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山崎警部と妹の日常  作者: AS
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譲れない女3

 あゆみは心の中にモヤモヤしたものを抱えながら、奥の作業部屋へ足を踏み入れた。背後からは芳子の不安そうな視線を感じていた。

 中に入ると、直子がノートパソコンのキーボードをカタカタと叩いていた。あゆみにとっては、もう何年も見た、お馴染みの光景である。

 直子は、胸の辺りまで伸びた黒い髪に対照的な白い肌をしており、顔には黒縁の眼鏡をかけている。直子は仕事をしているときはいつも化粧をしていないが、それでも美人に入る部類だろうと、あゆみは思っていた。あゆみが「陽」の美人なら、直子は「陰」の美人とでも形容しようか。尤も、直子にはそんな自覚は全くないようだが。

「おかえりなさい」

 直子はパソコンの画面を見たまま、淡白な口調であゆみを迎えた。

「ただいま。あー喉渇いた」

 そう言いながら、あゆみは部屋の隅にある小さな冷蔵庫から炭酸飲料の入った缶を取り出し、喉を潤した。

「テニスは楽しかった?」

「うん。まあね。直子さんは今日は泊まり?」

「そうなりそう。あなたの方は大丈夫なの?」

「大丈夫。もう来週の分までほぼできてるから」

「本当かしら。あなたがそうやって自信持ってるときって、ろくなことがないのよね。キャラの利き手が逆になってたり、前髪の分け目が逆だったり、目の色が違ってたり…。しかもそれがいつも直前になって発覚するからたちが悪いのよね。この間だって―」

「そのことはもう何度も謝ったじゃない。今頃になって蒸し返すのはやめてよ。何なら、この前完成したやつ確認してみる?」

「うーん。今日はいいわ。こっちに集中したいから」

 あゆみと会話している間も、直子はずっとパソコンの画面に釘付けだった。

 他愛のない話も一段落ついたところで、あゆみは直子が自分を呼び出した理由を聞いてみることにした。本当は、直子の方から切り出してくるものだとばかり思っていたが、なかなかその気配がないので、結局あゆみの方から切り出すことにしたのだ。

「ところで、直子さん。今日は何で呼び出したの? 何か大事な話があるんじゃないの? 一応、私も運動後にすぐ帰って寝たいところを無理して来てるんだけど」

 あゆみは少し毒づいてみた。しかし、直子は毅然とした態度で、相変わらずパソコンの画面を見ているばかりだった。

「ごめんなさいね。本当は私の方から言い出さなきゃいけないはずなんだけど、なかなか言い出しにくくて…」

「言い出しにくい話なの? シナリオが大幅に変わるとか?」

「いえ。シナリオに変更はないわ」

「じゃあ、私の絵に何か問題が?」

「いえ。それも違う。漫画の話じゃないの。私たち自身の話よ」

「私たち自身の話? どういうこと?」

 直子は少し間を取ってから、なおもキーボードを打ったままで言った。

「私たち、コンビを解散しようと思うの」

「え…?」

 あゆみは、一瞬直子が何を言っているのか理解できなかった。コンビを解散? 自分と直子が? あまりにあゆみの予想の埒外の話だったために、あゆみはしばらく何も言うことができず、ただ直子の次の言葉を待つしかなかった。直子が次に口を開くまでに、十数秒かかった。

「…私、他の漫画家と組んでみたくなったの」

 その言葉を聞いて、あゆみはようやく声を発することができた。

「え…ごめんなさい。ちょっと理解が追いついてなくて…」

「ごめんなさい。あなたにとっては急な話よね。でも、私はもう一年ぐらい前からこのことを考えてた」

「ねえ、どうして? 私の何が不満なの? 私の絵じゃ駄目ってこと?」

「そうじゃない。あなたの絵には何も不満はない。むしろかなり満足してるぐらい」

「じゃあ何で?」

「理由は大きく二つ。一つは、さっきも言った通り、単純に他の人の絵でも物語を書いてみたくなった。自分の新たな可能性を試してみたくなったのよ。あなたもクリエイターなら、この気持ち分かるでしょ?」

 あゆみは何も答えなかった。何も答えたくなかった。

「そしてもう一つの理由は、あゆみさん。あなたの素行の悪さ」

「私の…?」

「そう。昔から分かってたことだけど、あなたの最近の素行の悪さは目に余る」

「…どういうこと?」

 そう聞き返したが、あゆみにも心当たりがない訳ではなかった。そして、あゆみに心当たりがあることを、直子の方も見抜いているようだった。

「どういうことって…。私に一つ一つ説明させるの? 原稿は遅らせるわ、ミスは多いわ、この前はサイン会に寝坊して大遅刻までしたわよね?」

「確かに、直子さんには迷惑ばっかりかけてきたけど、でも、今までそれでやって来たじゃない。今更そんなこと―」

「あなたにとっては『今更』でも、私にとっては何年も我慢が積み重なった結果よ。それにね、正直、あなたがどんなミスをしようと、それは私が頭を下げればいい話。そんなのは大したことじゃない。もっと重要な理由が他にあるの」

「もっと重要な…? 何…?」

 直子は溜息を一つついてから、あゆみの問いに答えた。

「あなた、この前、ここに友達を泊めたでしょ?」

「うん。この近くで飲んでて、もう終電も無くなってる時間だったから。え? それが理由? それがそんなにいけないこと?」

「当たり前でしょ? あなた、もしその友達が同業者、もしくは知り合いに同業者がいたらどうするつもりなの?」

「そんなことある訳―」

「ないってどうして言えるの? あなたはその友達のことを何もかも知ってるの? 絵を描いてるだけのあなたには実感がないだろうけど、私たち原作者にとって、アイデアの盗作は死活問題なのよ?」

 あゆみは言い返せなかった。

「…ごめんなさい。『絵を描いてるだけ』ってのは言い過ぎたわ。私も冷静さを欠いてた。ただ、そういうことにルーズな人とは、今後一緒に仕事をしていく自信はない。正直なところを言えば、あなたの絵が無くなるのは惜しいけど、『大正恋物語』ももうすぐ最終回だしキリもいいんじゃないかしら」

「…それは、もう決定なの?」

「そうね」

 あゆみは、あまりにあっけなく終わりが来たことに言葉を失っていた。あゆみは、どんなに口うるさくても、どんなに厳しくても、なんだかんだで直子のことが好きだった。そして直子の紡ぎ出すストーリーが大好きだった。あゆみにとっては、直子の考えた物語で絵を描くことが何よりの幸せであり、あゆみはこの幸せが一生続くものだとばかり思っていた。いくら原因は自分にあるとはいえ、それがこんな形で終わりを迎えるとは思ってもみなかった。

「大丈夫よ。あなたの実力なら、イラストレーターとしても充分、いや、十二分に食べて行けるわ。どうしても漫画がいいって言うなら、私が良い作家を紹介してあげてもいい。まあそんなことしなくても、あなたの絵なら引く手あまただと思うけど」

 直子はそう言ったが、あゆみは直子以外の作家と組むなど考えられなかった。直子以上に面白い話を書ける作家などいないと思っていたからだ。仮に直子以外の作家と組んで漫画を描いたなら、必ずどこかで物足りなさを感じるだろう。イラストレーターも同様だ。

「もしくは、これからはあなたが自分で物語を考えて、絵も自分で描いてみたら? 本来は漫画家ってそういうものだし」

 続いて出された直子の提案は、あゆみにとって最も現実味のないものだった。もし自分がストーリーも考えたとしたら、直子との差を眼前に突き付けられるだけだ。あゆみには、直子のように魅力的な物語を作ることはできない。そのことは、あゆみが誰よりも自覚していた。

「私には…無理よ…」

「そんなことないと思うけど。あなただって、ここに来て何年も経つんだから、その間にクリエイターとして充分成長したと思うわよ

「だとしても、直子さんには敵わないよ」

 直子は何も答えなかった。

「…決意は固いのね」

「ええ」

「直子さん」

「何?」

「…こんな話するときぐらい、こっち向いてよ」

 直子は、終始パソコンの画面を凝視していて、あゆみの方は全く見ていなかった。あゆみの言葉を聞いて、直子はキーボードを叩いていた手を止め、顔をあゆみの方へ向き、あゆみの目を真っ直ぐに見た。

「あゆみさん。今までありがとう。あなたには本当に感謝してる。これからは別々の道に進むけど、お互い頑張りましょう。私、あなたのこと応援してるから。これが、今の私の本心よ」

 あゆみは、直子の真っ直ぐな目に、直子の決意の固さを悟った。

 この人はいつも勝手だ。自分で何でも決めてしまう。自分をコンビと組みたいと言ったのも、コンビを解消したいと言ったのも、全て直子一人の独断だ。ただ、直子のその勝手な判断は、いつも正しかった。直子が間違った判断を下したことは、あゆみの知る限り一度も無かった。あゆみとコンビを組んで「大正恋物語」を大ヒットさせたのが、その良い例だ。きっと、今回のこの判断も正しいのだろう。しかし、あゆみはどうしても受け入れることができなかった。「正しさ」など、あゆみにとってはどうでもよかった。あゆみはただ、直子と一緒に仕事ができればそれでよかったのだ。

 そしてそのとき、あゆみの頭の中にある恐ろしい考えが浮かんだ。しかし、そのときのあゆみにとって、選択肢はその一つしかなかったのかもしれない。


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