訳にはいかない。本当は三回だが、そのことは絶対に言い洩らす訳にはいかない。
「ええ。間違いないです」
「では、その二回で橋本さんの部屋で何をしたか、それぞれできるだけ具体的に教えて頂けませんか?」
「あの、山崎さん」
「はい?」
「それってもう本題に入ってるんですか? 山崎さんはさっき、指紋が何とかって言ってたじゃないですか。それとこの話と、何か関係があるんですか?」
「もちろんです。非常に関係あります。教えて頂けますか?」
あゆみは少し不満そうな顔を見せたが、答えない訳にもいかないので、山崎の質問に渋々答えた。
「何をしたかって聞かれても困るんですけど。一回目は、ただ二人で仕事の打ち合わせをしてただけですから」
「できればもっと詳しいことを教えて頂きたいんです。例えば、どっちがどこに座っていたか、あるいは立っていたかとか、何かを食べていたか、あるいは飲んでいたかとか」
「そうですねえ…」
あゆみは、何を言うべきで、何を言ってはいけないのか、頭をフル回転させて考えて答えた。
「一回目のときは、直子さんは仕事机のとこ、つまり、私たちが発見したときと同じとこに座ってました。私は、その前にあるソファで、冷蔵庫からジュースを取って飲んでました」
「それだけですか?」
「ええ。それだけです」
コーヒーのことは言えない。直子は自分でコーヒーを淹れ、自分でその中に睡眠薬を入れたことにしているのだ。あゆみは、自分は昨日、コーヒーに関することは何もしていない、触っていないことにしなければならない。
「では二回目は?」
「二回目は、私はずっと部屋を入ってすぐの所に立ってました。あまりのことに呆然としてしまって。内海さんは直子さんにすがってましたけど」
「では、二回目にあの部屋に入ったときは、橋本さんには近づいていないということですね?」
「ええ。何なら、内海さんに確認してもらってもいいです」
「なるほど…。分かりました」
「…え? お終い?」
「え?」
「『え?』じゃないですよ。何の為にそんなこと聞いたんですか? 指紋って結局何なんですか?」
なかなか核心を言わない山崎に、あゆみは少し苛立ちを覚えた。しかし、山崎はそんなことは気にもせずに話を続けた。
「ああ、すいません。実はですね、昨日、橋本さんが自殺を図ったあの作業部屋を詳しく調べてみたんですが、一か所、おかしなところがあったんです」
「おかしなところ? どこかに指紋が付いてたんですか?」
「いえ。その逆です。指紋が付いてるはずのところに付いていなかったんです」
「…それって?」
「あの部屋の鍵を開け閉めする為のサムターンと呼ばれる部分です」
「サムターン…」
「はい。あの部屋のサムターンには、誰の指紋も付いていませんでした。昨日の夕方の時点で内海さんがあの部屋を掃除してますから、本当ならあそこには橋本さん一人だけの指紋が残っていないとおかしいことになります。しかし、あそこには誰の指紋も残っていなかった。おそらく鍵を閉めた後に拭き取ったか、もしくは手袋か何かをしたまま鍵を閉めたということになるんです。橋本さんは一体なぜそんなことをしたんでしょうか?」
あゆみは必死に記憶を掘り起こしていた。そして思い出した。確かにあのとき、ベランダから九〇一号室に侵入したとき、あゆみは手袋をはめたまま部屋の鍵を閉めた。しかしそれは仕方が無かった。まさか手袋を外して自分の指紋を残す訳にもいかないし、ましてや眠っている直子の指紋を部屋のサムターンに残す方法など思いつかなかった。いや、そもそもサムターンの指紋のことなど考えもしなかった。これは完全に自分のミスだ。
「確かに…。ちょっと変ですね」
あゆみは、そう返すしかなかった。
「ちょっとどころではありません。例のスタミナドリンクのことといい、今回の事件はおかしなところが多すぎます」
「…もしかして山崎さんは、直子さんが自殺ではないと思ってらっしゃるの?」
あゆみは聞かずにはいれなかった。もしかしたら墓穴を掘るかもしれないこの質問を、投げかけずにはいられなかったのだ。
しかし、このあゆみの問いかけに、山崎はすぐには答えなかった。そして、少しの間「ううん」と唸った後、あゆみの方を見てやっと返答した。
「正直、それはまだ分かりませんね。もう少し調べてみないと」
あゆいは内心ほっとしたが、それはおくびにも出さなかった。
「そうですか。何か分かったら、真っ先に教えてくださいね」
「もちろんです」
二人がそんな会話をしていると、カオルと健司のゲームも一段落ついたところらしい。あゆみは山崎と会話をしながら二人の対戦を何となく見ていたが、スコアは健司の方が多く取っていたように思う。しかし、今コート上で元気に笑顔で走り回っているのはカオルの方で、健司はというと、向こう側のコートでへとへとになっていた。いくらあゆみと先に何ゲームかやっていたとはいえ、この疲れ方は尋常ではない。対するカオルの元気さもまた然りだ。どうやらカオルは飲み込みが早いだけでなく、無尽蔵とも言えるスタミナを有しているようだった。
「カオルー。そろそろ帰るよー」
隣にいる山崎が、カオルに呼びかける。カオルはそれに対して「はーい」と返事をしながら、こちらへ向かって走って来た。
「カオルちゃん。あんなに走り回ってたのに、まだまだ元気そうね」
「うん! カオルまだまだできるよ! 次はお兄ちゃんもやる!?」
「僕はもういいよ。健司さんに相手してもらいなさい」
「いや…僕ももう勘弁してください…」
いつの間にかカオルの後ろまで戻って来ていた健司が、よろよろと肩で息をしながら山崎に答えた。
「正直、カオルちゃんがここまでやるとは思ってなかったよ。経験者なら言ってよ」
「カオル、経験者じゃないよ。体育とか、友達と遊びでやってたぐらい」
「え? 本当に?」
「うん。本当」
健司は、信じられないという顔をしていた。
「カオルちゃん。昔から教えれば何でもできちゃう子なんだって」
「へえ。すごいなあ。今度、俺たちのサークルメンバーがもっと大人数集まったときに遊びに来てよ。カオルちゃんみたいにテニスが上手くて可愛い子なら、みんな喜ぶからさ!」
「え!? いいの!? 行きたい行きたい!」
「うん。是非おいで」
「健司。言っとくけど、カオルちゃん、まだ高校生だからね?」
「え!? そうなの!?」
どうやら健司は本気で驚いているらしい。
「いやあ、カオルちゃん、中身はともかく見た目はすごく大人っぽいから、てっきり同い年ぐらいかと思ってたよ」
「本当ですかあ? 何か嬉しいです!」
健司の言う通り、確かにカオルの体は大人っぽい。特に胸やお尻の辺りが。あゆみは、そこに関しては少し敗北感を禁じえなかった。
「では、我々はこの辺でお暇します」
山崎がそう言ってベンチから立ち上がると、その腕にカオルがくっ付いた。
「ちょ…カオル。お前…汗が…」
「またいつでも来てください。山崎さん。それにカオルちゃん」
「はーい! また来まーす!」
「はい。ありがとうございます。ちょ…カオル。一旦離れて」
健司の爽やかな挨拶に答え、山崎とカオルはテニスコートを去って行った。
「なかなか面白い人だね。あの山崎さんって人」
「…」
「あゆみ?」
「え? あ…うん。そうね…」
今のあゆみに、健司の言葉は耳に入って来なかった。