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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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譲れない女4

「そっか。分かった。じゃあ、今度の最終回が、『石橋うさぎ』としての最後の仕事ね」

「そうなるわね…」

 直子は、少し怪訝な表情をしていた。

「どうかした?」

 あゆみは尋ねずにはいられなかった。

「いえ。ただ、あなたならもっと怒り出すかと思って。正直、一発殴られるぐらいは覚悟してたから」

「失礼ね。まあ、昔の私ならもしかしたらそんなこともあったかもしれないけど、私ももう大人なのよ? そんな子供のヒステリックみたいなことしないわよ」

「それもそうね。ごめんなさい。変なこと言って」

 直子は、再びパソコンの方へ向き直り、キーボードを叩き始めた。

「いいの。それより、何か飲む? コーヒー淹れるけど」

「うーん。別にいいわ。あんまり喉渇いてないし」

「淹れさせてよ。もしかしたら、これが最後かもしれないでしょ?」

「…分かったわ。お願い」

 直子は、少し考えてからあゆみの申し出を了承した。冷たいように見えるが、根本は優しい人間であることを、あゆみは知っていた。そして自分がその優しさを利用しようとしていることに若干の罪悪感を覚えたが、それでもこれから行おうとしている計画を中止するつもりはなかった。

 あゆみは部屋の奥に備え付けてあるコーヒーメーカーの前へ移動し、コーヒーを淹れる準備を始めた。直子の方へは背中を向けている形になる。

 あゆみは慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。あゆみにとっては慣れた作業である。あゆみはこれまで何度も直子にコーヒーを淹れて来た。単純に、直子よりもあゆみの方が、作るコーヒーが美味しかったのだ。直子は、こういう細かい作業が苦手だった。

 あゆみはいつものようにコーヒーを淹れた。直子は大の甘党だ。少しでも苦みが残っていると全く飲んでくれない。あゆみはコーヒーの中にミルクを注いだ後、佐藤を多めに投入した。黒に近い茶色からすっかり淡い茶色へと変わった、コップの中の液体を見ながら、あゆみは背後にいる直子に気付かれないように、棚の中から小さな瓶を取り出した。瓶には「睡眠導入剤」と書かれたラベルが貼ってある。あゆみは音を立てないようにゆっくりと瓶の蓋を開け、中から錠剤を取り出そうとした。

「ところで―」

 突然の直子の声に、あゆみは一瞬心臓が止まる思いをした。あゆみは瓶が直子からは見えないように自分の体で隠し、直子の方を振り向いた。

「ど、どうしたの?」

 声に焦りが出ないよう必死に誤魔化してはいるが、どうしても声が上ずってしまう。直子に不信感を抱かせてはならない。あゆみは必死に平静を装った。幸い、直子の目はパソコンの画面に釘付けで、あゆみの方には全く目もくれないので、あゆみの異変には気付いていない様子である。

「ここにあるあなたの荷物だけど、できるだけ早く持って行って欲しいの。できれば来月までに。あなたの後釜になる人がそれぐらいの時期に来ることになってるから」

「…ああ、そっか。分かった。ちょっとずつ運んでいくから」

 あゆみは再び直子に背を向け、作業の続きを始めた。既に完成しているコーヒーの中に、瓶の中から錠剤を三粒取り出して入れた。そして、ミルクや砂糖と並んで置いてあるスプーンを手に取って、コーヒーをかき混ぜながら、コップを直子の方へ運んでいった。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 直子は礼を言ってコップを手に取り、迷わず口へ運んだ。できたてで熱いために、直子はズズズと音を立てながら、ゆっくりとコーヒーを喉に通していった。それを、あゆみはまじまじと見つめた。

「どう? 美味しい?」

「ええ、とっても。相変わらずあなたの淹れたコーヒーは美味しい。あなた、漫画かじゃなくて喫茶店でも開いたら?」

 直子は全く表情を崩さずに冗談を言った。これが冗談であることは、直子と何年も行動を共にした人間にしか分からないだろう。直子のつまらない冗談を聞くのもこれで最後になるのかと、あゆみは少し感慨深くなった。

「そうだ。あなた、これからは他人に対する言葉遣いに気を付けた方がいいわよ。私や内海さんにはいいけど、普通年上の人間には敬語を使うものよ」

 直子は、あゆみよりも四つ年上だった。

「分かってる」

「本当に分かってる? あなたの言葉はいまいち信用できないのよね」

「ふふ。酷い」

「だって前例がいくつもあるからね。あなたが『大丈夫』って言って本当に大丈夫だったことなんて―」

「今日はよく喋るのね」

「そうかしら? 無意識だったわ」

「やっと私から解放されてすっきりした?」

 直子は少し笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。

「これを私が言うのも変な話だけど、あなたの絵の才能は…誰よりも私が買ってる。…あなたなら…日本一の…漫画家にだって…」

 そこまで言って、前に倒れそうになった直子の体を、あゆみが受け止めた。あゆみは直子の体を椅子の背もたれにもたれさせ、直子が確かに眠っていることを確認した。直子は穏やかな顔で寝息を立てている。その寝顔は、さっきまで自分に小言を言っていた口うるさい人間のものとは思えないほど美しいと、あゆみは思った。しかし、名残惜しくはない。この寝顔を、自分は今からこの世から抹消しようとしている。

 まずあゆみは、棚の中にしまってあった手袋を取り出し、自分の手にはめた。そしてそのまま眠っている直子の手を持ち、直子の指でキーボードを打って新しい文書を開かせた。そのまま直子の指でボタンを押していく。眠っている人間の指を持って文章を打たせるのは少々骨が折れたが、五分ほどかけて何とか目的の文章を完成させることができた。

次に、あゆみはベランダに出る為の窓の鍵を開けた。これで準備は整った。あゆみは手袋を外し、自分の鞄に入れ、作業部屋を出た。

 部屋を出ると、芳子がさっき見たときと同じ場所で同じように仕事をしていた。芳子はあゆみに気が付き、声をかけて来る。

「あら。もうお帰りですか?」

「うん。内海さんはまだやってたのね」

「はい。お二人がまだお仕事中なのに、私が先にお休みするなんてできませんから」

「そんなの気にしなくていいのに」

「そういう訳には…。ところで、直子さんの話って―」

「あーごめんなさい。私、今日はもう帰って寝ようと思うの。テニスで疲れちゃって」

「あ、それもそうですね。すいません。気が利きませんで」

「いいのよ。それじゃ、お疲れ様」

「お疲れ様です」

 あゆみは芳子に労いの言葉を告げ、玄関から外へ出た。そしてエレベーターを使って一階まで降りた後、階段を使って再び九階を目指した。ゆっくり昇っていては直子が目を覚ましてしまうかもしれないため、できるだけ急いで昇って行った。九階まで階段を走って昇るのはかなり息が切れたが、普段テニスで鍛えている成果もあり、何とか数分足らずで再び九階の廊下に戻って来ることができた。

 九階に戻ったあゆみは、少し前に自分が通った道を辿るように、廊下の奥へと進んで行った。そしてある部屋の前で立ち止まる。その部屋は、さっきまで自分がいた九〇一号室ではなく、その隣、九〇二号室だった。あゆみは念のため、さっき鞄にしまっておいた手袋を再びはめ、鞄の中から鍵を取り出し、部屋の鍵を開けて中に入った。部屋の電気を付けると、部屋いっぱいに紙の束や本や雑誌などが広がっている。あゆみはそれらには目もくれず、部屋の奥にあるベランダの方へ向かった。ベランダへ出る窓の前には大量の紙の束が、あゆみの腰の辺りの高さまで積み上げられていたので、あゆみはそれを横へどかし、窓の鍵を開けてベランダへと出た。持っていた鞄は、窓の前に置いておいた。

 外は街灯が少なく、月明かりが街を照らしていた。そしてマンションの九階ほどの高さになると、少し肌寒く感じる、しかし心地いい夜風が吹いていた。だが、今のあゆみにそれを「心地いい」と感じる余裕はなかった。あゆみはベランダの柵によじ登った。九階という高さを意識すると、さすがに足が震える。しかし、真夜中の暗さがその高さを有耶無耶にしてくれたお陰で、あゆみはそれほど恐怖を覚えることはなかった。恐怖よりもむしろ、これから人を殺そうとしているその強い意志が、あゆみの心を支配していたのだ。

 あゆみは、何とか隣のベランダへ移ることができた。このマンションのベランダとベランダの間は、板一枚によって隔てられているだけなので、外側から乗り移ることはそれほど難しくない。隣の九〇一号室のベランダに降り立ったあゆみは、さっき鍵を開けておいた窓を開けて、再び作業部屋へと戻って来た。数十分前に見た光景と全く変わらず、直子は椅子にもたれるようにして眠っている。

まずあゆみは、この部屋の鍵を閉めた。これから行う作業を、このドアの向こうにいる芳子に見られる訳にはいかない。あゆみは、芳子に音で気付かれぬよう、慎重に鍵を回した。

 次に部屋の隅にある棚を開け、さっき直子に飲ませた睡眠薬の瓶を取り出した。そして、椅子に座ってぐっすりと眠っている直子の口を開かせ、その口の中に睡眠薬を二、三錠ずつ投入した。当然そのままでは飲み込めないので、さっきまで直子が飲んでいたコーヒーを流し込み、無理矢理睡眠薬を飲ませた。あゆみはそれを何度も繰り返した。時折、直子がむせ返って睡眠薬やコーヒーを吐き出してしまったが、そのたびにこぼれたコーヒーをハンカチで拭き、また薬を飲ませる。その作業を何度も繰り返し、二十分ほどをかけてやっと瓶の中の錠剤のほとんどを飲ませることができた。作業を終えたあゆみの額には、大粒の汗が流れていた。

 しかし、あゆみの作業はまだ半分ほどしか終わっていなかった。あゆみは机の上にある直子のスマホを手に取って、電話帳から自分のスマホへ電話をかけた。あゆみは自分のスマホに着信があったことを確認し、電話を切ってスマホを元の位置に戻した。そして、床や机の上に落ちた睡眠薬の錠剤を拾い上げ、瓶の中に戻す。それが終われば、ポケットからハンカチを取り出し、部屋に付いている自分の指紋を拭き取って行った。この日、あゆみがこの部屋でしたことは、冷蔵庫から取り出した炭酸飲料のジュースを飲みながら、直子と話をしたことだけ。そう思わせるため、余計な指紋は全て拭き取っておく必要がある。あゆみが真っ先に指紋を拭ったのは、コーヒーメーカーだった。次に睡眠薬の瓶、そしてコーヒーの入ったコップである。直子は自分でコーヒーを淹れ、自殺したと思わせなければならない。そのため、この三つの指紋は絶対に除去しておく必要があった。

一通り指紋を拭き終えたあゆみは、そのまま来たときと同じようにして、ベランダから九〇二号室へと戻った。ベランダを出ると、窓の鍵を閉め、さっきどかした紙の束を元の位置に戻し、置いておいた自分の鞄を手に取ってから、早足で部屋を出て行った。

 そして、次が最後の仕上げだ。あゆみはまた階段で一階まで駆け下り、エレベーターを使って九階まで上がって行った。あゆみは一度このマンションを出て、しばらくしてから戻って来たと思わせたい。帰るときはエレベーターの監視カメラに映っていたのに、戻って来たときは映っていなかったのでは意味が無い。あゆみは、計画に漏れが無いよう、全力で頭を回転させていた。こんなに頭を使ったのは、人生でも初めてかもしれなかった。

エレベーターのボタンを押すとき、自分がまだ手袋を付けたままであることに気が付いた。あゆみは自嘲気味に笑い、手袋を外して鞄に入れた。帰るときには付けていなかった手袋を、戻って来たときは付けていたら、それもまた不信感を抱かせることになるだろう。

 再び九階に戻って来たあゆみは、既に満身創痍だった。しかし、まだ最後の一仕事が待っている。もう一度九〇一号室に戻り、芳子の前で一芝居打たなければならない。もちろんあゆみに演技の経験など無かったが、だからといってやめる訳にはもちろんいかない。あゆみは九〇一号室のドアの前で大きく息を吐いてから、鍵を開けた。



 時刻は既に一時を回っていたが、芳子はまだ仕事を続けていた。「石橋うさぎ」宛に送られてきたファンレターの選別である。そのほとんどは、いかに自分が「大正恋物語」を愛しているかを、読んでいる方が恥ずかしくなるぐらいにつらつらと書いているものなのであるが、時折、いわゆる「過激なファン」からの手紙も交じっていることがあるのだ。それを直子やあゆみの目に入れる訳にはいかないので、こうして事前に芳子がチェックするのだ。このファンレターは何百通が毎日のように送られてくるので、選別にもかなり骨が折れるし、今日のように夜中まで作業が続くこともよくあるが、芳子はこの時間が好きだった。「石橋うさぎ」が褒められているのを見ると、まるで自分が褒められているように嬉しかった。こうしてファンレターを読んでいる時間は、芳子の癒しだったのだ。

 芳子が笑みを浮かべながらファンレターの数々を読んでいると、突然部屋のドアを勢いよく開ける音がした。芳子は思わず飛び上がり、玄関の方へ目をやった。一瞬強盗でも入ったのかと思ったが、入って来たのはあゆみだった。

「あゆみさん? どうされました? こんな時間に。それにすごい汗」

「ああ、内海さん。まだ起きてたのね。ちょうどよかった。さっき直子さんから変な電話があって…」

「変な電話?」

「うん。何か、『もう疲れた』とか『さようなら』とか、変なことばっかり言ってて…」

「それって…」

 芳子は血の気は引くのを感じた。

「内海さん。作業部屋から何か物音とか聞こえませんでした?」

「いえ。そんなの全然」

 芳子はずっとこの部屋で仕事をしていたが、作業部屋の方から物音など全く聞こえなかった。尤も、ここ最近の芳子は耳が少し遠くなってはいるが。

「そう。とにかく、直子さんが心配。部屋の鍵はある?」

「はい。この机の中に…」

 芳子は自分の机の中から鍵の束を取り出し、そこから一つを取り出した。

「これです」

「ありがとう」

 芳子は鍵をあゆみに手渡した。あゆみは受け取った鍵で作業部屋のドアを開け、芳子と共に部屋の中へと入った。

 部屋に入ると、パソコンの乗った仕事机の前で、椅子の背もたれにのけ反るようにして寝ている直子の姿があった。明らかに普通ではない。

「直子さん!」

 芳子は大声で直子の名前を叫び、眠っているというより気を失っている直子の元へ駆け寄った。

「直子さん! 直子さん! 直子さん!」

 芳子は何度も直子の名を叫び、体を揺り動かすが、直子が意識を取り戻す気配はない。あゆみは、入口のところで未だ呆然と立ち尽くしている。あゆみは、やっとのことで声を発した。

「内海さん! 救急車!」

「あ…はい。そうですね!」

 芳子は慌てて直子の元を離れ、作業部屋を出て自分の机に置いてある携帯電話から一一〇番へ電話した。芳子はかなり慌てているが、それでも何とか今の状況を伝えられたようだった。あゆみは、いつの間にか芳子がいる部屋のソファに腰掛けていた。


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