恩師20
「勝手に入って大丈夫なんですか?」
「ああ。ここの生徒や教師たちとは顔見知りでね」
「顔見知り?」
山崎が疑問に思っていると、永峰学園の生徒数人ーー山崎にとっては後輩にあたるわけだがーーが、芹沢を見つけて駆け寄って来た。
「芹沢先生、久しぶり!」
「先生、また古文教えてよ!」
「先生のおかげで、この前模試でA判定だったよ!」
生徒たちは口々に芹沢に声を掛けた。芹沢は、それら一つ一つに、丁寧に返事をしていった。やがて生徒たちと別れ、再び二人は永峰学園の廊下を歩き出した。
「ここにはよく来るんですか?」
山崎は思わず尋ねた。
「……ここは、私が教師になって初めて赴任した学校でね。思い入れが強くて、たまに近くに来たときに寄ったりしていたんだ。そしたら、いつの間にかここの生徒や教師たちと仲良くなってしまってね。今では、たまに勉強を教えたりしているよ」
「それでさっきも……」
冷静に考えればおかしな話だが、芹沢なら無い話ではないなと、山崎は納得した。芹沢が生徒を思いやる気持ちは、他校の生徒であっても同様なのだ。それも、思い入れのある学校の生徒ならば尚更だろう。他の教師に慕われるのも理解できた。
「さあ、着いたぞ」
山崎がそんなことを考えているうちに、目的地に着いた。そこは、永峰学園校舎の三階にある、三年一組の教室ーーかつて山崎が学び、芹沢が教鞭を振るった教室だった。
「これは……懐かしいですね」
山崎は、自然と教室の中に入っていた。
「私がいた頃とほとんど変わってない」
「確か、君がいつも放課後に一人で本を読んでいたのがこの席だったな」
芹沢は、窓際の前から三番目の机に手を置きながら言った。
「ああ、そうでしたね。あの頃は一人で本ばかり読んでいる根暗でした。まあ、今もたいして変わってませんが」
「そんなことはないさ。君は、立派に成長したよ」
「……」
少し、沈黙があった。
「……では、そろそろ聞こうか。君の大事な話というのを」
「……分かりました……」
山崎は、すうっと息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「……先生。あの日、窪塚先生を殺したのは、先生です」
「……じゃあ、学校に侵入した不審者はどう説明する? 何人もの人間がそいつを見てる」
「あれは先生が変装したものです。雑貨店でナイフを買ったのも、花壇を荒らしたのも、ウサギを殺したのも、全て先生の仕業です。先生は、存在しない架空の犯人を生み出し、あたかも事件の全てはその犯人の仕業であるかのように見せかけたんです」
「どうしてそう思う?」
「犯人が廊下に現れたとき、唯一グラウンドにいなかったのが先生だからです。不審者が学校に侵入したのを見たと言い出したのも先生でしたね。犯人と先生が同時に存在しているのを見た人間は一人もいないんです」
「……しかし、それではあまりにも根拠が弱くはないか? それでは私が犯人だとは言い切れないだろう」
「おっしゃる通りです。先生が犯人であるちゃんとした証拠があります」
「……それは?」
山崎は、一瞬言葉に詰まった。しかしそのとき、頭の中にある言葉が浮かんだ。
”自分の信じた選択をーー”
ここで二の足を踏んでいては、自分に期待してくれている大切な人たちに申し訳が立たない。山崎は、再度息を吐き、胸を張って話し始めた。
「窪塚先生が刺されたあの教室に、一枚の絵が飾ってあったのはご存知ですね?」
「……さあ、どうだったかな」
「知らないはずはありません。あの絵には、三十人ほどの学生と、一人の教師が描かれていました。その教師が誰かに似ているなと思い、あの絵が描かれた当時のことを知っている人を探して聞いてみました。すると案の定、あれは先生と、当時先生が担任していたクラスの生徒たちを描いたものだと教えてくれました。クラスの中で絵の上手だった生徒が描いてくれたものだと。あの絵は当時からあそこに飾られていましたが、生徒たちが卒業し、あの教室が使われなくなっても、記念として飾ったままにしてあったそうですね」
「……それがどうして証拠になるのかね?」
「我々が現場に駆けつけたとき、あの絵の裏の壁に、わずかですが血が付着していたんです。調べてみると、窪塚先生のものでした」
「窪塚君が犯人に刺されたときに飛び散った血、というわけか」
「はい。それはそうなんですが、おかしいと思いませんか?」
「おかしい?」
「だって、窪塚先生の血は、絵の裏の壁に付いてたんですよ? ということは、窪塚先生が殺されたとき、あの絵は壁から外されていたということになります。そして、平井先生と横溝先生が駆けつけて来るまでに元に戻された」
「……なるほど」
「そしてここで問題なのは、絵が”いつ”、”誰によって”、”なぜ”外されたのか、ということです。順番に説明していきましょう。まずは”いつ”からです」
芹沢は、山崎の話をじっくり聞く態勢になった。
「先生はご存知かどうか分かりませんが、あの空き教室で、毎日お昼ご飯を食べている仲良し三人組の生徒がいるんです。彼らの話では、事件の前日もあそこでお昼を食べたそうですが、そのときにはちゃんと絵は飾ってあったそうです。つまり、あの絵が外されたのは、三人組がお昼を食べ終わり教室を出た事件前日の昼から、事件が起きた当日の朝までの間ということになります。ここまでお分かりですか?」
「ああ。分かりやすくて良い説明だ」
「ありがとうございます。そして次に”誰が”ですが、これは先程の”いつ”を考えれば自ずと分かってきます。事件前日の昼から、事件当日の朝までにあの教室に入った人間は、大沢高校の全校生徒、および教員の方にお聞きしましたが、一人もいませんでした。もちろん、窓には鍵がかかっており、誰かが侵入した形跡も無い。となると、絵を外した人物として考えられるのは三人。あの日空き教室に入った、芹沢先生と窪塚先生、そして犯人、ということになります。ではこの三人のうちの誰なのかですが、それは絵を元の位置に”戻した”のが誰なのかを考えれば簡単に分かります。なぜなら、絵を外した人物と元に戻した人物は、必ず同じであるはずだからです」
芹沢は黙って聞いている。山崎は続ける。
「では誰が元に戻したのか。一人ずつ考えてみましょう。まず犯人ですが、人を殺して一刻も早くその場を立ち去りたい人が、わざわざ絵を飾ったりするはずがありません。なので候補から外します。続いて窪塚先生。もし窪塚先生が戻したんだとしたら、ナイフで刺されて今にも死にそうな状態で絵を飾ったということになります。いくら格闘技をやっていて体が強いと言っても、そんなことは不可能です。なのでこれも違う。ということは、絵を飾り直したと考えられる人物は残った一人。芹沢先生、あなたです」
「……」
「という訳で、絵を外したのも先生です。おそらく、事件の前日、生徒と教師が全員帰った後、夜の学校に忍び込んでこっそり絵を外したんでしょう。いかがですか?」
「……続けて」
「……はい。そして最後に”なぜ”ですが、これが最も重要なポイントなんです。なぜ先生は、わざわざそんな手間をかけてまであの絵を外したのか。それがずっと分からなかったんですが、昨日先生のご自宅に伺ったときに分かりました。あのときに見た、これまでの教え子たちとの思い出の品々。先生の生徒たちに対する愛情が痛いほど伝わって来ました。あの絵も例外ではなく、先生の宝物であるはずです。そんな宝物を憎い人間の血で汚すことは、どうしても我慢できなかった。だから先生は、あの絵を外したんですね」
「……」
芹沢は何も答えない。山崎は続ける。
「……つまり先生は、少なくとも事件が起きる前の日から既に、あの教室で人が殺されることを知っていた、ということになります。……これが、先生が犯人である証拠です」
「……」
「……」
少し沈黙が続き、芹沢が口を開いた。
「……遅かれ早かれ、自首しようと思っていた。あんな男でも、やはり殺せば罪だ」
「……動機はやはり、野口聖子さんのことですね……」
「……あの子は、他の教え子たちと同様、私の大事な”子供”の一人だ。その中でも彼女は、最も純粋で素直な子だったと言っていい。奴はその素直さに浸け込み、彼女を陵辱し、翻弄し、蹂躙した」
「……」
「あの子は、卒業後も何度か私に会いに学校に遊びに来ていたんだ。だが、窪塚の話は一切せず、いつも何てことのない世間話をしに来るだけだった。今思えば、あれはあの子から私に対するSOSだったんだろう。あの子は私に会いに来る度に、どんどん痩せていっていた。私は、年頃の女の子だから、少し無理なダイエットでもしているんだろうと、そこまで気にしていなかった。あれは、窪塚に薬物を飲まされたことによる影響だったんだ。それから数日後、彼女が死んだことを、テレビのニュースで知った」
「……」
「気付くチャンスは何度もあった。……しかし、彼女の助けを求める声に、私は気付けなかった……! こんなに悔しいことはない……! 彼女の葬儀に参加したが、火葬されたあの子の骨は、当時の年齢では考えられないほど細く、脆かった。私は、涙が止まらなかったよ」
「……」
「あの子が死んで数カ月後に、窪塚と付き合っていたことを知った。あの子と仲の良かった生徒から教えてもらったんだ。そのとき、あの子が窪塚からどんな扱いを受けていたのか、どうしてあの子がベランダから落ちたのか、全てを教えてもらった。……あのとき、私は何度窪塚を殺してやろうと思ったか分からない。ただ、あの子が死んだ後、窪塚は行方をくらましていたし、それよりも彼女を死を悼むことに頭を使おうと、窪塚のことは忘れようと思った。だがその数年後、奴は再び私の前に現れた。奴は私のことなど忘れていたが、私は忘れるはずなどなかった。そして何より、あんなことがあったにも関わらず、まだ教壇に立って生徒たちを教えていることが信じられなかった。だがそれでも、私は事件のことは忘れようと思っていた。そんなときだった。奴はあろうことか、大沢高校でも生徒に手を出そうとしていることを知った。私は、また彼女のような被害者が生まれてしまうと思った。そして確信したんだ。これは”窪塚を殺せ”という天啓が下ったのだと。その先は、君も知っての通りだ……」
「……」
「……山崎君。こんなことを教え子である君に尋ねるのは恥だと承知の上で聞く。私は悪だろうか?」
「……悪?」
「もちろん、正義ではないことは分かっている。どんな理由があっても、人殺しは罪だ。だが、果たして私は悪なんだろうか? 今更そんなことを言っても遅いが、これだけは君に聞いてみたい」
「……そうですね……」
山崎は、少し考えて、答えた。
「この世の何が正義で、何が悪か。それはきっと、いくら考えても答えなんて出ないことだと思います。ただ、もしこの世に本当の意味での正義があるとするならば、それは”赦す”ことではないでしょうか?」
「赦す?」
「はい。どんな人間も優しく包み込み、たとえ悪人でもそれを赦し、やがて善に変えてしまうような。そんなものがあれば、それは正義と言えるのではないでしょうか」
「……理想的、というより、非現実的だな。……だが、悪くない答えだ」
「ありがとうございます」
山崎は、先生に褒められた生徒のように、照れくさそうに笑った。
芹沢は、どこかすっきりした表情で、窓の外を眺めた。
「山崎君……」
「……はい」
「逮捕されるのが君で、本当に良かった。君は、私の自慢の息子だ」
山崎は、何も言わず微笑んだ。それを見て、芹沢も同様に微笑んだ。
窓から差し込む温かい夕日が、二人を包んでいた。